富士山・御坂・愛鷹・箱根

隔週で富士登山。馬返から佐藤小屋テント泊経由の吉田ルート。(後篇)

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大量の輸入牛肉に予め焼肉のタレを漬け込んでおいたジップロックのハードケースを取り出す。山用フライパンに野菜と肉を漸次投入すると、香ばしい匂いと煙がテント場に瀰漫する。私は缶麦酒を、叡君は缶チューハイのプルトップ蓋を開けて乾杯した。富士山吉田口一合目、馬返から此処佐藤小屋迄の道程は順調で、およそ三時間弱で踏破したことになる。二週間前の下見登山より三十分くらい余計に掛かったが、途中の軽食休憩を含んでのことなので、標準コースタイムよりも充分に速いペースである。

2018/8/29-30
馬返(11:00)---二合目(11:55)---三合目(12:50)---御座石(13:15)---佐藤小屋(13:50)(23:00)---七合目・日の出館(0:45)---八合目・太子館(2:00)---元祖室(3:20)---御来光館(4:20)---九合目(4:55)---富士山頂浅間神社奥宮(5:40)---下山口(6:30)---六合目(8:25)---佐藤小屋(8:50)(10:00)---富士スバルライン五合目(10:25)

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先々週と全く同じ行程で富士山駅に到着し、順調に馬返の登山口から歩き出した。大文司屋のお休み処では、親子ふたり組故か、一層の歓待を受ける。叡君は黙々と歩き、私は徐々に引き離されていった。二合目の小室浅間神社跡で休憩し、叡君の様子を窺うが、疲労感は無いようである。

幕営用の荷物などはクレッタルムーセンHuginに入れて私が背負い、叡君は自分用の着替えや食糧などを、クレッタルムーセンGungnerに詰めて背負っている。水とテント装備で、私のHuginの方が断然重いようにしてあるのだが、彼の足取りと表情を見て、ザックを取り替えて貰うことにした。大きく膨らんだHuginを背負った叡君は、うお、と声を出し、其れでも笑いながら、同じようなペースで、どんどん先行していった。

逞しくなった長男君に感懐を深めつつ、私はひとりでしみじみと歩いていた。と、感心したのも束の間、細尾野林道に交差する手前の、やや急勾配になっている木段の途中で、汗だくになった叡君が座り込んで、スポーツドリンクをごくごくと飲んでいた。我武者羅な若者らしさが微笑ましい。そう思いながら、ひと声掛けて叡君を追い越して林道を跨ぎ、私は淡々と歩き続けた。三合目の三社宮跡に達する迄、叡君に追い着かれることは無かった。

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ハイカーの多い三合目を敬遠して、四合目の大黒茶屋跡迄歩くことにした。漸く達すると、叡君はクレッタルムーセンHuginを下ろし、へとへとになって座り込んだ。そして、ザックをまた取り替えるかと訊くと、素直に応じた。テント装備の巨大ザックを背負って登り続ける、と云うことを体感して、素直に白旗を掲げた模様であった。私は、我が意を得たり、の気分である。

長男の叡君は、小学生の頃、家族登山に参加した折には、登り始めた途端に愚痴を云い出すような子供で、根気の無さが突出していた。その後は紆余曲折もあり、高校生の時から親元を離れて生活し、今は九州に在る某大学に在籍している。当然のことながら、私とふたりで山に登る機会は一度も無く、今回富士登山に誘って快諾はしたものの、決して能動的な素振りでは無い様子だった。高校のヨット部で三年間鍛えられただけあって、体力の心配は無さそうだが、気力が持続して呉れるか、其の点にだけ、一抹の不安を感じた出発前であった。だが、其れも杞憂に終わったようである。

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佐藤小屋のテント場に、今夜の寝床を設えて、我々は午後三時の酒宴を開始していた。叡君と諸事を語り合いながら酒を酌み交わすのは、何物にも変え難い時間だったが、今回も夜の十時に起床しなければならない。午後五時を過ぎた処で、テントに潜り込んだ。其れからきちんと眠れたかどうかは、余り覚えていない。とにかく、其の夜の十一時丁度に、私と叡君は佐藤小屋を出発し、夜間の富士登山を開始した。

馬返からの登山道ではTシャツと短パン姿だったが、深夜の富士山五合目は充分に寒く、就寝時の重ね着アンダーウェアの上から登山ズボンを穿いて、叡君は歩き始めた。経ヶ岳を経て、暗黒の樹林帯の急登を黙々と歩いているうちに、身体が温まってくる。六合目の安全指導センターが視界に入った辺りで、股引を脱ぐよう、衣類調整の指示をした。

風は無く、月が煌々と光っている。とりあえずは好天に恵まれたようであった。七合目の花小屋迄、整地されたジグザグの道を、淡々と登り続ける。ふたりのペースは申し分が無かった。しかし、暗闇の中、八合目迄の岩場を歩くのはさすがに難渋していたようである。太子館に着いた途端、叡君はベンチに座ると、弱音は吐かないが、ちょっと休む、そう云って仰向けになった。

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八合目、そして標高3100mを標榜する太子館の看板を見て、全行程の八割方を登ってきたと合点するのは止むを得ないことである。疲弊して仰臥している叡君に、糠喜びを先延ばしさせないように、私は、此処からが長い行程であり、次は九合目では無く、本八合目であることを告げる。若者は気落ちする様子も無く、解った、と呟くように云った。

岩場は無くなるが、砂礫の斜面を延々と登り続ける。八合目から本八合目の区間は、忍耐の時間帯である。白雲荘、元祖室では気温が急降下してくるのを肌で感じる。前回のように風雨に襲われるということが無かったのは幸いであったが、我々は防寒の為のレインウェアの上着を重ねた。そして、八号五勺の御来光館に達した頃、地平線に赤味が増してきた。下見登山の時に比べて、僅か十分の延着である。叡君の脚力は未だ衰えていない。少しの休憩で出発する。黎明の空に、富士山の頂上が直ぐ其処に在るように見える。

