北アルプス

重太郎新道から前穂高岳ふたたび(後篇)

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息子の罫君にダウンのシュラフを貸与しているので、私はシュラフカバーの中に、インナーシュラフを重ねて包まっている。暦表では十月になった北アルプス、岳沢小屋のテント場は、其れ程の寒さでは無いので、快適に眠ることが出来た。何よりも、いつもひとりで過ごすテント内に、ふたりで居るというだけで暖かい。

深夜に目覚め、テントの外に出ると、小粒の雨が降っていた。どうなることやらと、半ば諦めたような気持ちになって、ふたたび眠りに就いた。出発予定時刻の一時間前、午前四時のアラームで目が覚めると、テントを打つ雨音が激しい。駄目だったかと、私は観念して、雨が止むまで待機することを罫君に告げた。することもないので、シュラフカバーに戻った。止むを得ない、そう内心で呟いて、また眠り込んだ。

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2016/10/2
岳沢小屋(6:30)---カモシカ立場(7:20)---雷鳥広場(8:40)---紀美子平(9:05)---前穂高岳(9:50)---重太郎新道---岳沢小屋(13:00)---上高地(15:10)

茫洋とした意識に、鳥の囀る声が聞こえてくる。鳥が鳴いている。其の意味が脳に伝わる迄、、一瞬の間があった。そして、私は唐突に覚醒した。半身を寝具に入れた儘、テントの外に顔を出してみる。夜が明けたばかりのテント場に立ち込める霧が視界に入り、私は、慌てて現在時刻を確認した。一時間以上も眠ったようであった。雨が止んで、どのくらい経ったのだろうか。其れは判らないけれども、此れで、取り敢えず、重太郎新道を登ることができそうである。焦って行動することは、出来ない。私は、既に登頂は諦めることに決めて、ゆっくりと、登山の準備を始めた。

携帯式のサブザックと、クレッタルムーセンGungner40に、雨具と飲料と昼食用のカップ麺、そしてジェットボイルを詰めて、準備は終わりである。焦っていないことを確認するかのように、私は罫君と連れ立って、岳沢小屋のトイレ迄歩いた。上厠を済ませて、ふたたび瓦礫場の道をテント迄登った。其れだけで、起きぬけの身体に気怠さが染み渡ってくる。予定の出発時刻を一時間半も過ぎて、何処迄登っていけるのか、そんなことを思いながら、少し曖昧な気分で、私は出発を告げた。罫君は、満を持して、と云う感じでヘルメットを被り、其の表情に気怠い様子は窺えない。事前に説明している、重太郎新道の梯子と鎖場を想像して、緊張の面持ちのようであった。

雨上がりの朝靄の中を、無言で登り続けると、程無く岳沢小屋の赤い屋根を眼下にするようになる。全身の気怠さは、登り続けていくうちに消えて、ソフトシェルの上着に包まれた肌が熱気を帯びてくる。身体中が、漸く目を覚ましたような気分である。踏路は傾斜の度を増していき、木々の色彩は未だ、どんよりとした周囲の空気に寄り添うように、モノトーンの儘だった。楽では無い筈の勾配だが、私の前を、淡々と歩き続ける罫君の動きに逡巡は無いようである。

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紅葉の木々が岩壁に貼りつくようになって、鉛色の風景が少しだけ明るさを表出させる。巨岩の折り重なる踏路が始まり、やがて其の隙間を攀じ登る、と云う展開になる。私は罫君の前に出て、三点支持と、適切な岩の手掛かりの位置を示しながら、先に登る。攀じ登っていく先は、身体がやっと擦り抜けられる程度の幅であった。其れを少々の手間を掛けながら、罫君が登ってくる。其の、真剣な面持ちに、思わず笑ってしまう。

最初の岩場を終えると、直ぐに長い梯子が現われた。罫君に拠ると、最も恐れていた場所だと云う。摑まっていれば確実に安全な人工物なのだが、其れは必然的に垂直の儘高い処に登っていくと云うことで、其れが怖いと云う。理屈は判るけれども、此れを登らなければ先に進めない。怖いのならば、後からついて来るかと訊くと、ひとり残ると心細いから先に登る、と云った。恐怖感を秤にかけているようで、其の緊張感は充分に伝わってくる。そうして、ひとつひとつ、梯子段に足を掛けて登っていった。其の姿を下から見ながら、まさかとは思うが、落ちてきた場合に受け止められるような体勢に、私の身体にも力が入る。

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個人的に最大の難所と位置付けていた梯子を登りきって、罫君の動きも軽快になってきたようであった。カモシカ立場で漸く視界が開ける筈だったが、西穂の断崖は、幽谷の趣で霧に包まれている。重太郎新道は、此処からが岩礫の踏路が延々と続いていく。時折現われる鎖の付いた傾斜を、罫君が渾身の表情で登ってくる。其れを見て、鎖を両手で握り締めると、三点支持にならない、と云うようなことを伝える。息の荒い罫君が、無言で頷く。明神の岩崖が、黄葉の向こうに現われた。霧は未だ穂高に纏わり付いて、離れていく様子が無い。

瓦礫の岩肌に、白いペンキマークが点在している。其れに縋るようにして、罫君は四つん這いになって登り続ける。先行する私は、其れを上から眺めている。岳沢の底が、時折霧の合間に覗く。後方に、登山者のグループが現われた。追い着かれるかなと思うが、罫君は休むことなく登り続けている。今迄登ってきた山は何だったんだ。鎖を握り締めた罫君が、唐突に、感極まったように叫ぶ。私は、我が意を得たり、と云う気持ちであった。

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我々が雷鳥広場に到達したのは、テント場を出発して二時間が経過した八時四十分で、其れは驚くべき事実だった。前穂高岳に登頂できるのが、午前十時台であれば、其の実現は可能であると、私は考えていたので、此処迄の所要時間は、予想外の出来である。罫君が、辿り着いた途端に巨岩の上に仰臥している。精根尽き果てた、と云った様子にも見える。

駄目かなと思ったが、頂上迄行けそうな時刻だけど。そんな声を掛けてみると、其れなら行こうか、と無表情で云った。此処迄の途上で、申し分の無いペースで登っていると、彼を励まし続けてきたが、芳しい反応は無かった。登頂してやるぞ、と云う気負いも見受けられないし、仕方ないから登るか、と云うような、義務を課せられた虚無感を漂わせている訳でも無い。要するに、何を考えているのか判らない。確かなことは、此処迄、通常よりも早い所要時間で歩き続けて来たと云うことだけである。岩の上に大の字になっている罫君が起き上がったので、其れなら登るか、と、私は鸚鵡返しのような曖昧な返事をする。後続のパーティが登ってきたのを機に、我々はふたたび登りに掛かった。

二度目に登った重太郎新道の時に、吊尾根から見下ろした雷鳥広場を脳裏に描いた。楕円形の岩が突き刺さったような瓦礫の尾根は、恐竜の背鰭のようだった。今、其の上を歩いている。霧が晴れていれば、紀美子平は直ぐ間近に在る筈だが、相変わらず視界は開けない。踏路は、ふたたび巨岩の折り重なる勾配になり、いよいよ最後の長い鎖場に差し掛かった。濡れた岩に刻まれた裂け目に、慎重に爪先を引っ掛け、鎖にしがみつく様にして罫君が登攀している。鎖の無い箇所に掛かると、我罵っと四つん這いになって登り続けている。前を行く私に追い着いて、とうちゃん余裕だね、と罫君が云う。二本足で登っている私は、ふたたび、我が意を得た気分になっている。

雷鳥広場から僅か二十分程が経ったばかりの、険しい鎖場の途上で、背後が明るさを増してきた。頭上は厚い雲に覆われているが、遥か遠くの岳沢が、眩い緑色の山肌に変わっていた。晴れる。何と云う僥倖なのかと、私の意識が高揚してくる。罫君は、必死の形相で、登り続けている。巨岩の上に、僅かに抉られたクラックに手足を確保して、登っている。此の穴は、誰かが作ったのかな。丁度いい場所に刻んである。そう罫君が云った。

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長い鎖場の果てに、最後の梯子を経て、紀美子平に到達した。出発から約二時間半が経っていた。標準コースタイムよりも随分早く、此処迄来ることが出来た。滑らかな表面の巨岩に囲まれた紀美子平には、デポされたザックが散乱するように置かれている。其れは考えてみると奇妙な光景なのだが、罫君は到達の充足感で満たされているのか、特に感想は云わない。そして間もなく、周囲を覆っていた白い霧が、照明器具のディフューザーのような、柔らかな明るさになっていった。そして、明神岳と前穂に掛かる雲が流れて、青空が表出した。陽差しに包まれて、暖かくなった紀美子平で、我々は何時迄も空を見上げていた。

充足感に包まれていたが、陽が差し込んできた頃合に此処に居る状況に、逸るような気持ちになって、我々は前穂に向かって登攀を開始した。サブザックに飲料を入れて、Gungner40はデポした。最後の登攀は険しいが、三十分で登頂することができる。岩塊の頂点に向かって、夥しい空身の登山者たちと擦れ違いながら登った。南側に回り込んで明るくなった処で、罫君が少し苦しそうな顔をしている。どうしたのかと訊くと、なんだか腕が痛いと云う。疲れたのではなく、両腕が肩の辺り迄痺れるように痛いと云った。

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峻険の岩塊、重太郎新道を、罫君はなりふり構わず四つん這いで登ってきた。其の疲労が集積しているのかもしれない。腰掛けて休憩して、水を飲むように云った。後続の徒が、我々の傍らを通り過ぎていく。無理しないで引き返すか、と云うと、罫君はかぶりを振った。おかしいなあ。そんな呟きで腕をぐるぐる回しながらも、罫君は、ふたたび頂上直下の登りに掛かる。白い雲が流れて陽が差し込んで、程無く別の雲が流れてきて頭上を覆った。空が近い。もう直ぐ頂上に着きそうな処で、ふたたび罫君が立ち止まって、少し苦しそうに腕を回す。頂上から降りてきた若い女性が、もう、直ぐ其処だから、と罫君に云った。

瓦礫の地に白い霧が覆われている。前穂高岳の頂上に立ち、罫君は山名標を背もたれにして座り込んだ。四年前に初めて登った此の山頂を思い出して、また霧だけを見るのかと、私は感慨深い気分だった。今日の霧は明るくて、息子とふたりで登頂した満足感もあるので、悲壮感は微塵も無い。私は罫君を立たせて、山頂の北端に向かって歩いていった。歳月を感じさせるケルンが点在している。其の瓦礫の地を踏みしめ、やがて頂上部のエッジに着いた。涸沢カールの広がっている筈の方角を眺めていると、やがて雲が切れて、奥穂の山肌が姿を現わした。ほら、あれ、などと、慌てて罫君に云うが、疲れきった高校生は岩に腰掛けた儘立とうとはしなかった。

山頂に居て、陽が差したのはほんの僅かな時間であったが、其の儚さも、また趣深いものであった。常念岳方面に、雲海が広がっている。其れを眺めて、本当に登頂できたんだなと、私は改めて感慨に耽った。

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腹が減った。ラーメンを此処迄持ってくるんだったあ。罫君が云った。私も、首肯した。早く紀美子平に戻って、ラーメンを喰おうか。そう云うと、罫君は元気よく立ち上がった。

山名標に戻り、ふたりで並んで、写真を撮った。シャッターを押して呉れた壮年氏が、其れを持てばいいと、足元に置いてある、前穂高岳、標高3090mと書いてある板切れを指した。其れをふたりで持って、写真を撮って貰った。帰宅してから、其の写真をプリントして、食卓の壁に貼って、何時も眺めている。写っている親子は、なんとも曖昧な表情をしていた。其れは、嬉しさと安堵感と、疲労感の混淆した、曖昧な笑顔だった。

追記

紀美子平でカップ麺を食し、重太郎新道を引き返した。岳沢パノラマ付近で二十名近い下山パーティに追い着いて、渋滞に巻き込まれながらも、なんとかパスして岩塊の道を下った。岳沢小屋に帰還して、罫君は漸く笑顔になり、着込んでいた服を脱いだ。岳沢の登山道を軽快に踏破し、河童橋で、最後の記念写真を撮って貰った。岳沢の上方に聳えている筈の穂高連峰は、やはり雲に覆われて見えなかった。