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鉛色の雲海が徐々に明度を上げて、標高凡そ3500mから、全ての景色を眼下に視界が開けてくる。雲の絨毯から突き出た山塊は、距離を推し量る下界の様子が判らないので、どれが何の山だか判らない。唯一確認できるのが山中湖で、ちょうど雲が渦巻く中に、ぽっかりと其の形を表出させている。其れを起点に考えると、突出している山塊は御正体山なのかなと思うが、正確には判らない。四方の山を見下ろして、と云う唱歌のフレーズが浮かぶ。全ては下方を窺うような視点の、富士山の上部に居るのだと云う認識が、判然としてくる。

硬貨が無尽に差し込まれた九合目の鳥居に達した。朝陽が今にも顔を出しそうな気配である。鳥居の下に座り込んだ叡君は茫然と足を投げ出した。佐藤小屋から六時間を歩き続けているので無理も無い。頂上を間近に控えて、後方から登山者たちが続々と登って来る。

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此処で御来光を待ってもよいが、光量の増す地平線から、太陽の姿はなかなか現われない。少々の休憩で鳥居から歩き出す。白いロープで区切られた登山道が、ジグザグに斜面を辿っている。其の途上で、雲海の更に上を漂っている雲が真っ赤に染まる。振り返ると、滲んだように濃厚な朱色の日輪が彼方から出現した。御来光を拝むと云う感興よりも、寒さを溶かして呉れる暖かさに対する、安堵の念が湧きあがってくる。太陽の光の有難さを、今更のように感じている。

昇りきった朝陽が色の温度を上げて、我々が久須志神社の山頂に辿り着いた時は、すっかり好天の青空になっていた。罫君の時もそうだったが、登頂を果たした叡君の表情も冴えない。やっと終わったかと云う顔である。ふたりで登りきったと云う達成感で情緒的になっているのは、私だけのようであった。人混みに溢れる御来光直後の山頂を辞して、我々は山小屋と売店が軒を連ねる雑踏の道を、下山口迄歩いていく。

須走口下山道の石柱に到達すると、大内院の火口底と、剣ヶ峰を始めとする御鉢の淵を一望できる。晴天となり眺望が開けて、申し分の無い登頂であったが、さすがは富士山頂、と云った感じで、強風が吹き荒んでいる。

富士の御鉢を眺めながら、カップ麺でも食べようと思っていたが、猛烈な風で其れどころではない。山口屋の裏手に入り、風は除けられるが余り居心地のよくない場所で、仕方が無いので湯を沸かして、ふたりで食した。後から思うと、下山道の途中で、のんびりと食べればよかったと思うが後の祭りである。

風除けのために、ひとりのハイカーが我々の居る処に入ってきた。若い外国人の女性は、我々の顔を見て、笑顔で話し掛けてくる。英語はなんとなく解せるが喋ることのできない私とは対照的に、叡君が澱みなく彼女と会話しているので、ラーメンを食べながらぼんやりと彼らの会話に耳を傾ける。早口で何だか判らない。東欧の国からのツーリストであること、昨日は山頂の小屋で宿泊したこと。日本の数多の山に登ってみたいと考えていること、富士山の人の多さに驚いていること。何を云っているんだと私が訊ねると、叡君は最小限度の言葉で教えて呉れる。私は曖昧な感じで首肯するばかりであった。

食事も終えて、御鉢巡りをする元気など微塵も無いので、早速下山に掛かろうとする叡君を呼び止める。私は未練がましく周囲を眺めて当惑する。記念写真を撮ろうと思うが、石柱に記してあるのは「須走口下山口」の案内だけで、富士山頂の言葉が無い。仕方が無いので、其れで我慢する。

富士山安全誘導員と思しき女性に頼んで、シャッターを押して貰う。撮って貰った画像を確認すると、愛想の無い筈の叡君が、きちんと笑顔で写っている。自分の家族だが、何を考えているのか、相変わらず判らない。そういうものなのだろうと思案を打ち切り、下山口に歩を進める。晴天はいよいよ本格化して、あれだけ纏わりついていた雲は消え去り、富士山吉田口、須走口下山道は快晴となり、叡君の足取りも、軽快になっていった。

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追記

ブルドーザー道を駈足で下山。叡君は疲労が極まったか、余り駆けることができない。単調なジグザグ道も此れで三回目なので、精神的には何の支障も無い。誤って須走ルートに迷い込んでしまう人が頻出していると云う江戸屋の八合目分岐は、明確な道標が在り、屋外スピーカーが連続的に注意喚起していて、人だかりがしている場所である。此れで間違うことがあるのかと思うが、そういうものなのかもしれない。

佐藤小屋に帰還し、撤収に一時間を掛けて、改めて馬返に下山しようとしたのが午前十時。叡君に指摘されてバス時刻を確認すると、次の発車は11:05でちょうど一時間後である。下見登山の時は急いで降りて一時間強掛かったことを考えると、先ず間に合わない。その次の発車は、二時間後となっている。のんびり下って、と云う考えは全く起きず、富士スバルライン五合目に向かうことにした。

歩調は其れ程でもなかったが、バス停に着くと予定したバスの、一本前の富士山駅行きが発車寸前なのに間に合った。勿論超満員だが止むを得ない。富士山駅では好都合なことに、バスタ新宿行きの高速バスが程よく接続していて、空席があったので乗車した。午後二時台には都内の自宅に帰着したので、今朝富士山に登頂したと云う実感が、少し揺らぐ程であった。




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隔週で富士登山。馬返から佐藤小屋テント泊経由の吉田ルート。(前篇)

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吉田口ルートでの富士登山は一年前に敢行した。佐藤小屋にテントを張り、深夜に軽装で出発すると云う計画は其れ程無理の無い行程の筈であった。次男の罫君とふたり登山の予定だったが、友人の親子と計四人での登山となり、其れが結果的には著しく遅いペースで登頂した要因となった。そんな苦行の混じった山行だったが、富士山駅から馬返バスを利用することで、テント装備でもストレスは少なく、一合目から五合目迄登ることができるのを実感した。一度通った道である。今回は同じ行程で、大学生になって九州に住んでいる長男の叡君が帰省しているので、一緒に登ることにした。

夏季休暇中の八月十九日に出発と日程を設定していたが、叡君の都合により、其の二週間後に実行、と云うことになった。次男の罫君とは、前穂高岳富士山に登頂したが、叡君とふたりと云うのは珍しく、十九歳にもなって、父親との山登りに付き合って呉れるだけでも僥倖と考えなければならない。私は非常に昂奮し、装備の準備に没頭していた。出発日が順延となり、当初の日程が白紙となってしまったが、私にはさしたる用事も無い。其れで、下見を兼ねて、と云う理由付けを無理矢理自分に云い含めて、ひとりで出掛けることにしたのである。

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2018/8/19-20
馬返(11:00)---三合目(12:00)---御座石(12:45)---佐藤小屋(13:20)(23:20)---七合目・日の出館(0:50)---八合目・太子館(1:55)---元祖室(2:55)---富士山ホテル(3:30)---御来光館(4:10)(4:50)---六合目(6:40)---佐藤小屋(7:10)(13:00)---一合目(14:00)---馬返(14:20)

大月駅での乗り換え時間は僅かだったが、急いで構内の天麩羅蕎麦を食してから、富士急行のローカル鉄道に乗車した。登山姿の客は無く、若者の観光客が目立つが、鉄道で移動する人は多くは無いようであった。のんびりした心持ちで、満腹になったので微睡みながら電車に揺られ、順調に富士山駅へと移動した。

大量輸送を想定していない馬返バスは、大きめのワンボックスカーを使用しているが、今日は存外に利用客が多かったようで、私とひと組の男女計三名が定員オーバーとなって取り残されてしまった。どうなることかと思って様子を見ていると、富士急バスの職員が増便の手配を無線で行なっている。程無くやってきたのは、セダンタイプのタクシーだった。私は助手席に座り、富士急山梨ハイヤーは軽快に速度を上げて、中ノ茶屋で先行する馬返バスに追い着き、追い越して馬返に先着した。料金はバスと同額で、結果的には随分得をしたような気分になった。ふたり組みの男の方の饒舌が耳障りだったが、まあ仕方が無い。

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単独行なので直ぐ出発する。馬返バス停から歩き始めて間も無く、大文司屋のお休み処が現われる。素通りし難い程、愛想のよいスタッフの声掛けに、止むを得ず麦茶を御馳走になる。其処からは、勝手知ったる他人の家の如く、順調に吉田口一合目からのルートを淡々と歩いていった。五合目迄の日帰りハイカーの集団が存外に多く、三合目の見晴茶屋跡は大盛況であったが、此れも知見により回避し、少し登った先の、誰も居ない眺望のある広場で休憩した。一年前の所要時間が約四時間だったが、今回は二時間二十分で佐藤小屋に到着した。

受付を済ませて、幕場に降りていく。奥の方にひとつ、既にテントが張ってあった。私は淡々とエアライズを設営し、早い時刻だが焼肉と麦酒の孤独な酒宴を行なう。焼肉は本番である叡君との富士登山に於ける予行演習でもある。ひとりで飲食しても面白いことは無く、早々にシュラフに潜り、ウヰスキーを舐めながら本を読んでいると好都合な迄に睡魔が襲ってきた。出発は23時台なので、一時間前に起床のアラームを設定してある。此れなら六時間以上眠れる筈である。そんなことをぼんやり思いながら、私は眠りに落ちた。

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ごく自然に覚醒した。充分な睡眠をとったような気分だったが、テントの外は未だ明るい。時計を確認すると、三時間ほどしか経っていない。がっかりして寝直そうとするが其れは果たせず、私はテントを這い出して、佐藤小屋前のテラスに向かった。麓の河口湖と、背景に在る筈の御坂山塊は雲海に覆われている。海に浮かぶ島のように、奥秩父の高峰群が、遠くに並んで聳えている。地平線の境界から照射される、落日の色が混淆して、天井には鈍重な色の雲が広がっていた。小屋から少し離れて、富士山頂を見上げる。煌々と光る月が、富士山をシルエットにして輪郭を表出させている。登山道に沿って光源が点在しているのは、七合目から連なる山小屋群のものだろうか。

テントに戻り、ふたたび眠ろうとするが、断続的に覚醒してしまう。午後十時を過ぎた頃、諦めて出発の準備に取り掛かった。大容量ザックのクレッタルムーセンHuginに、防寒着と最小限の食糧と飲料を入れる。レインウェアのジャケットは着用して出発する。下半身はサポートタイツと、マーモット製のハーフパンツで、普段の低山登山と同じ恰好である。防寒用はレインウェアのパンツを充当する。必需品の入ったスタッフバッグには、ヘッドランプの予備と、雪山用に購入したミトン、そして被るだけのツェルト、Emシェルターが入っている。

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話は此処で唐突に、八合目付近迄飛ぶことにする。深夜に出発して、一年前と同じように、暗闇の経ヶ岳を経て六合目に達し、其処から整地されたジグザグの登山道を黙々と登ってきた。麓の夜景が明瞭に見渡せるので、単調な道程も苦にならない。単独行のペースは順調で、八合目の太子館に到達したのは午前二時に近い頃であった。一年前は此処に至る前の山腹の途上で、払暁の光芒を眺めた。今回は、前回よりも二時間以上は速いペースで、歩いていることになる。

全てが順調のように思われた。しかし、其れから一時間後に到達した元祖室辺りから、気温が急激に下がっていくような気がした。レインウェアが風に吹かれて、ぱたぱたと音を立てる。ずっと眺めていた河口湖町の夜景が、霧の膜を通して、薄っすらと浮遊している。標高3300mを越えて、周囲は霧に覆われ、風が強まり、雨滴が落ちてくるようになった。天候が変わった訳では無く、其のような状況のエリアに踏み込んできたと云うことなのだろう。

本八合目の富士山ホテルで、更に状況は悪化した。小屋の灯りの周囲には人が群がっている。蠢く霧の流れに乗って、雨滴の量は増してきていた。一様にレインウェアの身体を丸めて佇んでいる登山者たちの中で、ひとりの白人男性だけがTシャツに短パン姿で、喚くようにして声を上げている。雨に濡れて、指先が冷えてくると、全身に疲労感が染み渡ってくる。オーバーグローブのミトンを装着すると、実に効果的だった。私は、鬱屈した人混みを掻き分けて、先に進むことにした。