帰途のバスで新島々駅迄。其処から電車で松本駅に着き、予約済みの高速バスの発車時刻迄、松電バスターミナルビルの地下で食事をしたりして時間を潰した。今回はアルピコ交通発行の、「上高地ゆうゆうきっぷ」を利用した。直通の「さわやか信州号」に比べると、往復で四千二百円安い。松本乗り換えの上高地迄の運賃と比較しても三千円くらいの差があるので、ふたりで使用するとかなりの節約だった。チケットは独立した一枚ではなく、乗車する区間の紙片がそれぞれ束になっているだけなので、失くさないように注意が必要である。

重太郎新道から前穂高岳ふたたび(前篇)

何処で誰からどのような影響を受けたのか、今夏は富士山に登りたいと次男の罫君が云うので、其れならば、と計画を立てたのが山開き前の六月頃だった。私の経験した富士登山は、あの御殿場ルート日帰り往復だけである。苛烈だった登山の記憶は、今も鮮明に蘇ってくる。日頃、スマートフォンを相手にして、部屋に閉じ籠もっている高校生に、耐えられる訳が無い。そう思って、此処は無難に吉田口五合目からの往復にしておくかと考えてから、やはり、あの非人道的な環境であろう山小屋に高い代金を払って宿泊するのは嫌だなと思い直した。そうして、馬返しから五合目に登り、テント場の在る佐藤小屋で幕営し、程よい未明に出発して往復してこようと云うプランに落ち着いた。

学校の夏休みが始まって間もない七月下旬に決行と決まったが、相次ぐ台風の影響で天候が不安定になって順延となった。高校生は夏休みだが、勤労者である私は都合を事前に設定しなければならない。八月の中旬に改めて休みを取ったが、今度は太平洋から真直ぐ北上してきた台風九号が関東を直撃し、またもや計画は御破算になった。因みに此の台風は北海道迄上陸して農作物を破壊し、其の後の野菜価格の高騰に発展することになる。それはそうとして、罫君の夏休みも残り一週間となり、太平洋上では次から次に低気圧が発生してくる。本土の天候も不安定を極めている。私の都合もそう頻繁には変更できない。富士山の山閉めも前倒しに早く、九月十日となっているので、残念ながら今夏の富士登山は中止と決定した。止むを得ない。

止むを得ないのであるが、親子でテントに泊まって山頂アタック、と云う珍しい計画に高揚していた私の気持ちが納まらない。成長するほどに意思の疎通が難しくなってくる子供と、自然の偉大さの支援を受けて、思い出深い山行をしてみようではないか、と云う気持ちが納まらない。そういうわけで、九月になっても富士山に比肩できる登山の計画を考えた。そうして、私が今迄の山行で最も感銘を受けた、重太郎新道からの前穂高岳を実行することにした。罫君に其れを持ちかけると、どっちでも、と云う前置きがあるような口調で、いいよと云った。

2016/10/1
上高地(13:00)---岳沢小屋(15:40)

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鉛色の空が虚しいバスタ新宿から、松本行きの高速バスに乗り、上高地行きに乗り換えても、天候は曖昧な曇天の儘であった。しかし、釜トンネルを抜けて、焼岳の赤茶けた山肌を見上げると、陽差しが照り付けている。此れは、と云う期待に応えてくれるかのように、バスが上高地に到着した時は、見事な晴天となった。

食堂で腹ごしらえをしてから、観光客でごった返す河童橋の袂に歩いていく。峻険な北アルプスに登ると聞いて、其れなりに緊張感を抱いてきた罫君は、なんとも怪訝な表情である。橋の真ん中から、穂高連峰を見上げて、明日はあの山に登るのだと云いたいが、岳沢は霧に煙って殆ど見えない。しかし、観光客の雑踏から離れて、梓川の畔を歩いているうちに、漸く凡庸では無い自然景勝地にやってきたと云う雰囲気になった。あの山はすごいね。罫君が感心したように六百山の前衛ピークを見上げて云った。岳沢湿原から眺める良景である。

岳沢登山口に入り、鬱蒼とした樹林帯を登り始める。明日はテント場に殆どの荷物を置いて前穂に登るので、多少の負荷の掛かる山歩きは、此の上高地から岳沢小屋の往復だけである。私が背負っている、クレッタルムーセンHuginには、いつも通りのテント泊一式が詰め込まれているが、今回は相方が居るので、重量は其れ程でもないが嵩張る衣類を、罫君に背負わせたGungner40に入れてある。岳沢小屋で補給できるから水も持たないので、ザックの重さは其れ程でも無い。我々は、雨後の湿った雰囲気の漂う登山道を、淡々と登り続けた。

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小尾根を縫うようにして続く登山道が勾配を上げて、前方に明るさの気配が現われる。広大な岳沢の手前を遮る尾根に乗った処で最初の休憩を取る。此処迄約三十分間歩き続けたが、高校生の表情に疲労の色は無い。案外体力があるもんだね、と話しかけると、毎日の電車通学で、(足腰が)鍛えられてるのかな、と云った。彼と一緒に丹沢や奥武蔵の山に登ったのは四年くらい前のことで、其の頃は小学生だった。出掛ける前に袋菓子をたくさん買い込んで、登山道にベンチが在ると頻繁に休憩を要求し、嬉しそうにお菓子を食べていたのを思い出す。子供と云うのも、僅か数年で、随分雰囲気が変わるものである。高校生は、私の煙草が終わるのを見て、行こうか、と云った。

天然クーラーを通過して、瓦礫場の道に変わり、一挙に風景が広がった。初めて此の道を登った時の感動を思い出す。瓦礫の白い岳沢を挟んで、峻険な山々が天に向かって延びていく風景に、圧倒された。しかし、今日は分厚い雲が頭上を覆って、西穂の連嶺を隠している。罫君に、あの感動的な光景を見せたかったのだが仕様が無い。と思っていると、高校生はザックを置いて、上高地を遥かに見おろす風景を、熱心にスマートフォンのカメラで撮影している。あれが、さっき渡った河童橋だと教えると、素直に驚いていた。やはり、来てよかった。私は内心で安堵した。

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岳沢に併行する登山道が、時折瓦礫の淵に近づくと、上高地が徐々に遠く望むようになる。分厚い雲から、ぱらぱらと雨が落ちてきた。大したことの無い小雨だが、罫君にレインウェアの上着を出すように指示した。子供と高山に行く為に、新たに準備したのは雨具だけである。寝具はどうするかと考えたが、其れ程の寒さでは無いだろうと想像して、シュラフは貸与するとして、私はサーモライトリアクターとシュラフカバーで眠ることにした。行動中の雨具は絶対に必要で、出費を強いられるなと思ったが、評判のよい美津濃製ベルグテックが廉価だったので購入した。赤いレインジャケットを着た罫君がザックを背負って、ふたたび淡々と登るのを背後から見上げる。クレッタルムーセンGungner40にヘルメットを括りつけて、カリマーのザックカバーを被せているので、ザックが瘤のように膨れている。雰囲気だけは、初心者に見えない精悍さである。

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丹念に休憩ポイントが表示される標柱が現われるが、我々は意にも介さず登り続けた。順調に歩を進めていくが、胸突き八丁の岩の階段で、徐々に私と罫君の差が広がっていった。想定外の健脚ぶりである。此れなら明日は大丈夫だろう。私は、ペースを変えずに長い勾配を歩き続けた。岳沢の左岸に下り、順調に瓦礫場を横断して、最後の登りは晩秋の雰囲気を醸し出す、紅葉の道であった。次第に御機嫌な親爺たちの声が響いてきて、久しぶりの岳沢小屋に到着した。

テント場の受付を済ませて、水を補給してから、テント場に向かう。ふたたび瓦礫場を渡って、前回設営した最奥のサイト迄登った。巨岩の在るお気に入りの場所に到達して、荷を下ろした。ポーカーフェイスだった罫君は、緊張の糸が切れたように座り込み、汗を拭きながらペットボトルのお茶をごくごくと飲んだ。テントを作り、カップ麺を食して、あとはすることも無い。晴天だった上高地の様子とは裏腹に、穂高の断崖の上から、不穏な色の霧が降りてくる。明日の朝、もしも雨だったら。罫君が一応は聞いておこうと云う態度で質問する。

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岳沢小屋から前穂を往復し、上高地に下山する。私の経験、初めての北アルプスであった重太郎新道の登山。其の、今回と同じコースの所要時間は、十時間半であった。帰途に就くバスに乗車できる時刻に下山する為に、逆算すると、明朝の出発は午前五時と云うことになる。そして、其の時刻に雨が降っていた場合は、出発を遅らせなければならないだろう。単独行の時とは事情が違うので、安全に就いて、万全を期さなければならない。私は、もしも雨なら登頂は出来ない、行ける処迄行って引き返す、と答えた。

雲の隙間から、夕暮れの陽差しが唐突に現われて、明神岳の険阻な岩肌が赤く染まった。暗雲に包まれていた岳沢に明るさが戻り、青空になった。そして、暫くすると白い雲がふたたび広がって青空を隠し、やがて、不穏な色彩に戻っていった。目まぐるしく変化する十月の北アルプスの空を、我々は茫然と見上げている。此の自然に抗うことなど、出来ない。そう実感できる光景だった。

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もし登れなくても、と罫君が云った。此の景色だけでも来た甲斐があるよ。雲に包まれた儘、上高地の底が薄暮に転じていった。此れは快適だあ、と云って罫君はテントに入ってシュラフに潜り込んだ。其れからはスマートフォンを見つめて、何かに没頭し始めたようである。私は、安堵感に包まれたような気分で、暮れていく岳沢を眺める。ぼんやりと紫煙を燻らせていると、山懐の谷が、あっと云う間に、夜になっていった。

白馬岳(後篇其の参・国境の稜線を辿り栂池に下山する)

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テント場の若者たちは飽くことも無く酒宴を続けて、どうなることかと思ったが、常識的な時刻に終了してそれぞれのねぐらに散って呉れたので安堵した。唯一の女性がどのテントで寝るのかという問題で、男性諸君が侃侃諤諤の議論を交わしていたのも御愛嬌である。そうして白馬岳頂上宿舎の夜は更けて、私は簡単な食事を済ませると、直ぐに眠ってしまった。未明にアラームで目覚めると、既にテントの外側からざわざわとした物音が聞こえる。若者たちが御来光目当てに出発していくのを確認して、私はゆっくりと撤収を開始した。ふたたびの白馬岳山頂に向かって、砂礫の傾斜を登って行く。朝の白馬山荘は、物資を運搬するヘリコプターが何往復もしていて、轟音が絶えない。山荘のベンチでパンの朝食を摂っていると、白馬岳に遮ぎられていた朝陽が顔を出して、眼前に広がる後立山連峰は、明瞭な朝の風景になった。

2016/8/8

白馬岳頂上宿舎(5:20)---白馬岳(6:20)---三国境(7:10)---小蓮華山(8:00)---白馬大池(9:40)---白馬乗鞍岳(10:15)---天狗原(11:00)---栂池ヒュッテ(12:00)

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陽が昇りきって茫洋とした雰囲気の白馬岳山頂に立って、雪倉岳、朝日岳方面のパノラマを眺める。申し分の無い晴天だが、彼方に広がっている筈の日本海は霞んで見えない。大雪渓、黄昏のブロッケン現象と、減り張りが利き過ぎる程であった今回の山行の後半は、国境の稜線を辿りながら白馬大池を経由して栂池に至るコースである。昨夕に白馬山荘で話し込んだ壮年氏は、其の栂池から登ってきたそうで、感想を訊くと、長いのでうんざりしたと云った。其れを思い出しながら、白馬岳から小蓮華岳に至る山稜のラインを俯瞰して眺める。すっぱり切れ落ちた信州側の岩崖が、曲線を描いている。

岩稜の起伏に抗わずに辿る登山道。白馬岳から北に続く稜線を下り始める。馬の背と呼ばれる尾根の途上で振り返り、改めて白馬岳を見上げる。其の姿は、岩壁の曲線が、恰も身体を捻ってポーズをとっているかのように造形的な佇まいだった。稜線の上は、花崗岩の白い瓦礫の道が、何処迄も続いている。顕著な瘤山を越えると、江戸時代の奥山廻りが区分した、越中、越後、信濃の境界を、標高二千五百米の稜線が描いていると云うのが明瞭に判る。其れを俯瞰して眺めていると、不届き者が跳梁跋扈していても、簡単に発見できそうな気がする。三国境に近づくにつれて、稜線は二重に分かれて、登山道は徐々に越中側へと移動していく。尾根の分岐を示す小さなピークを右手に見ながら歩いていくと、やがて三国境の道標が現われた。

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小蓮華山に向かって、久しぶりに勾配を登り、標高点2719mに達すると、稜線は穏やかな傾斜に戻った。白馬岳から白馬大池に向かう人々は多く、目指す小蓮華の山頂に、人だかりがしているのが窺える。這松に沿って続く登山道から、既に白馬三山を対峙して眺める角度で、展望が広がっている。私は、手頃な平坦地を選んで立ち止まり、ザックを置いた。白馬岳は木々の緑と花崗岩の白と、筋状の雪渓が交錯する不思議な色彩で、静かに聳えている。遥か遠くに、緩やかに長い八方尾根が横たわり、其の向こうに、特徴的な鹿島槍ヶ岳が双頭を突き出している。

あそこで休んでいる人の気持ちが解るわ。遠くで声がした。小蓮華山から老夫妻が歩いて来る。やがて近づいて来たふたりに会釈すると、婦人が私の傍らに近づいてきて、ずっと見ていたい景色ね、と云った。ほんとうに。そう答えて、私はふたたび、青空の彼方に溶けていくような、北アルプスの山々を眺める。

何故、此の光景を飽かずに眺めていられるのだろう。そんなことを思った。自然、あるがままの状態、そんなものに憧憬を抱いている自分に就いて、考えてはみるけれども、何の答えも見出せなかった。僅か二日間。束の間の時間が、随分長いことのように感じる。東京に帰って、再び日常を過ごす。そのために今、私は歩いているのだろうか。そう考えると、なんだか味気ない気持ちになる。あの山の向こうに、何時迄も歩いては行けないものだろうか。

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煙草の火が尽きて、我に返った。そうしてふたたび歩き始め、賑わいの小蓮華山を越えた。小蓮華尾根の分岐するピーク迄の稜線の途上で、此れで見納めかと思い、時折立ち止まって鹿島槍を眺める。眺めているうちに、そう云えば五竜岳は、と思い直して凝視する。五竜岳は鹿島槍に重なって同化していた。登山と下山の徒が夥しく行き交う中で、同じように立ち止まって風景を眺めている高齢の男性に、五竜は鹿島槍の手前に、重なって見えていますね、と話し掛けた。おお、そうなんだ、高齢氏が素直に驚いて呉れたので嬉しかった。

夜行で来たのか、そりゃあ若い人じゃないと無理だな、俺は駄目だ。高齢氏の山の遍歴を拝聴し、老いてなお元気に登り続ける姿が、遠くないであろう未来の自分に重なる。今年五十歳になった私は、もう若くないと云う現実に対して、諦めきれない鬱屈したものが心の奥底に在る。そんな劣等感を、偉大な自然に相対させることで、爽快に消し去ることができるかもしれない。そんな願望を抱いて、私は、山に登り続けているのだろうか。

老若男女のハイカー集団が次々と我々の前を行き交う。狭い稜線の途上で留まっているふたりは、或いは登山者たちの迷惑になっていたかも知れない。しかし、皆が一様にダブルストックを広げて歩いてきて擦れ違うものだから、狭い登山道はますます窮屈になる。彼等はストックを持つ手が、対向する者の邪魔になっていると云う意識が無いようにも見える。自らが避けて擦れ違おうと云う素振りが無い。当然の権利、と云わんばかりにも見える。

「今は猫も杓子もダブルストックだからなあ」

こんなに岩がゴロゴロしてるところで、ストックは要らんと思うけどね。独り言のように、高齢氏が云った。自分の考えていたことが、相手にシンクロしているみたいで、少し驚いた。

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白馬岳の下から徐々に雲が湧き立ってくるのが窺える。遠くの唐松岳が、心なしか靄に霞んできているように見える。本当にもう見納めなのだな、と思った。高齢氏と軽快に別れて、私は船越ノ頭の勾配を登る。先程から、既に見え隠れしていた白馬大池の、満々と湛える青が、ピークを越えると、眼下に広がった。 此れから、雷鳥坂を下って、湖畔を迂回して、栂池迄の道はどうなっているのか、見当も付かない。ただ、歩き続けることで、旅が終わるのだろう。心が、浮遊しているかのように、移ろう。其の状態は、徐々に心地好さとなって、何処かに落ち着いていくだろう。

雷鳥坂の傾斜が殆ど無くなってきた頃、白馬大池の湖面が、陽光に反射して眩く光った。私は、ふたたび立ち止まって、其れをぼんやりと、眺め続けていた。


付記

朱色の瀟洒な白馬大池山荘で休憩し、軒先を通過して湖畔の道を辿る。標高2469mの白馬乗鞍から崩落している火山岩の塊りを乗り越えて歩く。傾斜を登り詰めて、ケルンと山名標の在る標高2436.4mの白馬乗鞍岳に達する。登山道は東に下り、白馬乗鞍一帯の岩塊の道は長く続いた。天狗原の湿地帯に至る尾根の樹林帯も存外に長く、登りでは随分消耗するかもしれないと想像した。天狗原の休憩所でひと息をついて、直截的に栂池まで下る。栂池ヒュッテ付近のレストランの軒先で直射日光を避けて休憩する。高山から降りてきた身としては、有名な栂池も暑さの厳しい観光地、と云う印象であった。

満員のロープウェイから、ひとりで専有できるゴンドラリフトに乗り換え、あっという間に標高831mの栂池高原駅に降りた。駐車場前の入浴施設があったが食指が動かず、バス停に向かったら丁度良く長野駅行き高速バスが発車するところだったので飛び乗った。白馬八方で下車して、「八方の湯」に立ち寄る。8/8は八の付く日ということで、入浴料金が半額の四百円だったので、栂池高原駅での判断が正しかったと自画自賛する。

バスの時刻が中途半端なので、白馬駅迄歩くことにする。浴後なのでコンビニに寄って缶麦酒を買い求め、軒先のベンチで飲み干す。青春18切符を効果的に使用できるのはいいが、白馬駅から松本駅迄が遠いんだよな、などと思って歩いていると、臨時運転の「リゾートビューふるさと」号が発車する寸前に白馬駅に到達した。快速列車なので、指定券を購入すれば乗車できるので、瞬時に決断して乗り込んだ。南小谷から松本を経由して長野迄運転する此の列車は、車窓を楽しむと云うコンセプトのようで、停車駅こそ少ないが、頻繁に徐行して車窓案内が始まる。予定していた普通列車よりも15分ばかり早く松本に到着するので殆ど意味が無いように思われるが、空いた車内で広々としたシートに座り、車内販売でまた麦酒を買い求め、快適に移動できた。

松本では相変わらずの駅ビルにある饂飩屋で麦酒を飲む。18:37発の普通列車は大月行きなので延々と揺られる。接続するのは東京行きの国電型で、松本から一回の乗り換えだけで帰京できた。

後日、白馬大雪渓が雪不足で通行止め、のニュースに驚く。私は初めて訪れたので状況は解らなかったが、白馬尻小屋の周辺まで、雪渓が続いているのが常態だった模様。小屋から雪渓の開始点迄、随分距離があるものだと内心感じてはいたが、やはり雪不足だったのかと認識を新たにした。

別記

長野県北安曇郡白馬村などは30日、北アルプス白馬岳への主要登山道である白馬大雪渓を9月1日から通行止めにすると発表した。雪不足の影響で雪渓の所々に割れ目があり、崩落の恐れもあるため、登山者の安全を確保できないと判断した。通行止めの期間は未定(中略)今季は白馬連峰の開山祭があった5月から登山道の雪が少なく、その後も例年より2週間ほど早いペースで雪解けが進んだ。村や北ア北部地区山岳遭難防止対策協会、大町署などの関係者が29日に大雪渓を視察し、村役場で協議して通行止めを決めた。今後は遭対協の隊員が雪渓の状況を確認し、安全が確認できたところで通行止めを解除する(中略)遭対協白馬班の松本正信隊長は「事故があってからでは遅い。登山者の安全を最優先した」と話している。
信濃毎日新聞 (8/31) より。 

別記其の弐

白馬岳のブロッケン現象に就いて。八月の下旬に行なわれた「登山詳細図」の踏査隊の会合で、山の緒先輩方に嬉嬉として語ったが、「ああ、飛行機乗ってるとよく見るよね」と軽く一蹴されて臍を噛んだ。私は飛行機の中からブロッケン現象を見たことが無い。そんなによく出会う現象なのだろうか。腑に落ちない。

白馬岳(後篇其の弐・山頂で初めてのブロッケン現象に遭遇する)

夜行列車の睡眠不足と、想像していた以上に苛烈だった猿倉ルート経由の疲弊で、白馬岳頂上宿舎裏手のテント場に、ほうほうの態で到達した私は、結局三時間以上も午睡を続けて、我に返った。テントの外が未だ明るいのを確認してほっとする。隣のテントから、若者たちの会話が聞こえる。酒宴は続いているようで賑やかである。会話の内容は、職場の話題ばかりなので、学生では無いと云うことが判る。否応なしに聞こえてくるので聞いてしまうが、話題の端々から察すると、医療、福祉関連業界の集団のようである。女性が一名だけ居て、あとは全員男性である。同僚が一斉に休暇を取って登山に行けるような業種では無いような気もするが、まあどうでもよい。

私が午睡に入る前から、職場の話題で盛り上がっていた集団は、未だに同じような話を肴にして飲み続けている。明日は白馬岳で御来光を拝み、白馬鑓温泉経由で下山する、と云う計画のようである。其れにしても、と思う。此処迄登ってきて、酒宴は愉しかろうが、日常の由無し事を飽きもせずに喋り続けているのには、呆れつつも感心してしまう。私は珈琲を淹れて煙草に火を点ける。稜線の側に窪んだ小平地に広がるテント場から空を見上げると、陽は未だ中空に在って明るい。私は、七分丈のパンツにTシャツの姿で、薄手のウィンドブレーカーをサブザックに入れた。五月蝿いテント場から離れて、石塊の坂路を登り程無く、国境の稜線に立った。


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猿倉(6:50)---白馬尻小屋(7:50)---大雪渓起点(8:30)---大雪渓終点(10:20)---葱平岩小屋跡(10:40)---避難小屋(11:40)---白馬岳頂上宿舎(13:00)---テント設営後休憩---白馬岳頂上宿舎(16:50)---白馬岳(17:20)

丸山から杓子岳への稜線が、未だ赤味の無い斜光に照らされ、其の陰影のコントラストが美しい。先程迄ごろごろしていたテント場を見おろす。日蔭になった窪地に、カラフルなテント群が寄り集まっている。稜線上の吹き抜ける風と眩い光に包まれて其れを眺めていると、なんとも薄ら寒い光景のように感じられる。正面には、立派な岩山が逆光のシルエットで、立ちはだかるようにして屹立している。机上の地図で眺めると、白馬岳の稜線から派生する、なんでもないような山に思える旭岳である。実際に対峙して眺める旭岳の姿を見て、やはり山は実際に登ってみないと判らない、そんなことを再認識する。

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写真で何度も見たことのある白馬山荘が聳え立っている。其れに向かって登り続けて、山荘前の展望所に大勢の人が佇んでいるのが目視できるようになったので、立ち止まり振り返った。雲海に浮かんでいる峻険で壮麗な山塊は、鋭利な三角形の剱岳と、立山連峰だった。唐松岳から眺めた、霧の中から忽然と現われた剱岳を思い出す。あの時の感動には遠く及ばないが、黄昏の雲海に名峰が静かに浮かんでいるのは、また格別の眺めである。

山荘の玄関と展望レストランの間を通り抜けると、いよいよ白馬岳の山頂が、直ぐ其処に在った。砂礫の登山道を登り続けて、振り返ると山荘も旭岳も、どんどん眼下に見るようになっていった。信州側から、目まぐるしく立ち昇る雲霧が杓子岳を覆っている。剱と立山は、陽炎のように霞んでいく。北西に傾いていく太陽の向こうに、朝日岳の稜線が曖昧に連なっているのを眺めながら、徐々に近づいてくる山頂に向かって、歩いた。

標高二九三二米、白馬岳山頂に到達した。黄昏の色の気配が忍び寄るピークには、人影が無かった。此れが、あの人が押し寄せる人気の山の頂なのかと思うと、少し意外な気がした。白い人工物が中空に立っている。新田次郎の「強力伝」に描かれた、壮絶な経緯で運ばれてきた風景指示盤が素気無く鎮座している。