暗闇の中で砂礫の勾配を登っていくにつれて、風は強くなっていった。登山のペース配分は、申し分の無いものだった。しかし、登攀の意欲は、減退していくばかりであった。最後の山小屋、御来光館は、大勢の人が軒先に屯していた。富士山頂直下の風は勢いを増していて、小屋を離れた途端に直撃して来るので、とても前には進めない。登頂に向けて足を踏み出した若者たちが、ほうほうの態で引き返して来る。御来光館の軒先は人々で埋まり、腰を下ろして休むスペースが無い。体力と気力が、目に見えるかのように減退していくのが判った。

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所在無く小屋の前で佇立しているうちに、ツェルトを持ってきていることを思い出した。「身の危険が迫った時に素早く身を守りたい方には最適なアイテムです」という惹句のJuza製エム・シェルターは、厳冬期八ヶ岳登山の折に買い求めたものである。結局使用することはなく(使用する機会が訪れないことに越したことは無いのだが)、危機から身を守る実感は未だ体験できていない。此れは恰好の機会ではないかと思いついた。

小さく納まったポーチから取り出したエム・シェルターを広げて、御来光館の裏手に出た。途端に猛烈な風が襲ってきて、足元からふらついた。風の冷たさよりも、其の圧力の強力さに、恐怖を感じた。こんな吹き曝しの状況に、ツェルトを被っただけで、無事でいられるのだろうか。そう考えたのは一瞬のことで、私はあまりの暴風に、腰をかがめるようにして弱々しく座り込んだ。そして、直方体の底面が抜けている形状のエム・シェルターを、ザックを背負った儘、被った。

強風でばたばたと音を立てる袋の中で、私はザックを肩から外して対面に置いた。直方体の抜けた底面の淵を、臀部の下に敷いて固定する。対面の淵も同様にしてザックを置いて固定しようとするが、生憎の軽量使用であるクレッタルムーセンHuginがしっかりと立って呉れない。一計を案じて両脚を伸ばし、底面の淵の全てを巻き込むようにして座った。エム・シェルターは安定した。強風の圧力は感じるが、もう直截的に晒されることは無い。そして、中途半端に胡坐をかくような姿勢で、私はザックを抱いた儘、眠った。

気が付くと、風の勢いは止んでいる。時計を確認すると、凡そ三十分くらい眠っていたようだった。窮屈な姿勢の儘眠り続けて、身体が直ぐには動かない。膝を立てて、袋を被った儘、ゆっくりと立ち上がった。空に微かな青味が掛かっている。御来光館のテラスに戻ると、濃密な色の雲海の彼方から、朝焼けの朱色が滲み出してきていた。御来光館で御来光を拝むことになるのかと思ったが、太陽が顔を出す迄は、まだ時間が掛かりそうであった。

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夜明けの空を見上げる。富士山頂に向かって、登山道が続いている。天候が穏やかになり、登頂を目前に控えた登山者たちが登り続けている。順調なペースで此処迄登ってきた私は、強風をエム・シェルターで凌ぎ、滞留しているうちに、ツェルトの効用を実感できたと云うこともあり、すっかり満足してしまっていた。同時に、弛緩してしまった身体には、云いようのない疲労感が染み渡っていた。

視線を南に転じる。未だ薄暗い富士の斜面に、明瞭な軌跡が伺えた。ブルドーザー道を利用する、吉田、須走ルートの下山道である。其処に向かって、此の御来光館からエスケープ道が続いていた。其れを見て、私は唐突に、今日は此処で下山すると云うことに決めた。

本当の富士登山は、再来週に行なわれるのだ。馬返バスの増便、佐藤小屋の幕営、登山のペース配分、そして、八合目を越えてからの強風と雨。下見の登山としては、考えさせられることも多く、実利に適った結果となったではないか。私は、疲れてもう下山したいと云う、自分の裡にある欲求に、なんとか理由付けをしようとしながら、紫煙を燻らせて、エスケープルートの入口に立っていた。雲海のブルーが、徐々に明るさを増して、下山道が更に明瞭に映るようになった。そうして、私はゆっくりと、下山を開始した。


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追記

下山道に合流すると、未だ御来光前にも係わらず、下ってくる人が存外に多いのが意外だった。若い人が多く、女性グループは元気にお喋りをしながら歩いている。山頂での滞留が辛くて御来光前に下山しているのだろうか。私が下山道に入ったのは午前五時で、雲間から太陽が現われ、直射日光が差し込んだのは、其れから三十分後だった。実質的な御来光は、黎明の赤色が出現した時だったのかもしれない。

延々と続くジグザグの下山道だが、二回目なので覚悟していた所為か、其れ程苦には感じなかった。二時間程で佐藤小屋のテント場に帰還した。深夜の出発から累計で八時間が経っていた。テントに入ると、睡眠の欲求が湧いてきて、其の儘シュラフに潜り込んだ。アラームで目を覚ましたのが正午前で、四時間以上も眠った。

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身支度を整えて、馬返に下山する。佐藤小屋を出発して、直ぐに雨が降り出した。天候はやはり変わりやすいものと思われた。五合目の出発時刻から、馬返バス14:25発まで一時間二十分なので、間に合うのかと自分でも懐疑的だったが、半分は駈足で下り続けたら、一時間で一合目の鈴原天照大神社に到着できた。大文司屋のお休み処で麦茶をふたたびご馳走になり、ゆっくり降りると、雨の中で馬返バスがアイドリングを開始していた。乗客は私ひとりだった。


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断章的に。馬返からの富士山・初めての吉田口ルート

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2017/8/5
馬返(11:20)---一合目・鈴原神社(11:50)---二合目・小室浅間神社(12:30)---四合目・御座石浅間神社(14:10)---佐藤小屋(15:25)

2017/8/6
佐藤小屋(0:10)---六合目(0:45)---七合目・花小屋(2:40)---東洋館(4:00)---御来光休憩(4:50)---八合目・太子館(5:25)---元祖室(7:25)---八合五勺・御来光館(8:40)---九合目(9:35)---富士山頂・久須志神社(10:05)---佐藤小屋(14:30)