昭和十六年と云う時代の価値観に思いを馳せながら、花崗岩の造形物に、そっと手を置く。眺望の出来る、石に刻まれた全方位の山々を記す文字は、風化の所為なのか、明瞭では無いのだけれど、其れは重要な問題では無い。自分が虫の息で登り詰めた大雪渓の猿倉ルートを、此れが背負われて来たのかと想像する。自分が体感してきた労苦を基準にして、「強力伝」の主人公が体感したであろう苛烈さに、思いを馳せてみる。冷気のような風が、白馬岳を通り抜けていく。私は茫然となって、断崖の淵のような形状の、白馬岳山頂に立ち尽くしていた。

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ぽつりぽつりと、登頂してくる人が近づいてくる。私は、頂上部から少し離れた処に移動して、紫煙を燻らせる。切れ落ちている信州側の断崖には、足首くらいの高さにロープが張ってあるが、踏み越えて落ちてしまったら一巻の終わりである。其の岩崖の底から、断続的に霧が吹き上げてくる。戸隠や妙高の山々の景色が霧の合間で見え隠れしている。不意に、目の前が真っ白になった。そして、唐突に、虹色に縁取られた人影が出現して驚いた。其れは徐々に彩度を失って、霧が晴れると消え失せた。視界が開けると、白馬村の麓に、巨大な山の影が現われた。成る程、影白馬、などと感心していると、ふたたび目の前が真っ白になって、不思議な虹の輪と、自分の影が浮かび上がる。

此れは何と云う名の現象だったかと、咄嗟に思い出せず、通りかかった若い男性に訊いてみた。ああ、ブロッケン、と、単独登山者は何事も無いと云う風に答えた。そう聞いて、ぽんと膝を叩きたくなるような気分になった。北アルプスに初めて足を踏み入れてから四年が経って、漸くブロッケン現象に遭遇したと云う訳であった。沈んでゆく陽の光は、灯滅前の蝋燭のように輝きを増していて、断続的に吹き上がる霧に輪光を照射する。其れは徐々に、勢いを失っていった。夢から醒めたような気分で、白馬山荘の向こうに広がる北アルプスの全景を眺める。杓子岳と鑓ヶ岳が、斜光によるコントラストで立体的に聳えている。

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何時迄も眺めていたい風景だったが、吹き曝しの山頂に留まるには、少し寒さを感じるようになっていった。薄着の儘登ってきた迂闊さで、止むを得ず、私は山荘に下りていった。落日の絶景が間もなく始まる。宿泊客が山荘の外に出てきて、後立山連峰の方角に向かって、思い思いに佇んでいる。私も其の群れに混じって、暮れていく山々を眺める。単独の壮年男性氏に話し掛けて、互いの山座同定を披瀝しているうちに会話が盛り上がってしまい、其れは愉しい時間だったのだけれども、薄着故の寒さが堪えてきた。会話を打ち切って、少し寂しそうな表情の壮年氏と別れ、私は頂上宿舎に向かって砂礫の道を下っていくことにした。

杓子岳の斜面がいよいよ赤く染まって、其れから、徐々に明度を下げていく。登山道が途端に薄暗くなっていくような気がした。夕陽は旭岳の向こうに隠れて、端整な山の容姿が、紅く縁取られたシルエットになった。遠くに浮かぶ立山連峰は、棚引く雲と一緒に朱色に染まって、静かに佇んでいる。私は、薄着で黄昏の山頂に登ってきたことを、何時迄も、後悔した。


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白馬岳(後篇其の壱・冷風の白馬大雪渓)

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瓦礫の合間を縫うようにして、大雪渓の入口に近づき、巨岩の傍らで久しぶりの軽アイゼンを装着した。雪は泥の暗色に混濁し、点在するのはクレバスと呼んでよいのかどうか不明だが、細くて黒い裂け目と、歩行を誘導する赤いマーキングの筋が茫洋と続いている。白馬大雪渓は、夥しい登山者と下山の徒が交錯しながら、行列が停滞していると云う光景で始まった。砂礫と雪が混淆する斜面で、下山の若い男女のグループが、一歩を踏み出しては滑りそうになって、深刻な表情で歩を進ませることができないでいる。ねえこれ通れるの、と若い娘が険しい顔で云った。瀟洒なウェアを着た恰好のよい若者たちが、及び腰で転びそうになりながら通過するのを随分待ってから、漸く登りの順番が来た。水分がべたついた雪は見るからに滑りそうにも見えるが、アイゼンの刃を差し込んで行けば問題なく歩くことが出来た。土踏まずの部分に装着する軽アイゼンなので、足裏の全てを踏み込んで雪渓に刻みながら歩いて行く。暫くは一心不乱に登り続けたが、霧が深くなり、周囲が真っ白になったので立ち止まった。


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猿倉(6:50)---白馬尻小屋(7:50)---大雪渓起点(8:30)---大雪渓終点(10:20)---葱平岩小屋跡(10:40)---避難小屋(11:40)---白馬岳頂上宿舎(13:00)---テント設営後休憩---白馬岳頂上宿舎(16:50)---白馬岳(17:20)

振り返ると、雪の斜面を白煙の渦がくるくると舞いながら、走り去っていく。大勢居た筈の登山者の姿が消え失せてしまった、と思った途端、白煙の醒めていく彼方からぽつぽつと出現する。白煙と霧の狭間に、遠ざかる白馬尻の底が窺える。吹き抜ける風は天然の冷房を浴びているように涼しい。つい先程迄、灼熱の日照りを小屋の前で浴びていたのが信じられない。酷暑の続く東京から逃れる先を白馬大雪渓に決めたことに、私は改めて満足しながら、黙々と歩いていた。

広大な雪渓を、一列になって続いている登山者の軌道に、スケールを拡大させたクレバスの裂け目が近づいてくる。踏路が左に寄っていくと、今度は反対側から細い裂け目が現われてはっとする。其れでも一列になって歩くのが厭で、少し列から逸れて登っていると、下山してきた精悍な風貌の単独行者に、クレバスが続くので右に寄ったほうがよいと声を掛けられた。私は首肯して其れに従う。気分を落ち着かせるために立ち止り、右上の尾根を見上げる。白馬岳の主稜から分岐する尾根と、三合尾根の谷が、純白の雪渓になっている。視線を歩いていく先に転じると、吹きすさぶ冷風が止んで、青空が広がった。大雪渓の彼方に、鋸歯状になった杓子岳が明瞭に姿を現わす。随分登ってきたのだな、と思って時刻を確認する。白馬尻を出発してから、一時間が経過していた。

岩塊の島が雪渓の途上に現われた。心地好い疲労感が染み渡り、其処に乗り上がって休憩を取った。岩に座って、紫煙を燻らせながら、続々と登ってくる人々を眺める。瓦礫が剥き出しの杓子尾根の山肌から、加羅加羅と云う音と共に落石が起こっているのが確認できる。雪渓を転がる落石は無音なので注意が必要、と云う情報がどの程度のことか、見当が付かなかった。石塊が転がってきて、そんなに危険なものなのだろうかと思っていた。しかし、大雪渓の途上から杓子尾根を眺めると、崩落は頻々に起こっているのが判る。巨岩が谷間に落ちて、雪の斜面を転がってくると云う事態の深刻さが、現場にやってきて、漸く想像することができるのだった。

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大雪渓は断続的に霧に包まれ、其れが晴れると眩い青空が広がった。陰影の無い晴天下では、杓子岳は直ぐ其処に立っているようにも見える。尾根に侵食されて左に方角を変えていく雪渓の向こうに、もう白馬岳が在るのではと錯覚してしまう。そんな気分で軽アイゼンを、べた足で踏みしめながら登り続けていくと、右手に現われた尾根の麓に、登山者たちが雪渓から脱出していくのが見えてきた。白馬大雪渓は更に上部へと続いているが、雪解けが進行してクレバスが頻出すると云う理由で、此処からは通称「秋の道」と呼ばれる迂回路を辿ることになっている。秋の道は尾根上の道ではないが、茫漠とした白煙の雪渓から取り付くと、久しぶりに地面を歩くと云う安堵感を与えて呉れる。

岩崖に刻まれた踏路を慎重に歩き、大雪渓が左手に遠ざかっていくのを眺める。幾つもの大きなクレバスが横に広がって大きな口を開けて居るから、通行不能が一目瞭然であった。標高が上がるに連れて、崩落した岩の所為なのか、雪塊状に盛り上がった箇所も散見されるようになって、雪渓は巨大な瘤の集合体のようにも見える。此れがモレーンと云うものなのかと思うが、正確なことは判らない。

秋の道は岩の淵を丹念にトラバースしながら、唐突に高度を上げていった。岩崖の所々に、紫や黄色の花が咲いている。紫がイワキキョウ、黄色いのはミヤマキオン。花の名前は判らないから、後日写真を眺めて記している。大雪渓から細い登山道になったので、最初は渋滞していたが、勾配が激しさを増していくと、ハイカーたちは疎らになっていった。尤も、高山植物の咲き乱れる道で、皆が其れ等を眺めながら休憩している所為でもある。花に興味の無い私ですら、険しく続く岩礫の道の先に、花の咲き乱れる平坦地が広がると、思わず立ち止まってしまう。薄桃色に見える白い花を至近になって眺める。蕾が膨らんでいる途中のような花が房状になっている。どのような必要があって、此のような造形が生まれるのか。イワオウギの群落でそんなことを思った。

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対面に谷を見下ろすと、独立した巨岩が現われる。其の下に、廃材と鉄網が打ち捨てられている。葱平(ねぶかっぴら)の岩小屋跡を過ぎて、勾配を登り続ける。次第に疲労が押し寄せてくる。夜行列車明けの疲れが、徐々に身体に染み渡ってくる。高度が上がるに従って霧が深くなり、踏路の両側に広がるお花畑を眺めることで、なんとか気は紛れるが、次第に、想念の欠片も霧消してきて、重いザックの苦痛に喘ぐだけの状態の儘、終わらない岩塊の踏路を歩き続けた。

脚の動きはますます緩慢になり、何度も休憩したので、葱平で次々に追い越していったグループ登山の徒に追い越され、其れを見送った。ひと息つけそうな避難小屋前には大勢の登山者が屯しているので、其の儘歩き続ける。次第に彼方に見える空が白く開けてきて、周囲は草地のお花畑になった。其の傾斜地に、奇岩が点在している。大雪渓を脱して、白馬岳頂上宿舎迄、登山地図に拠れば凡そ二時間のコースタイム設定だった。其の二時間が経過したが、霧に包まれたお花畑の勾配は、何時迄も続いた。人だかりがしている場所に近づいてみると、グリーンパトロール隊の女性が、現在咲いている花についての説明を行なっている。其れを遠巻きに拝聴しながら、頂上宿舎迄あとどれくらい登るのかと思うが、もちろんそんな無様なことは訊けない。

稜線は、直ぐ其処に在った。お花畑に点在する奇岩の向こうに、青空が広がる。糸魚川静岡構造線の上に向かって歩いている。唐突にそんなことを思う。一昨年に発生した、白馬の大震災のことを思い出す。長い年月の地殻変動で崩壊の歴史を重ねた、白馬岳の信州側の、険しい斜面を歩いているのだと、必要以上に自分に云い聞かせながら、苦悶と格闘して歩き続けた。其れから無心になって、国境の稜線が近づいてくるのを感じながら、俯いて脚を繰り出しているうちに、ふたたび周囲が霧に包まれてきた。何処迄続く泥濘ぞ、そんな言葉が脳裡に浮かぶ。絶望的な気持ちで顔を上げると、霧の中に薄ぼんやりと、白馬岳頂上宿舎の建造物が現われた。

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宿舎を大きく迂回して裏側に在る小屋に辿り着き、テント場の受付を済ませる。丸山の直下に在る窪地のような処に広がる幕場は広々としていて、未だ午後になったばかりだが、既に入口付近から十張りくらいのテントが設営されている。其の合間を通過して、周囲に誰も張っていないスペースを吟味して選び、荷を下ろした。疲労は、極限に達していた。一刻も早く眠りたい、その欲求で迅速にアライテントの設営を開始した。テントは直ぐに出来上がり、荷を広げて就寝の環境を整えてから、やっぱり麦酒を飲んでから昼寝しようと思い直し、ふたたび宿舎を迂回して表に在る自販機に買いに行った。

冷えた缶麦酒を堪能しつつ、紫煙を燻らせていると、頭の中が混濁してきた。もう何も考えずに眠ろうと思っていると、八名くらいの若者がやってきて、私のテントを囲むようにして三張り、テントを設置し始めた。愕然としながら其れを眺めていたが、もう止むを得ない。もっと奥が空いているから隣に張るな、などと、云える訳も無い。テントの中に潜り込み、思いの他暑いので半裸になって銀マットに倒れこんだ。間もなく睡魔が訪れようとしたが、否応無しに聞こえてくる若者たちの会話が気になる。暫く耳をそばだてると、大量の酒と食材を担いできたようで、此の儘宴会に突入するものと察せられた。思わぬ事態に暗然とするが、もうどうでもよい。眠りは、不意に訪れたようだった。

白馬岳(中篇)

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北股入の流れに沿って、砂利の林道が緩やかに蛇行しながら続いていた。生い茂る樹林帯の下を歩き続けて、唐突に視界が開ける。白馬岳の主稜と、小蓮華尾根、其の合間に分岐して落ちてくる支尾根が、続々と合流している谷間に、真夏の陽光が降り注いでいる。猿倉荘から黙々と歩き続けているが、バスを降りた時の夥しい人の姿も随分減ってきて、私の気分は徐々に落ち着いていった。順調に西へと辿る道の先に、岩塊の尾根が行く手を遮るように、眼前に現われた。大きく左に旋回し、岩尾根を迂回するようにして続く道が先細り、御殿場と呼ばれる広場から登山道が始まる。白馬登山の徒は、傍らの植物を愛でながらゆっくりと歩いているから、登山道は断続的に渋滞が発生した。先を急ぐ訳でも無いので穏健に留まって待ってはいるが、後続の徒が近づいているのに道を塞いで花の観賞をしている人たちの神経は判らない。リーダーと思しき人物は年季の入ったベテランの風情だが、できれば、そのような熟達した人程、専横的な態度にならないように自重してほしいと思う。


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猿倉(6:50)---白馬尻小屋(7:50)---大雪渓起点(8:30)---大雪渓終点(10:20)---葱平岩小屋跡(10:40)---避難小屋(11:40)---白馬岳頂上宿舎(13:00)---テント設営後休憩---白馬岳頂上宿舎(16:50)---白馬岳(17:20)

木道が設えられたトレッキングコースが尽きる頃、遠くに広がる雪渓の谷間を背景に白馬尻の小屋が出現した。小屋の前に在る広場は大勢の人々で賑わっている。北アルプスの代表的なルートである、白馬大雪渓を直前に控えて、私は荷を降ろして休憩に入った。強い陽射しを遮るものが無い広場で、私は手拭いを頭に被って、ひとり紫煙を燻らせる。真夏の灼熱の太陽と、大雪渓のコントラストは、考えてみると非日常的な光景である。

出掛けてくる前に煩悶した、行く先に就いての逡巡が脳裡に蘇ってくる。北アルプスを登りたい、其の衝動の中に、此の有名な、一度は歩かなければならないとでも云うべき、白馬大雪渓が、今迄なかなか思い浮かんでこなかったのは何故だろうかと思った。同じように登山者で賑わう槍ヶ岳と比較して、何故だか白馬岳に、奥深い高山、と云うイメージが湧いてこなかった。スキー場やゴンドラが整備、開発されている白馬村の喧騒が、白馬岳に対する秘境のロマンティシズムを逓減させている。其れとは別に、私には白馬岳に対して、なんだか得体の知れない居心地の悪さを感じる理由がある。

白馬岳を「しろうまだけ」と呼ぶのは判っているが、頭の中で、どうしても「はくばだけ」と読んでしまうので困っている。長野県北安曇郡白馬村は「ながのけんきたあづみぐんはくばむら」である。地名や施設名などでは、白馬の正式名称は「はくば」なのに、白馬岳だけは「しろうまだけ」なのが、自分の中では非常に気分が落ち着かない。山登りに傾倒し始めた頃、登山に関する書物を濫読していたが、此の、白馬岳の読みに関することは頻々に出ていた。教えを乞いにきた初心者に、此れ迄の登山歴を訊ねると、はくば岳です、と云われて愕然とした、或いは苦笑した、と云うような著名な登山家の随筆を読んで、ひとり背筋に冷たい汗が流れたのを思い出す。白馬岳をはくばだけ、と呼ぶのは素人の証、てんでお話にならない、と云うのが、登山界に於ける常識なのかと思うと、其の傲然さに私は身構えてしまう。

「この立派な山に、以前は信州側にはこれという名が無く、単に西山と呼ばれていた。それがいつ頃からか代馬(しろうま)岳と名づけられ、それが現在の白馬岳と変わった。代馬よりは白馬の方が字面(じづら)がよいから、この変化は当然かもしれないが、それによってハクバという発音が生じ、今では大半の人がハクバ山と誤って呼ぶようになっている。この誤称は防ぎ難い(後略)」

深田久弥著「日本百名山」の、白馬岳の項からの抜粋である。やんわりとではあるが、「しろうま」「はくば」の呼び方に就いて、批判の色の濃い文章である。ベテラン登山者の知ったかぶりの態度を担保しているのが、此の名著の一節であるように思えてならない。代馬岳の字面の所以に就いては敷衍して諸所に書かれてあるので、其のことに関しては納得して受け入れることができるのだが、当て字とされる白馬に対しての、しろうまと云う発音の脳内変換が難しい。

此処、白馬尻小屋は百年以上の長い歴史を持つけれど、読み方は「はくばじりごや」の筈である。頂上直下の白馬山荘も「はくばさんそう」でよい。しかし、白馬岳が「しろうまだけ」なので、「白馬槍ヶ岳」はどうなるのかと思うが、此れは「しろうまやりがたけ」である。では、一昨年入湯した「白馬鑓温泉小屋」はどうなるのかと云うと、「はくばやりおんせんごや」である。施設名とは違って山の名は「しろうま」なのかと合点すればいいのだが、では此れから登る、施設名では無い「白馬大雪渓」はどうなるのか。そして明日訪れる筈の「白馬大池」はどうなるのか。どうなるのか、が繰り返されるばかりで埒が明かない。

多くの山の名前が年月を掛けて当て字を付され、変遷してきたのは事実である。かつて越後側からは大蓮華山と呼ばれていた山が、信州側から眺めることのできる代馬の雪形に纏わる名で統一され、更に当て字の白馬になって国土地理院の地図に記載されている。振り仮名は無いけれども、山名に時代に拠って読み方が変遷していくのが必然であるのならば、「はくばだけ」でもよいのではないかと個人的には思っている。

白馬岳から帰京して、話はずっと後のことになってしまうが、「登山詳細図」の踏査隊の会合が、八月の下旬に行なわれた。会合とは云っても内容は暑気払い、単なる飲み会である。私は酒の饒舌で、此の「しろうま・はくば問題」を滔々と披瀝した。山の諸先輩方は、嬉しそうな赤ら顔で、「しろうま」の根拠を語りだしたが、話せば話すほどあちこちから横槍が入り、論旨は藪道に入り込んでいった。中には、白馬山荘が「はくばさんそう」と読むことを初めて知り、衝撃を受けている人も居て、暑気払いの場は騒然となって、議論は過熱していった。

Hakubashiri

話を戻さなければならない。誰もが此れから始まる大雪渓の登りに昂揚して、人々の活気に溢れている白馬尻小屋前に戻る。傍らの老夫婦に乞われ、記念写真のシャッターを押してあげる。其の老夫婦の奥方が、其れではお先に、と云ってから、直ぐに追い越されるのにお先に、なんて変ね、と笑って、去っていった。私は、思いの他長い休憩になってしまったことに気付いた。大雪渓の直前に装着する筈の軽アイゼンをザックの外側に括りつけて、荷物を整え、出発しようかと思ったが、老夫婦に余り簡単に追いついてしまわないように、私はもう一本、煙草に火を点けた。

大いなる自然の造形に、自分の脚だけで挑んでいく。其の、何とも云えない緊張感と爽快感に立ち返ろうとして、私は紫煙を燻らせていた。はくばだいせっけい、否、しろうまだいせっけい……私は、脳裡に漂う些事にかぶりを振りながら、重いザックを担ぎ上げた。

白馬岳(前篇)

2016年8月6日、土曜日。世間の諸事は、リオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの開幕、そして71回目の広島原爆忌。其の深夜、私は新宿駅のプラットホームに降り立った。「ムーンライト信州」の最後尾車輌付近は、写真撮影をしている人々の塊のお陰で、其の先に進むことが出来ない。ホームの反対側の端を通って、自分の指定された号車を探す。今となっては古びた風情の特急用車輌に、郷愁のような感興と、旅立ちの緊張感を感じながら乗り込んだ。昨年の同じ頃に乗車した「ムーンライト信州」は、呆気にとられる程空席があったが、今日は殆どの座席が埋まっている。

漸く自分の座席を見つけると、隣席に妙齢の女性が座っている。ベテランの風情を醸し出している登山者だった。私はなんとなく安堵して、毎度御馴染みの巨大なクレッタルムーセンを網棚に載せた。僅かな空席を残した儘、ムーンライトは静かに新宿駅を発車した。篭もった音の車内アナウンスを聞きながら、見慣れた自分の街が闇に消えていくのを、車窓越しに眺めていた。日付の変わる立川を発車すると、座席が更に埋まって、車内検札がやってきた。私が提示した指定券を確認した若い車掌が、白馬迄行かれますか、と云った。私は、深く首肯した。

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猿倉(6:50)---白馬尻小屋(7:50)---大雪渓起点(8:30)---大雪渓終点(10:20)---葱平岩小屋跡(10:40)---避難小屋(11:40)---白馬岳頂上宿舎(13:00)---テント設営後休憩---白馬岳頂上宿舎(16:50)---白馬岳(17:20)


Moonlightshinsyu

昨年同様、早めに確保しておいた「ムーンライト信州」の指定券を眺めながら、今年初めての北アルプス行きに就いて、思案の日々が続いていた。土曜日の深夜に出発して、翌日曜に登頂、幕営後、月曜日に帰京する。想定外の事態に備えて火曜日も休暇を取った。此の時点で、私は未だに成し遂げていない、槍ヶ岳の登頂を目指すことにしていた。早朝の上高地を出立し、定石に倣ってババ平のテント場で幕営し、翌日を軽装備で山頂迄往復して、帰途に就く。其の日のうちに上高地から帰京できれば其れに越したことは無いが、徳沢、或いは小梨平に幕営してから、火曜日の早い時刻に帰途に就いても構わない。勿論、出立する日曜早朝の上高地から、槍の肩迄歩くことができそうであれば、重い荷物を背負ってのことだが、月曜日は余禄を持って上高地に戻れるだろう。そんな考えであった。

其処に、不測の事態が起こった。不測の事態と云うと物騒に聞こえるが、其れ程深刻な問題では無い。夜行列車で出発する土曜日の、日中の用事が無くなってしまっただけのことである。土曜日が自動的に休暇になってしまった。此れでは夜行列車に乗る意味が判らなくなってくる。早朝に出発すれば、土曜日のうちにババ平に到着できる。余禄を持って下山しても、月曜日の早い時間帯に帰京できそうである。其れどころか、と、私の思惟は宙を彷徨い始める。

土曜日の早朝に出発するのならば、上高地からのルートに固執する必要が無くなる。昼近くの穂高駅から中房温泉経由の燕山荘迄。其れで常識的な時刻に到達し、テントを設営できることは過去の経験で判っている。表銀座縦走路を踏破して、日曜日の夕刻に槍の肩に到達し、幕営することも可能かもしれない。槍ヶ岳は憧れの山である。燕山荘から稜線を辿りながら、北アルプスの絶景を眺めながら、槍ヶ岳を目指す。其れは想像すればするほど魅力的な計画に思えてくる。

ではそうするか、と決断すればよいのに、なんだか気持ちの奥底に引っ掛かりが在る。せっかくのムーンライトの指定券を放棄することに抵抗感を覚える。こんなことならば金曜日の深夜に出発するのを予約すればよかった。しかし、もうどうにもならない。「ムーンライト信州」のチケットをキャンセル処理するために、最寄のJRの駅に行かなければ、と思うが、なかなか其の行動に移ることができない。時間だけが確実に過ぎていき、とうとう出発の三日前になってしまった。

ムーンライト信州の指定券を保持した儘、乗車しない輩のことを、今迄批判して書いてきた。乗るのか乗らないのか、乗らないのならば早くキャンセル処理をしなければならない。此の儘では世間に対して道義的にそして多義的に、迷惑を掛けてしまうではないかと、焦燥の儘に自問自答を繰り返した。そして、私の中の、ピンと張り詰めていた糸が、ふっと切れてしまった。