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昨年の夏休みに遂行できなかった、吉田口一合目からの富士親子登山を、漸く完遂した。次男の罫君とふたりでの登山と云うことで、計画は一年前に作成してある。馬返から佐藤小屋に登り、テントを設営して深夜に出立、御来光は登頂の手前で見ることになる行程である。そうして実際、上記の通り、佐藤小屋を予定通りに出発したが、其の後の行程は想像以上に時間が掛かり、凡そ十時間を掛けて、吉田口の頂上、久須志神社に到達したことになる。

思い出深い山行であった。登りの労苦は相当なものであり、知識としてあった山小屋の多さに感服し、山小屋従業員の冷徹な態度に立腹し、団体登山グループの渋滞に巻き込まれ、鈍重なペースに適応してしまい更に鈍足になり、雲海が明るくなっていよいよ御来光だと云うことで、中途半端な山腹で腰を下ろして休憩し、待つこと数十分で見事な日の出を拝み、御来光館の八合五勺に達した頃は中天に陽光が燦々と降り注ぎ、ベンチに座り込んでぐったりとなった。


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決行の数日前から天候予報が怪しくなり、どうなることかと思いながら出掛けてきたが、結果的には夜間歩きの途上でも寒さに震えることもなく、時折富士吉田市街の夜景も窺える程の好天であった。其れは好結果であり、喜ばしいことであったが、全体的な計画に多少の誤算が生じたのは、我々ふたりの登山ではなく、途中で志願してきた友人親子を加えての四人の登山隊になったことであることに要因が在ることは否めない。

友人の御子息は、初日の吉田口登山道の途中から嘆息して愚痴っぽくなっており、疲労を隠せなくなってきていたから、其の後の行程の様子は推して知るべしで、恐らく、私と罫君のふたりだけであれば、此れ程のスローペースにはならなかったのではないかと云う感懐を抑えることが出来ない。御殿場ルートで、初めての富士登山を経験したので、マジョリティの参加する吉田口ルートに関しては、全く不安を感じていなかったが、改めてグループ登山の難しさを実感したと云うのが率直な感想である。

それでも晴天の中、山頂部に達して、それぞれが納得し、安堵しつつ達成感を味わった。大幅な遅れと、疲労感の所為で、御鉢巡りは勿論断念した。山頂に売店が並び、人混みを掻き分けて通行すると云う光景に驚きつつ、下山に掛かった。吉田ルートの下山道は地図の通りに連続するジグザグが延々と続き、足元と共に神経が疲弊した。

佐藤小屋に戻り、テントを撤収し、此れも初めて訪れる富士スバルライン五合目に向かう。観光地の土産屋が並ぶ騒がしい場所だった。商店の店員の接遇の程度は低く、商品も同様であった。早く帰京したいと思うが、新宿行きの高速バスは既に満席なので、路線バスで河口湖駅に向かい、鉄道で帰ってきた。


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良くも悪くも、富士山の登山であった。思い出深く、反省点の多い山行であった。罫君とふたりで、来年もう一度登りたい、密かにそんな欲求が湧いているが、伝えたら、うんざりされるような気がするので、罫君には未だ伝えていない。ほとぼりが冷めてから、誘ってみようと思っている。

追記

今回の登山を終えた直後、台風5号が本州に上陸。其の影響で、我々が帰京した翌日の午後、大月駅構内の線路が冠水し、中央本線の四方津から塩山の区間が終日運休となった。記録的な大雨であり、岩殿山の斜面が崩れ、入山禁止となった。2017年11月現在、復旧のニュースは未だ無い。此の台風5号、発生から消滅迄の時間が長く、史上第三位の「長寿台風」だったとのことである。

【7月21日午前9時に南鳥島の近くで発生した台風5号「ノルー」は、日本の南を迷走して奄美地方を通過。その後和歌山県北部に上陸して、富山湾(日本海)へ。そして9日午前3時に山形県沖の日本海で温帯低気圧に変わりました。発生からの台風としての存在期間「寿命」は18日18時間におよびました。これまで統計がある1951(昭和26)年以降で台風の総数は1700あまりですが、その中での3番目に記録的な「長寿台風」ということになります】(日本気象協会webより抜粋)

箱根レーダー局前から星ヶ山公園「箱根登山詳細図」踏査隊と歩く。

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湯河原駅を出発した箱根町港行きバスが、藤木川に沿った県道の坂を登っていく。奥湯河原の温泉場を過ぎると椿ラインに入り、高原バスの趣になった。標高700mを超える芦ノ湖畔に向かっている訳なので、さもありなんとは思うが、車窓は既に相模湾や伊豆の山々を見渡す絶景である。歩き出す前に広がっていく大展望に、山登りにやってきた積もりの意識が、混沌として訳が判らなくなる。

標高867m地点の表記が地形図に記載されている、箱根レーダー局前と云うバス停で、MD氏の先導する「箱根登山詳細図」踏査メンバー全員が下車した。レーダー局とは、「箱根航空路監視レーダー局」のことで、航空機の飛行状況を把握する為に、飛行路を見渡せる場所に設置されたレーダー塔が立っている。バスの車窓からの見晴らしが良いのは、至極当たり前のことなのであった。バス停からレーダー塔の立つ、標高904.8mの立沢山が、直ぐ其処に見える。舗装路が続いている山頂に、折角なので登頂したいと云う願望が内心に在るのだが、今日は「箱根登山詳細図」踏査の団体行動なので自制しなければならない。

Yugawara

2017/3/25
箱根レーダー局前バス停(10:30)---土肥大杉跡---六方ノ滝付近(11:50)---白銀林道---大石ヶ平(12:55)---白銀林道---自鑑水---星ヶ山公園---真鶴駅(18:00)