思案の挙句に、私は本懐である槍ヶ岳登山を断念して、行く先を白馬岳に変更することにした。「ムーンライト信州」の指定券を放擲するのが惜しい、と云うことの他に、土曜日の朝に出発して、其の日に幕営すると云うことに一抹の危惧を覚えたのが理由である。槍ヶ岳の最短経路の途上に在る、ババ平のテント指定地の混雑を想像した。此れ迄も、北アルプスに赴く場合は、土日に跨る行程を、極力避けてきた。ババ平のテント場は狭小であると云うことが、インターネットの情報で窺い知れる。そして、表銀座縦走路経由の燕山荘幕営地の混雑ぶりは、既に経験済みであった。燕山荘に夕刻到着して、空いているテントスペースを探すのに、少々の手間が掛かった記憶を呼び戻してみる。あれは平日のことであった。土曜日の燕山荘に幕営すると云うことが、途端に嫌になった。

消極的な意味で、ムーンライト信州に乗って北アルプスに行くと云う、茫洋となっていった思案の行く先が、青春18きっぷの、距離を稼げば稼ぐ程得をすると云う、自分の品性を試されるような要素と要因によって推移していった。信濃大町で下車し、扇沢から未踏の鹿島槍ヶ岳を目指す、そんな計画が先ず浮かんだ。しかし、其れは、槍ヶ岳の代替品として鹿島槍に行くようにも見える。槍違いで安易に鹿島槍に登ることにしたようにも見える。鹿島槍ヶ岳を貶める行為である。そんな気がしてきた。なんだか気が咎める。私は違う目的地を思案し始めた。出発の日が近づいている。

其れから、白馬大雪渓を登って、白馬岳に登ると云う案に至る迄、然程の時間は掛からなかった。槍ヶ岳に比肩するスター性を、白馬岳は持っているように思えた。白馬岳も、自分が代替品とは思わないだろう。猿倉を訪れるのは、あの壮絶な経験であった、不帰キレットの行程以来である。あの時は登山者の群から外れて鑓温泉を目指したが、今度は、マジョリティの一員となって、名高い白馬大雪渓を初体験する。其れも妙案だと思い至った。云う迄も無く、白馬駅迄、ムーンライト信州に乗り続けることで、青春18きっぷの利幅が大きくなる。帰途も白馬から東京迄乗車するので、効用が倍増する。どうも、北アの計画に於いて、此の青春18きっぷに邪念を注ぎ込まれているような気がしないでもないが、止むを得ない。

隣席の女性が、安眠マスクと耳栓をして、順序良く睡眠に入った。手馴れたものだと感心しながら、私もいつしか眠ったようだった。浅い眠りは、塩山や甲府で途切れたが、はっきりと覚醒したのは、塩尻に着く直前だった。時間調整の為に長時間停車する塩尻駅のホームに出て、紫煙を燻らせる。全く同じ時刻に、此の駅で未明に煙草を一服した、昨年の夜行日帰りの焼岳のことを回想する。一年の時の流れが、此の時突然実感として湧き上がってきた。

今年は、昨年程自分が鬱屈していないのを感じる。単独行の夜行利用が厭で仕様が無かったが、今では其れ程でも無くなった。経験による感覚の麻痺なのか、物事をペシミスティックに受け入れることに慣れてしまったからなのか、其れとも齢を重ねた挙句の諦念なのか、判らないけれども、私は何とも云えない安穏とした気分だった。

松本、穂高で乗客が漸次下車して、車内は閑散としていく。隣席の女性が別席に移動したので、私はサンダル履きから登山靴に、山行きの準備を始める。信濃大町を発車して、何時も見惚れる海ノ口駅を通過すると、仁科三湖が車窓に現われて消えていく。そうして、二年ぶりの白馬駅に到着した。ゆっくりの足取りで、駅前のバス乗り場に向かうと、既に猿倉行きの長蛇の列が出来ていた。座れるだろうかと不安になりつつ列の最後尾に並んだ。

バス会社の係員は手馴れた風で、八方の人は向こうのバス停に、栂池には行きません、などと声を張り上げて、間違えて並んでいる人々をテキパキと炙りだして指示を与えている。行列は徐々に前に移動していき、程無く現われたバスに乗車すると、私はなんとか座ることが出来た。乗客は途切れることなく増えて、ザックと人間ですし詰め状態になった猿倉行きバスは、慌しく発車した。そうして、私の北アルプス行が、漸く始まった。

上高地から焼岳の往復

満席である筈の『ムーンライト信州』の車内は、新宿駅の発車時刻が近づいても、閑散としていた。取り敢えず指定券を購入して旅行を取り止めて、キャンセルの違約金を支払わないで切符を放擲する者が多いと云うのを、目の当たりにした恰好であった。由々しき問題ではあるが、隣席に人が居ないので乗り心地は良い。立川と八王子を過ぎて検札を済まして、静まり返った車内は旧式電車のモーター音が鈍く響き、線路の継ぎ目を刻む車輪の音が虚しい感じで繰り返されている。私は、何かに追われているような想念が消えない儘、いつしか眠りに落ちていた。

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2015/8/2

帝国ホテル前(6:25)---田代橋(7:00)---焼岳小屋(9:05)---中尾峠(9:35)---焼岳北峰 (10:45)---焼岳小屋---中ノ瀬園地---上高地バスターミナル(14:15)

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何処に行こうと云う目的もなく、入手困難である臨時夜行『ムーンライト信州』の指定券を確保しただけのことであった。乗車券は勿論、青春18切符である。誰と約束した訳でもないので、計画は自在に立てることができる。其れは登山の喜びに比肩するくらいに愉しい作業である筈なのだが、日常生活の疲労が苛烈で、深夜に多様な思索に耽ると云うことができないでいたから、何処に行こうかと考える愉しみが、何時の間にか、何処に行くのか決めなくてはいけないと云う、強迫的な想念に苛まれるような気分になっていった。

信州行きの切符を買おうと云うくらいだから、北アルプスの何処かに行こうと考えているのは明白である。日曜の早朝に上高地に着いて、月曜の夜中までに帰京すればよい。テントを担いで穂高を越えると云う、昨年のような行程も可能であるが、結局は登ったことのない活火山、焼岳に登って、其の日のうちに帰京すると云うことに決めた。月曜日を休養にしたいのと、日帰りであれば、18切符の一日分で松本迄往復できると云う吝嗇な計算もあった。日本全国の活火山が蠕動している。焼岳に何時登れなくなるかも知れないと云う想像も手伝って、今回の旅程は確定した。何かに追われているかのように落ち着かない、自己の内面を暴露されているような旅程であるな、と自分で思った。幕営をしないので、荷造りは簡単に済んだ。

岡谷に到着するあたりで覚醒した。臨時夜行は甲府辺りで終電を逃した人々に重宝にされているようで、指定券を持たない儘区間利用している人が多く居ることを知った。座席は随分空いているのに、彼らは律儀にもデッキに立っているのが不思議だった。長時間停車する塩尻のプラットホームで紫煙を燻らせる。旅に出ていると云う実感が希薄で、高揚感と云うものが無い。夜行列車のうらぶれた雰囲気が、其の儘自分の身の上を象徴しているような気がして、憂鬱になった。

上高地線の電車に乗り換えても乗客は疎らだった。夜明け前の松本盆地を走る電車は、臨時夜行に接続している所為か、殆どの駅を通過していく。新島々駅に到着して、上高地往復の割引切符を精算所で購入した。バスの案内係が荷物室を開けて待っていた。帝国ホテル前で降りる旨を伝えると、荷物は車内に持ち込むように指示された。バスが発車して、安曇支所を過ぎて、いよいよ山に分け入ると思えば心が躍るかと思ったが、私はずっと眠った儘であった。覚醒したら、丁度良いタイミングで、釜トンネルに突入するところだった。勾配を登り続ける隧道が終わると、肌が削り取られた尾根と薙の眺めが広がり、其の遠くに、焼岳の全容が現われた。今年も上高地に来たのだな、と云う思いが湧きあがり、私は漸く、躯の底に在った滓のような鬱屈が消えていくのを、感じていた。

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真夏の朝の六時半に、帝国ホテル前バス停に降り立った。所在の無い儘、田代橋方面の道標に従って歩いた。上高地帝国ホテルの従業員宿舎から、ひとりの男性が現われたので挨拶を交わした。帝国ホテルの従業員は、姿勢がすっとして凛々しく、格調の高さが自然の趣の儘にアレンジされたような爽快さで、挨拶をした。自然林の佇まいですら、帝国ホテルの周囲だけかしこまっているように見える。違和感は心地好さとなって自分の心の裡に染み込んでいった。そうして、木道をふわふわと歩き続けて、中ノ瀬園地に着いた。公衆トイレで登山の服装に着替えて、田代橋を渡ると、上高地温泉に滞在している観光客の大勢が散策していた。西穂高登山口の前を左に曲がって、私は足早に観光客の群れから遠ざかっていった。

砂利道を緩やかに下っていく途中に、焼岳登山口が現われた。西穂から焼岳に至る山稜から支尾根が幾つも落ちてきて、谷が扇状に広がっている処に樹林帯が広がっている。其れを横断するように登山道が辿っていた。徐々に勾配となって、尾根の末端を乗り越える。其の繰り返しの果てに、砂礫の薙となって抉れた峠沢が現われて、視界は真っ白になった。正面には、もう焼岳の姿が間近に見える。此処から、樹林に覆われた尾根を実直に登り続けた。蛇行する道は時折薙の淵に出て、霞沢岳が快晴の青空を背にして、重量感を表現するかのように聳え立っているのが見渡せた。

眩い陽光が、断崖の瓦礫を白く光らせている。登山道は断崖の淵を丁寧になぞって、隣の尾根に移動しながら、梯子で作られた橋や、削られた崖に立てかけられた梯子が断続的に登場していく様相になった。高度を随分稼いで、焼岳はもう直ぐ其処のようにも見えるが、登山道の尾根と焼岳の間には、絶望的な程に深い、瓦礫の谷底が広がっている。向かう先である山稜の新中尾峠から落ちてくる尾根も、断崖となって切れ落ちている。登山道の行き場はどうなっているのかと思った処で、其れしか方法は無い、と云う風情で、梯子が三重に繋がって垂直になって、崖に立て掛けてあった。

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焼岳の登山道に就いて、何事も無いと思い込んでいたが、此の梯子を見たときは、冷や水を掛けられたような気持ちになった。梯子は十数メートルの高さで、剥き出しの断崖に張り付くようにして打ち付けられている。岳沢からの重太郎新道に掛けられた梯子よりも、高度感がありそうに思えた。一瞬躊躇したが、俺は不帰瞼の鎖場を登った男なのだと自分に言い聞かせ、此の恐怖は想定していないものに突発的に出会った所為に違いないと自己暗示を掛けながら、何事も無いかのような素振りで、一心不乱に登っていった。

岩崖を越えて、愈々焼岳の全容が目の前に広がった。火砕流に抉られ、干からびた儘崩壊している山肌の、細長い尾根の上に樹木が苔のように貼り付いている。登山道は焼岳には向かわず、稜線の北東に舵を切って続いている。植生が変わり、笹原が足元に広がる中を歩いていった。快晴の好天だが、陽射しを遮るものが無い斜面をジグザグに登っていると、次第に意識が茫洋としてくるような気がした。西穂から続く山稜の直ぐ下に居るのに、登山道は焼岳に背を向けて辿っている。そうして漸く、緑色のトタン屋根が視界に入ってきた。軽い眩暈を感じたので、焼岳小屋の軒先に座って休憩した。

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稜線を南南西に切り返して登り、瞬く間に天空の眺めが広がった。奥飛騨側に笠ヶ岳が、巨大な衝立のように聳えている。漸く、随分登ってきたのだなと云う実感が湧いてきた。振り返ると、穂高連峰が稜線の彼方にぽっかりと連なっている。快晴で陰影の無い風景だった。目の前の焼岳は、赤茶色の山肌を剥き出しにして、頭部に幾つもの溶岩ドームがでこぼこに瘤のように生えている。

小ピークと焼岳の鞍部が中尾峠で、新穂高温泉方面の分岐を見ながら、瓦礫場の焼岳に登り始めた。こんな処に噴気孔があるよ、年配の夫婦がそんな会話をしている。雲ひとつ無い快晴の下で、山肌から噴霧されている白い煙に近づくと、硫黄の匂いが漂っている。赤茶けた、と云うよりは白茶けている砂礫の道を斜行しながら登り、時折振り返ると、上高地から穂高連峰の姿が、愈々明瞭に見渡せるようになっていった。