今日の行程を踏査隊に説明するMD氏が、私に向かって「本日は枝葉末節の極みでありまして」と、笑いながら云う。『明星ヶ岳・塔ノ峰「箱根登山詳細図」踏査隊と歩く。』を読んで呉れたMD氏は、枝葉末節、のフレーズが面白かったとのことで、そんなことを云っている。本日の踏査コースは、此処、箱根レーダー局前から県道を少し歩いた先に分岐する、沢沿いの登山道を下降していくことから始まり、白銀林道を歩いて星ヶ山公園に至る、と云うものである。湯河原の代表的な山である、幕山や南郷山には登らず、其れ等を縫うようにして林道を歩くだけである。枝葉末節の極み、と云う言葉には微塵の隙も無い。

行程の説明が終了して、YM、HSさんの女性ふたりと、ベテランのIH氏を含めた計五人の踏査隊が、レーダー塔に背を向けて出発した。県道は尾根の上を走っているが、程無く右手に道標が現われて、土肥大杉跡方面に進路を変えて下降していく。土肥は湯河原の山域の地名だったようで、敗走中の源頼朝が潜伏した場所が杉の大木に空いていた穴倉だと云う。巨木は既に跡形も無く、記念碑が立っているだけだが、観光名所になっている。

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登山道の木段は腐敗し、泥濘の踏路が続いていた。昭文社の登山地図には、道が荒れているので通行止め、と云う記載のある赤実線ルートである。植林に覆われている茫漠とした尾根と谷をトラバースして、踏路は夥しい倒木で不明瞭となり踏査隊は逡巡して暫し停滞した。そこで以前、沢登りで訪れたことがあると云うYMさんが、倒木に隠れた登山道を発見したので、難渋しながらなんとか進路が確定した。

出発したばかりだというのに、尾根群を掻き分けるようにして、谷筋に下山すると云う恰好になった。やがて土肥大杉沢の本流の音が聞こえてくると、漸く清涼感に満ちた登山道となり、樹間から見上げると立沢山のレーダー塔が確認できる。何度も繰り返すようで恐縮だが、下山するためにわざわざバスに乗ってやってきた、と云うような、何とも不思議な気分である。

土肥大杉沢から離れて、山肌を縫うようにして歩くと、やがて支流を渡渉する。松浦本の概念図のコピーを参照すると、此の沢沿いに遡行して行けば、六方ノ滝が在る筈であった。心細い踏み跡が、其れでも着実に分岐している。木枝には紫色のリボンが目印として括り付けられていたので、一行は登山道から沢沿いの踏路に進入していった。土肥大杉跡から此処迄、誰にも会うことが無かったが、此の踏路では、上流から下ってくるハイカーと擦れ違った。

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沢が二股に分かれる箇所に到達し、右俣に黒い壁状の滝が在った。左俣の上方を見上げると、同じような黒色の岩崖に滝が落ちている。六方ノ滝の由来である、六角柱に覆われた柱状節理の滝を期待してしまうが、其のような形状では無い。後日調べた結果、柱状節理の滝は、右俣の滝の、更に上の方に在ると云うことらしい。二股の中間部分の山肌から、見物から帰ってきたと思しき数人のハイカーが散見される。簡単には眺めることの出来ない場所に在るのは、六方ノ滝が幻の滝と呼ばれる所以なのだろう。

白銀林道に達し、林道の未計測区間、大石ヶ平迄の往復と、二手に分かれて踏査を終える。ふたたび合流してからは、全員で白銀林道を歩いていく。鬱蒼とした崩壊気味の登山道を歩き続けてきたので、林道とは云え、心地好い散歩の気分である。湯河原一帯の踏査を殆ど終え、枝葉末節の踏査は自鑑水経由の登山道から南郷山の西北の尾根に向かう。名所旧跡の風格で解説文の記された看板が立っている自鑑水は、植林帯の中に泥水が溜まったような処で、なんとも貧相なものだったので驚いた。

曖昧な尾根筋を登り詰めると、南郷山に至る道に合流した。西北の尾根は星ヶ山に続いているが、登山道は唐突に尾根を跨いでいく。星ヶ山は踏査の対象に入っていないが、周辺に在る星ヶ山公園の所在が判然としないので、登山道がクイックリターンする箇所から、微かに踏み跡のある細い道が尾根上に向かって続いているので、其処に進入していった。ハコネダケに覆われた、か細い踏路は途中で不明瞭になり、止むを得ず引き返す。結局、Uターンするように続く登山道を辿っていくと、見晴らしの良い舗装路にぶつかった。

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小高い丘の上に敷かれた舗装路から、相模湾の広がりと、真鶴半島や初島が明瞭に見渡せた。舗道は自家用車が立ち入れない区域を巡っているので、ハイキングコースとして機能しているのかもしれない。此処一帯が、星ヶ山公園なのかもしれませんね。MD氏が云った。

眺めのよい丘陵に、遊歩道が幾重にも分かれているので、ふたたび二班に分かれて踏査を続ける。私はMD氏と行動を共にすることになったのだが、合流地点である、さつきの郷に達しても別班の姿が無い。携帯電話の電波も届かないので、ふたりで探し回ることになった。踏査隊のリーダーとして、MD氏は焦燥感を漂わせている。当ても無い儘に湯河原美化センター迄下り、ふたたび友逢の丘に登り返した我々は、漸く三人の姿を発見して安堵した。細かく分岐する舗道を丹念に踏査していたと云う三人は、予想以上に遅れてやってきたと云うことであった。

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全員で車道を歩いて下山することになった。湯河原カントリー倶楽部の敷地に沿うようにして、海迄続く尾根を下っていると云う恰好である。我々の歩いている下には、東海道新幹線の南郷山隧道が通っている筈で、新幹線に乗って小田原を過ぎると、隧道を頻々に通過するのが判るが、そんな地形の場所を歩いている。段丘状の土地に住宅街が広がり、やがて東海道本線の線路に併行する県道に出て、薄暮の街を真鶴駅迄歩いた。山に登頂しない行程の一日だったが、歩行時間は七時間を越えていたのが意外だった。

台ヶ岳「箱根登山詳細図」踏査隊と歩く。

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箱根山と云う大雑把な括りで、噴火警戒レベルが引き上げられ、箱根の中央火口丘、神山周辺の登山道が立入禁止となって久しい。仮に中央火口丘が御嶽山のように大爆発となれば、強羅や仙石原などの周辺に在る観光地は壊滅状態になり、最早登山道などという瑣末な問題では済まない訳で、憂慮せざるを得ない未来ではある。果たして大涌谷は本当に大噴火するのか。懸念は尽きないのだけれど、大涌谷は、相変わらずの噴煙を吐き出しているだけである。

矢倉岳、鷹落場の「箱根登山詳細図」踏査に行った翌週、またもやMD、KR両氏と小田原駅で合流した。本日の目的地は台ヶ岳である。箱根外輪山の金時山辺りから中央火口丘を眺めれば、其の手前に独立して盛り上がっている溶岩ドームが、妙に目立って鎮座しているのに気付くが、其れが台ヶ岳である。仙石原の高原を前庭にして、堂々たる姿の山であるが、登山道は整備されていないので、勿論既存の登山地図にもルートは記載されてはいない。「箱根登山詳細図」に、台ヶ岳ルートを記載させる為に、調査すると云うのが今日の主題である。

2017/2/4
国有林前バス停(9:45)---廃林道から取り付き(10:10)---台ヶ岳(10:50)---国有林バス停(11:35)

小田原駅のバスターミナルに特設された販売所で、事前にMD氏から教えて戴いた、伊豆箱根鉄道の発行する「箱根バスフリー」と云う一日乗車券を購入しようと思うが、中国人と思しき女性グループが、フリー切符に就いての質問を連発していて、買うのか買わないのか仲間で議論をしているから、順番が廻ってこない。湖尻経由箱根園行きのバスがアイドリングを開始して、どうなるかと思ったが、無事購入して乗車した。中国人女性たちも結局は購入して乗車した。

後になっての話になるが、「箱根バスフリー」は、競合する箱根登山バスに乗車できないから、我々は宮ノ下で、帰路のバスに乗車するまで、随分待たされた。其れで、中国人の彼女達の、其の後の行程でも、いろいろ遭ったのではないかと推察するが、勿論其れは知る由もない。

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乗車率が其れ程でも無かったバスが、小涌園を過ぎて、早雲山駅に達すると、乗客が随分増えた。箱根ロープウェイの早雲山から大涌谷の区間が工事の為に運休しているからね、と、MD氏が説明する。上湯バス停に近づく頃、人いきれの車中に、硫黄臭が漂うようになった。其れで、活動中の中央火口丘の域内に来ているのだなと実感する。

大涌谷の北に在る、国有林前と云うバス停で下車する。此のバス停は、私の所持している、古書店で買い求めた「山と高原地図29 箱根 2001年度版」には「台ヶ岳バス停」と記されているが、現在は名称が変更されているようである。空気は冷たいが風の無い朝で、箱根山は快晴だった。バス停から上湯方面に少し戻ると、車止めの在る、廃れた林道跡が現われる。此処から、台ヶ岳への取り付き迄、次第に倒木が増えて、藪状になっていく道を歩いていった。

左手に広がる、台ヶ岳の南面の尾根を見上げながら、取り付き点を探す。先行するふたりが、GPSの表示を確認しながら、引き返してきた。標高800mくらいの山裾から、1044.5mの台ヶ岳に登るのは簡単そうに思えるが、歩き易そうな踏跡を見つけるのが難しい。私も、ロードメジャーを逆走させて、廃林道を引き返す。やがて、古びた赤テープが木に括られている、薄い踏跡を発見したので、其処から侵入した。

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背丈程にもなる笹薮を掻き分けて、地形図上ではなだらかな斜面を歩いている。見上げると落葉樹の枯木が青空に向かって林立している。徐々に東側に延びる尾根を目指していくと、明るい茶色の樹皮の木が立っている平坦地に達した。ヒメシャラの広場ですね、とMD氏が云った。

進路は、いよいよ台ヶ岳の頂点を目指すようになり、勾配を登っていく。笹薮の足元は、ロードメジャーを転がすには厳しい道程で、私は徐々に引き離されていく。藪が激化していき、ふたりが逡巡するように停滞しているところに追い着いた。植林の方が歩きやすいかも、と云う理由で、我々は傾斜の途上で、更に東側にトラバース移動し、転進した。植林と自然林の境界に達して、踏路は比較的明瞭になった。

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もう二度と藪漕ぎはやらないと誓ってたんだけどなあ。今日もクラシックスタイルのKR氏が呟く。南東から頂上を目指す尾根は、笹薮に囲まれた急斜面だった。枯木の丈が高くなり、時折振り返ると、鞘越しに大涌谷の白い煙を、同じ高みで見る迄になった。東北東からの尾根が合流し、西南西に進路を変えて、最後の登りを続けると、程無く平坦になって、台ヶ岳の頂上部に立った。

冬の雑木が林立する、其の向こうに富士山が浮かんでいる。外輪山から見る、顕著なピークである台ヶ岳は、樹林に囲まれて、判然とした眺望は得られない。明神ヶ岳も、鞘越しに確認できる程度であった。草木の繁茂する季節には、到底登ることは出来ないだろうと推察できる山である。しかし、冬枯れの今、台ヶ岳は巨木の林相が美しい山でもある。

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三角点は、何故か西北に下った処に在るが、興味ありますかと、MD氏が云った。私が答えに窮していると、興味無いよねと、独り言のように呟いた。笹薮を掻き分けて、三角点を確認する気力は無かった。KR氏の感想も、無論云う迄も無いようであった。其れで、三人で記念写真を撮って、下山することにした。ヒメシャラ広場に戻り、取り付き点迄の踏跡を辿っていくと、出発時には気付かなかった、褪せたピンク色のリボンが、木立の枝に括られているのを発見した。其れは、台ヶ岳の秘境ぶりが実感せられる、象徴的な光景のようにも思えるのだった。

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追記

バスで早雲山駅に戻り、帰路を兼ねて、地形図に道了別院の記載の在る地点を踏査。早雲台と石柱に刻印の在る境内からの眺望は良かった。強羅温泉の坂をケーブルカーに併行して下る。途中で尋常ではない人だかりに驚く。警備員に尋ねると、世界救世教の信者たちとのことだった。