上高地から此処迄、登山者は疎らだったが、北峰に近づくにつれて、夥しいハイカーが視界に入ってきた。新中の湯ルートから登ってくる者が、やはり多数のようであった。若い人、そしてグループ登山が殆どのようで、賑やかである。茫洋とした気分の儘、歩き続けてきたが、漸く登頂と云う直前で、忌々しい喧騒に出喰わして、最早全身に疲労感が染み渡っていくようであった。前回の日光白根山と同じで、土曜日曜を利用して人気の山に登ると、此のような憂き目に遭う。

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辟易した儘、山頂付近の稜線に乗り上げると、火口淵に突き出た尖峰が現われる。此れが2455.5mの最高点の南峰で、右側に登山道が北峰の方角に分岐していた。登攀禁止の南峰に至る登路の途上の鞍部から、中の湯への道が分かれているようであった。焼岳の登頂、其の最後は噴気孔から蒸気が湧き出る岩の合間を縫って登っていく。噴気孔の白い巨岩は脈を打つような感じで薄緑色に染まっている。子供の頃に観た怪獣映画のセットのようで、マグマが噴火したら、其の下から出てきそうな雰囲気であった。南峰の方を眺めると、噴気の気配は判らない。溶岩ドームに灰色の巨岩が折り重なっているようである。脈打つような北峰に、大勢のハイカーが呑気に登っているのが不思議な光景のように思えた。

標高2444.3mの北峰に登頂した。南峰と対峙する位置に立って眺めると、足元から水蒸気が湧き上がっている。眼下の火口底に、不思議な群青色の正賀池が在った。殺伐とした活火山の火口は、美しさを感じる余裕を与えない。息苦しいような気持ちになって、北面に広がる北アルプスの山々を眺めた。ジオラマのように並ぶ穂高、笠ヶ岳、そして霞沢岳。陰影の無い快晴の眺望は現実感が希薄だった。何かが足りない、そんな心持ちで立ち尽くしている。其れは精神の奥底にあるものの何かであろうと推察できる。我思う、故に鬱鬱とした何かが在る。私は賑やかな山頂から早速下山することにした。愛すべき穂高の山々が、他人事のように見える。もう、出直すしかないと思った。

焼岳小屋から躊躇無く来た道を下山した。足腰は疲弊していたようで、這松の登路で斜面に踏み抜いて、転ばなかったが方膝を付いた。痛苦よりも滑落の恐怖で我に返った。白日夢の中を歩いているような気分になっていた自分に愕然とした。崖の梯子を息を殺して降りて、焼岳に背を向けて歩き続けた。登山口に出たのが十三時を過ぎた頃で、ぐったりとした足取りで田代橋を渡る。中ノ瀬園地でふたたび着替えを済まして、梓川の畔に沿った遊歩道で上高地バスターミナルに向かう。他人事のようだった穂高連峰が、本来の神々しさを湛えた風情で屹立していた。其れで何故か、安堵した気持ちに落ち着いた。梓川の澄んだ川面が、眩しすぎる程、美しかった。


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追記

上高地バスターミナルから、新島々駅行きのバスは二台の運行で出発した。帰途もバスで居眠りを続けた。夜行日帰りの所以だろうか。気持ちが鬱々とした山の行程を思い返して、寝不足の疲労の要因も考えるに至った。松本駅で、昨年kz氏と一緒に入った饂飩屋で麦酒を飲んでから、鈍行を乗り継いで帰京した。18切符で往復できたので安上がりの遠出だったが、北アルプスの日帰りは、やはり精神衛生上よくないのではないかと感じた。

重太郎新道から奥穂高岳(後篇)

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北アルプス最高峰である標高3190mの奥穂高岳。象徴的な穂高見神の嶺宮が頂上に在り、其れがもう眼前に見えている。尤も、最高峰云々と穂高連峰の主峰を賛美するだけでは物足りない様な気がする。高いから偉いなどと云う、単純なことを考えている訳ではない。日本アルプスの象徴とも云うべき穂高山の美しさを、私はウェストンの言葉に惹かれて、辿り着き、感じたいと思ったのである。登頂を目前にして、万感の思いを表現する言葉が見つからない。だから、『日本アルプス再訪』から、奥穂高岳登頂の情景を引用することにする。


「できました。できました!」と嘉門次が叫ぶ。彼の心配そうだった顔に、安堵と満足の入りまじった笑みがいっぱいに現われ、それまでに溜まった陰鬱な気分が消えた。そして、脇に寄って、日本アルプス全体の中で最も美しい花崗岩の山の頂上を形成している、ガレた岩場へ立つように私を促した。我々はそこに長く留まるつもりはなかった。ただ、互いに喜びの言葉を交わしただけであった。
(ウォルター・ウェストン著。『日本アルプス再訪』水野勉訳・平凡社ライブラリー)



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2014/9/8

岳沢小屋(5:40)-----重太郎新道-----紀美子平-----吊尾根-----奥穂高岳(11:20)-----奥穂山荘-----涸沢(14:00)-----本谷橋-----横尾(17:00)

山頂の広場にふたつの隆起した岩塊が在る。嶺宮が鎮座する最高所のピークと、風景指示盤が設置された展望所であった。嶺宮に攀じ登る訳にもいかず、展望所に立って、ジャンダルムの半月形を眺める。もう見上げるべき山々の姿は無い。西穂への連なりの向こうに、遥かな雲海が広がっている。遠くに浮かんでいるのは白山だろうか。展望所に、ひとりの男性が登ってきたので、記念写真のシャッターを押して貰う。普段は頂上での記念写真などには拘らないのだが、奥穂高岳の頂上は、私を無邪気な行為に駆り立てるのだった。

ジャンダルムから、ひとりの登山者がやってきた。達成感を表現して、万歳をしながら近づいてくる。柔和な表情の西欧人が展望所に到達した。独逸からやってきたと云う彼に、片言の英語で祝福の言葉を掛ける。難しかったかと訊ねたら、大きく頷いた。あの頂点に立つ時が、いつか訪れるのだろうか。私は、多くの人が思うであろうことを胸に、改めてジャンダルムを眺めた。奥穂高岳の頂上。此処から眺めていると、ジャンダルムは直ぐ目の前に在る。其処に向かって歩いて行くのは、全く非現実的なこととは思えなかった。

賑やかなハイカーたちが到達しようとしていたので、私は昂揚した気分の儘、奥穂の頂上を立ち去った。壁のように広がって聳える笠ヶ岳は、初めて眺める姿であった。岩稜の道の先に、穂高連峰が続いている。槍ヶ岳が、彼方から私を見下ろして屹立している。登るべき秀麗な山々が、眼前に広がっている。そう思うと、躰全体が浮遊感に覆われたようになって、私の意識は恍惚となっていった。そしてもう一度振り返って、ジャンダルムを眺めた。半月形の北面が少しだけシルエットになり、薄暗い岩壁の表情は威圧的で、不気味な程に静かに、聳え立っている。


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錆びたピッケルが突き刺さった、洒落た道標が現われて、瓦礫場の道が高度を急激に落としていった。涸沢岳が正面に聳えて、眼下の鞍部に奥穂山荘が窺える様になった。事前の知識である、山荘から奥穂頂上へ向かう急峻の難所。其れがどういうものなのかと思いながら下っていった。鎖と梯子が連続して現われる崖は全くの垂直であったので、私は首肯しながら慎重に下っていった。笠ヶ岳と穂高平の在る谷底が、山峡に挟まれた眺望になっていくのを見ながら、広々とした穂高岳山荘に降り立った。

正午を廻った時刻だったが、山荘で昼食を摂っている人の数は疎らだった。広場に設置された椅子に座って、ささやかな冒険の御仕舞いを堪能しながら、紫煙を燻らす。食堂で何か食べようか、などと考えてみるが、特に食欲は感じないので止した。岳沢小屋テント場で朝食を摂ったきりだが、然程空腹を感じると云うことが無かった。私は、此れからどうしようかと云う思案を始めた。

ザイテングラートを下って涸沢に、漠然とした予定では、今日は其れで終了と云うことになっている。しかし、時間は未だ有り余る程に在る。涸沢迄の所要コースタイムは二時間程度となっているので、随分早い時刻の幕営と云うことになる。今は見下ろしているが、涸沢から眺める圏谷の風景は何度も写真や映像で見た通り、見事なものだと思われる。夥しい数のハイカーたちが好んで滞留する、涸沢はその様な処である。大勢の若者たちが嬌声を上げて羽目を外して騒々しいテント場。そんな情景が浮かんでくる。私の神経が、勝手に強迫されているだけなのだが、その様な想念が浮かんでしまう。


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折角絶景の中に居るのに、私の心裡は興醒めしていくばかりだった。其れで、此の儘下山を継続して、横尾迄歩いてしまおう。そう決断した。決めてから、早速ザイテングラートを下り始めた。奥穂高岳の前に立ち塞がっている尖峰が霧に包まれていく。振り返って其れを見上げながら、私は軽快に歩き始めた。可能ならば、徳沢迄歩いてもよい。緑に包まれた徳沢のキャンプ場の情景を思い浮かべ、単なる思いつきが名案に思えてきた。

側稜と云う意味の独逸語であるザイテングラートと名付けられた岩稜は、広大な涸沢カールの雪渓に併行して尾根が連なる登山道だった。砂礫の足元に神経を遣いながら、断続して現われる巨岩の合間を摺り抜けるようにして下っていく。随分歩き続けている筈だが、不思議な程疲労感は無かった。何処迄も見渡せる先に岩塊が隆起していて、其処に到達すると、ルートは大きく左手に逸れていった。岩塊を捲いて圏谷の肌に降りると、一面に岩が敷き詰められたような傾斜を下っていく様になる。そして、前穂北尾根の屏風を背景にした擂鉢の底に、赤い屋根の涸沢ヒュッテを見下ろすようになった。

目標が視界に入ったが、其れからは却って茫漠とした変わらない風景の中を歩き続けている様な気分だった。幾ら歩いても、涸沢の底は近づいてこない。陽射しが強くなってきて、意識が朦朧としてきた。其れに呼応するかの様に、足裏が痛いと云って悲鳴を上げる。倦怠感が、実直に疲労の感覚を呼び覚ました様であった。漸く樹林の塊が近づいてきたので、木陰になっている岩場に座り込んで休憩した。時間に追われている訳では無い。ザックを下ろすと、躰全体が弛緩した様になった。

其の儘茫然と紫煙を燻らせていると、西欧人の若い男性と、妙齢の日本人女性のふたり組が登ってきた。涸沢を出て間もない頃かと思うが、軽装の男性の表情は疲れきっている風である。声を掛けたら、女性の方が不安そうに、あとどのくらい掛かるでしょうかと訊いてきた。其れは私を困惑させる質問だった。穂高岳山荘迄どのくらいかと云えば、コースタイムで三時間弱であるから、そう答えればいいのだが、見るからに疲弊している態の男性を見ると、もう少し掛かるかもしれないなとも思えた。現在の時刻は午後二時に近いから、山小屋に向かう者としては行動が遅すぎる。


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仕方が無いので、陽が暮れる迄には着けるだろうから、焦って怪我をしないように、と云った。私は確信を持って他人にアドバイスできる様な人間ではないのだが、彼等にしてみれば、巨大ザックを傍らに置いている私は、多少の経験者に見えるのだろう。心なしか安堵した表情になって、彼等は瓦礫場の坂路を登っていった。私は、涸沢に屯する多種多様な人種に対する自分の想念が、其れ程的外れでは無いと云うことを知った。涸沢の喧騒は、もう直ぐ其処迄近づいてきていた。

岩場から左手に在る尾根に沿っていく様になって、沢のせせらぎの音が聞こえてくる。唐突に現われた建造物の敷地に、裏手から入って廻り込んだら、其処は涸沢小屋のテラスだった。テーブル席に落ち着いて、改めて涸沢カールの広がりを見上げる。快適な施設から眺める、文句のつけようが無い絶景であった。生麦酒のジョッキを傾けて談笑している親爺たちを見て、危うく徳沢迄歩くと云う決断を反故にしてしまいたくなるが、何とか堪えて、此の快適な空間から立ち去ることにした。


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単独行の愉悦は、勝手気儘に自分の行動を決められることにある。恣意的に予定を変更できる。人間関係の均衡を保つと云う気苦労の必要が無い。そして其処には、寄る辺無さと云った様な寂莫した感覚も無い。誰が何をしていようが知ったことでは無いからである。しかし、涸沢のような場所にひとりで居ると、そんな我儘な思惟が、呆気なく揺らいでくる。愉しそうにしている人々を見ると、相対的に孤独感が湧き上がってきて、自分が詰まらないことをしている様な気分になる。其れを認めたくないから、私は逃げるように、涸沢から去っていこうと思う。

涸沢小屋から石畳の道を下って行く。カラフルな夥しい数のテントが並んでいる。誰もが、此の自然美の懐に包まれて、満悦している。其の合間を黙々と私は歩いていた。雪渓の彼方に、奥穂高岳が当たり前の様にして聳えている。其れを見上げて、私は自分の歩いて来た道を反芻してみる。

険しい岩崖が在れば、不快な藪道も在る。そして頂上に辿り着いたら、もう何も無い。黙々と行なってきた全てが、無に帰っていくかの様な気分になる。此れ迄の自分の人生が、どれ程のことであったのか。未練がましく考えてしまうことが、どうでもよいことのように思えてくる。其れはどういう訳だか、爽快な気分でもある。そして、其の感懐を求めて、私は山に登りたくなってしまうのだなと、改めて認識するのである。

賑やかな涸沢ヒュッテから離れる様にして、分岐点を左に入っていく。涸沢に到着するハイカーたちが、続々とやってくるのと擦れ違う。彼等の表情は、一様に安堵と喜びに包まれていた。私はひとり、涸沢に背を向けて、下山の途に就く。随分休憩したので、徳沢迄歩けるだろう。喧騒から離れるに従って、私の足取りは、徐々に軽快になっていった。


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追記

屏風岩を迂回して横尾谷を辿る道は長かった。気がつけば歩行時間が10時間近くに達している。本谷橋に辿り着いた頃には、足裏の痛みが激烈になり、河原で裸足になって休憩した。横尾からさらに一時間を掛けて徳沢迄歩くと云うことを、この時完全に諦めた。横尾大橋の直ぐ下にテントを張って、長い一日が終わった。歩行時間11時間20分は、やはり苛烈なことだった。

2014/9/9

横尾(8:00)-----徳沢園-----明神館-----穂高神社奥宮-----河童橋-----上高地バスターミナル(11:00)

好天の横尾を出て、普通に上高地迄の道を歩いていたが、明神から分岐して、歩いたことの無い明神池側に渡ることにした。最後に静謐な湿地帯を歩くことができて、此の選択は正解だった。帰途は高速バスで帰ろうと思っていたが、「さわやか信州号」は午後三時迄待たなければならないので、新島々行きのバスに乗り、松本電鉄上高地線に乗り換えて、松本駅からは結局JRの鈍行で帰ってきた。後から考えると、松本バスターミナルから新宿行きの高速バスが頻繁に運行されていることに気付かなかったのが不思議であった。JRは茅野駅で接続が悪いから、駅の売店で缶麦酒と肴を買い求めて、プラットホームの孤独な酒宴を開催した。山小屋で高価な缶麦酒に慣れてしまったので、駅で買った缶麦酒がもの凄くお買い得のような気になってしまい、二本目を買いに行った。売店のおばさんが笑った。

重太郎新道から奥穂高岳(中篇)

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未明の暗闇の中で、テントを畳んで身繕いを終えて、パンと珈琲の朝食を済ませたら、漸く遠くの空から黎明の兆しが現われた。空は重厚な雲で覆われているが、山々の眺望を隠す程では無かった。曖昧な夜明けを迎えながら、私はザックを背負い、重太郎新道を登り始めた。樹林の中をジグザグに登り、視界が開けて振り返ると、岳沢小屋のテント場を眼下に、顔を上げたら、明るさを増してきた空に青味が増してくるのが窺えた。全ての荷物を背負って、今日は奥穂に登る。其の後のことは、漠然としか考えていない。涸沢に下って一泊して、明日はゆっくり上高地へ帰ればよい。吊尾根を歩いて、奥穂高岳に登頂し、北アルプスの眺望を眺めれば、もう何も云うことは無い。私は、意識的に逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと歩いていた。


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2014/9/8

岳沢小屋(5:40)-----重太郎新道-----紀美子平-----吊尾根-----奥穂高岳(11:20)-----奥穂山荘-----涸沢(14:00)-----本谷橋-----横尾(17:00)

実直に続く登山道から、唐突に岩の重なる崖を攀じ登るようになって、程無く最初の梯子段が現われた。冷たい雨に濡れながら登った前回を思うと、何事も無いと謂う気分だった。道は岩崖状の斜面を丹念に抉って続いている。其の途上で、下方から物音が聞こえた。誰よりも早く出発したが、もう後続に追いつかれてしまったらしい。岩場が緩やかになった処で、追い越して貰う為に立ち止まった。

やってきたのは単独の中年男性で、昨日も岳沢への途上で会った人だった。挨拶を交わして先に行って貰ったが、其処から直ぐに登りついたら、展望が開けるカモシカ立場だったので、休憩している彼に追いついてしまった。私もザックを下ろし、懐かしい場所に腰掛けて上高地の方を眺めた。岳沢にテントを置いて前穂を往復すると云う中年氏に、私は初めて前穂高岳に登った時のことを随分喋った。人恋しかった訳ではない。無性に其のことを話したい欲求に駆られていた。雨の中を登ったんですか、と、一応の反応をして呉れたのが嬉しかった。

身軽な中年氏が軽快な足取りで去っていった。ふたたび誰も居ない、静かな重太郎新道を登り続けた。梯子段が二箇所に渡って登る箇所を経た後も、鎖の付いた岩崖が続いた。岩の塊に足場を見つけて無心に登り続け、やがて一挙に眺望が広がった。吊尾根の稜線を目で追っていくと、前穂高岳の姿が明瞭に在った。振り返って、岳沢パノラマと書かれた岩の向こうに広がる、上高地の風景を見渡す。焼岳は相変わらず赤味を帯びた山容で聳え、霞沢岳が対岸に屹立している。北アルプスの入口で二対の山が立ち塞がり、近寄る者を睥睨しているかのようでもある。遠く正面に聳える乗鞍岳と木曽御嶽山が、別格の貫禄で連なっている。


Dake2

ペンキマークが記された岩塊にステップを刻んでいくと、あっという間に高度が上がっているのに気付く。前回の下山時に怪我をした、砂礫混じりの急斜面を喘ぎながら登っていると、猛烈に速い、トレイル・ランニング風の男性が追いついてきた。今朝上高地から登ってきたと云うから、巨大ザックを背負って鈍重に歩いている私とは好対照である。立ち話をして、私はトレラン氏にも前回の前穂登頂のことを喋った。自分でも、どうかしているなと思うくらいに、熱心に喋っていた。

懐かしい雷鳥広場に到着した時は、何だか呆気なく此処迄来たなと云う気分だった。陽光が降り注ぐ晴天では無いが、穏やかな天候であった。時刻は朝の八時で、申し分の無いペースである。紫煙を燻らせて暫く休憩していたら、後続のハイカーが徐々に登ってくるのが見えた。ふたたび歩き始めると、岩尾根の南側を捲くようにして、着実に高度を稼いでいく。前穂が聳える前衛に、幾つかの岩塊が重なって盛り上がる突起が見えた。其の塊の裾に、鎖が垂らされている斜面が在る。出来るだけ鎖に頼らず、岩の裂け目に足場を探して登り続ける。其れを何度か繰り返して、紀美子平に到達した。


Dake3

眺望の利く紀美子平に立って、改めて前回の記憶が蘇ってきた。奥ホ、と記された岩の向こうを見ると、吊尾根の連なりの果てに、鋭利な尖峰が頭部を覗かせている。あれが奥穂高岳だろうか。愈々念願の踏路を前にして、気分は昂揚していくばかりだった。紀美子平は、想像以上に多くの人々が休憩していたので、突然喧騒に巻き込まれたような気分にさせられる。私は、少しの休憩で、早々に出発することにした。

吊尾根に入っても、登山道は南面をトラバースしているので、広がる景色は相変わらずの上高地方面である。しかし、此れ迄の眺めとは違って、今歩いて来た重太郎新道が、恐竜の背びれのような姿で連なっているのが見える。雷鳥広場には多くのハイカーが休憩している様だったが、客観的に眺めると、重太郎新道が鋭利な錐台の上を辿っていると云うのが初めて理解できる。視野が広がる、と云うのが文字通りに実感できる眺めだった。


Dake4

岩塊の登山道は、概ね明瞭に続いているが、時折積み重なる岩が行く手を阻む。マーキングを頼りに攀じ登って越える時、岳沢側の谷底が深淵の様に見下ろせるから、神経のコイルに電流が流れて、針が振れたみたいにどきんとする。そんな登山道で、対向から案外な数のハイカーたちがやってきて擦れ違う。吊尾根は、奥穂からの下山ルートとして使う人が多い様であった。上高地側のトラバースは随分長く続いていたが、次第に稜線が近づいてきているのが判った。やがて、分岐点、と記された岩が正面に現われた。

登山地図に記されている「最低コル」が此処の様であった。分岐点の印から稜線に向かって、私の進行方向からすると折り返す様にして進路が在る様で、前穂高岳に稜線伝いで辿っているのだと察せられる。其れを見送り、真直ぐにトラバース道を進んでいった。吊尾根のエッジに、徐々に近づいてきている。私は、固唾を飲むような気持ちで、緩やかに傾斜を辿っていった。

リッジの淵から鋸歯状の連なりを見た時、躰を風が駆け抜けていくような気がした。日蔭の黒い圏谷に、雪渓の白が目立つ峻険な岩峰の群が屹立していた。前穂高岳北尾根を、直ぐ間近に見ている。吊尾根は、前穂に向かって鋭利な稜線で繋がっていた。涸沢カールの全容は未だ見渡せないが、漸く北アルプスの全貌を眺める稜線に近づいて来たのだと思った。


Dake5

此れからは稜線上を歩くのかと思ったら然にあらず、ふたたび登山道は上高地側の斜面を捲いていった。岩崖の斜面は、巨岩が重なり合っているので、足場を探すのは容易だった。しかし、稜線の上部が遠ざかっていくのは何とも歯痒い気持ちにさせられる。其れ程に尾根が峻険なのだ。自分に云い聞かせながら、歩き続けた。大きく隆起した岩塊を何度か越えて、尖ったピークが現われる。地図に記されている3071mピークだと察せられる。惚れ惚れする程の鋭利なピークだが、此処も左に捲いていく。ピークを廻り込んでから、直截的にリッジ上に向かって登る。鎖の付いた斜面だが、大過無く登りきった。

ふたたび吊尾根の上に立って、今度こそ涸沢の全容が見渡せた。前穂北尾根と、北穂高岳の尾根に囲まれて、眼下にカールが広がっている。そして、北穂の向こうに、写真で何度も見たことのあるランドマークが小さく浮かんでいる。常念山脈を縦走して、一度も見ることの出来なかった槍ヶ岳であった。

稜線は更に高みへと向かって続いていた。険しい岩場、鎖場を経て、視界が開ける。奥穂の方角に、岩が無数に刺さった棘だらけの様にも見えるピークが聳えている。近づいてくる目的地を意識して、気持ちの治まりが付かない様な儘、其のピークに向かって歩いていた。やがて岳沢の谷底から、顕著な岩尾根が登ってくるのが窺えた。其れが棘のピークに向かっていて、私の行く先に合流していく様に見えた。此れが南稜と呼ばれる岩尾根で、吊尾根に愈々近づいてくる頃、私の進路も険しくなり、巨岩の隙間に鎖が垂らされている処を登っていくようになった。


Dake6

辿り着いたら指導標に奥穂、前穂が記されていて、其の中心に、南稜ノ頭の名が在った。涸沢と岳沢を等分に眺めることの出来るピークで、稜線の先を見れば、直ぐ其処に奥穂高岳の頂上が見える。天井は厚い雲が覆われているが、全ての地平の先が見渡せた。空が近いと云う表現では違うかもしれないが、雲の天井が直ぐ上に在るようで、随分高い処に居るのだな、と云う実感が湧いてくる。

私は重いザックを下ろして、涸沢側を見渡すリッジの岩場に腰を下ろして、休憩することにした。奥穂高岳に到達すると云う確信に、全てが満たされていく様な気分だった。其の喜びに、少しでも長く浸っていたい。私は、そんな倒錯した気分の儘、何時迄も南稜ノ頭で、紫煙を燻らせていた。
2017年8月
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