強羅駅で別行動となり、単独で宮城野橋、木賀温泉を経由して、国道を宮ノ下迄を踏査する。堂ヶ島渓谷の未踏査部分を調べに行ったふたりと合流し、帰路に就いた。前述の通り、やってくる路線バスは箱根登山バスばかりで、伊豆箱根バスに乗るまで、三十分くらい待たされた。バス会社共通のフリー切符に改善してほしい処だが、所謂「箱根山戦争」の余韻が残っている数少ない案件でもあるというから、其れも面白いと云えば面白い。

小田原で酒宴。当ても無く店を探して入った居酒屋が存外に居心地よく、四時間くらい長居をしてしまった。

矢倉岳・鷹落場・鳥手山「箱根登山詳細図」踏査隊と歩く。

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うたた寝から覚めて窓外を眺めると、電車は既に渋沢駅を過ぎて、山深い処を走っている。早朝に新宿駅を出発した小田急の電車に揺られて、一時間が経っていた。新松田駅には、待ち合わせ時刻の随分前に到着したので、駅前の箱根蕎麦をゆっくりと食す。地蔵堂行のバス乗り場に向かうと、既にKR氏とNZ氏が並んでいる。

前回初めて参加した「箱根登山詳細図」の踏査は、箱根外輪山の東端を歩いたが、本日の行程は更に周縁の外側を巡ることになっている。外輪山の北端である金時山から、静岡、神奈川の県境が寄り添う尾根が延びて、ハイキングコースは足柄峠迄続く。其の東側に、独立峰のように端整な山が唐突に在る。

標高870mの矢倉岳は、其の存在は認識していたが、此迄訪れたことは無い。小田急電車が新松田を発車して、小田原に向かって南下し始めた車窓右手の、箱根の山塊を眺めると、余りにも顕著な三角形の山が出現する。見事な山容は、一瞬、金時山か、と思うが然にあらず、此れが矢倉岳である。今日は其の山に登ることになっている。

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2017/1/29
矢倉沢バス停(9:00)---矢倉岳(10:55)---山伏平---鷹落場(12:40)---鳥手山(13:40)---(休憩)---立山(14:10)---酒水の滝(16:10)---山北駅(17:00)

地蔵堂行きバスが駅前に入ってくる頃、引率するMD氏が登場した。閑散とした車内に踏査隊が落ち着いた時、急遽参加することになっていたTMさんが、複雑な表情をしてバスに乗り込んできて、山スキーで負傷した箇所が痛むから、本日の踏査の参加は辞退するが、持参したロードメジャーを置いていくから、と云うようなことを云った。突然のことに皆が茫然としているので、私がロードメジャーを受け取った。前回の塔ノ峰踏査で、厳格に計測器の転がし方を指摘されたTMさんのロードメジャーを私が使うことになり、奇妙な因縁を感じざるを得ない。TMさんは要件を伝えるとバスの車内から去っていった。律儀なのか合理的思考なのか、TMさんがどのような人かは判らないが、とにかく本日の踏査隊四名を乗せた、箱根登山バスは、新松田駅前を発車した。

大雄山駅の関本で若干のハイカーを乗せたバスが、田園地帯を軽快に走っていく。矢倉岳が大きくなって正面に見えてくる頃、江戸幕府が関所を設置した矢倉沢の名が付いている割りには、何の特徴も無いバス停に到着した。下車後、少々の打ち合わせを終えて、県道御殿場大井線から離れていく。公民館を経て内川を渡ると程無く、静かな畑地の広がる集落を歩くようになった。矢倉岳方面の道標が在る処で二班に分かれた踏査隊は、別のルートを歩くことになる。初めて矢倉岳を訪れる私は、配慮を戴いた恰好で、KR氏と共に、矢倉岳へのメインルートを踏査することになった。MD氏とNZ氏は、矢倉沢林道を歩き、矢倉岳の裾野を迂回するようにして山伏平に向かった。後に合流して其のルートに関する旨を訊くと、距離が長く、面白味の無い行程で、昭文社登山地図に記されている「あしかりの郷」の地点には、何も見当たらなかった、とのことであった。

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ところで、登山詳細図の酒宴ではたびたび御一緒しながらも、一緒に歩くのは初めてのKR氏である。クラシックなニッカーボッカーとニッカーホースのスタイルが似合っているのは、山岳部出身のベテランである実質が加味されているからだろうか。一方の、碌な登山経験の無い私であるが、KR氏と御一緒すると云うことで、久しぶりにウール地のニッカーボッカーを穿いて来た。KR氏の好む、ザックやウェアなど、登山用具の話題で盛り上がりながら、矢倉岳に通じる登山道を歩いた。

植林帯のジグザグに続く登山道が、自然林の枯木が疎らになる景色に変わって、尾根に乗った。鞘越しの両側に、丹沢山塊や明神ヶ岳を見渡せる心地好い尾根歩きが続き、凡そ二時間を掛けて矢倉岳に登頂した。茅戸に覆われた広い山頂に立つと眼前に、箱根の山が在った。外輪山を衝立にして、大涌谷の白い噴煙と共に、中央火口丘の神山が聳える。そして、晴天の彼方に、富士山から続く愛鷹連峰が緩やかに連なっている。余りにも出来過ぎのような、雄大な景色である。

所要時間が余計に掛かるのは織り込み済みの、矢倉岳の裾を捲いて登ってくるMD氏とNZ氏がやってくる気配は無い。此の後の行程としては、山伏平で合流する方が合理的ではあるのだが、NZ氏にも矢倉岳に登って貰うと云うMD氏の配慮故であるから、我々はのんびりとふたりを待つことにする。風も無く暖かい山頂は余りにも心地好いので、待つことは苦にならない。珈琲を淹れて他愛の無い会話をしつつ、私は紫煙を燻らせて、KM氏は軽食を摂って休憩する。矢倉岳の頂上は、家族連れやグループ登山の徒が敷物を広げて、嬌声が飛び交う長閑な雰囲気であった。

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そんなところに、苦悶の表情と共に汗だくで登頂してくる男性がひとり。健脚のNZ氏であった。後方からMD氏が、淡々とした表情で登って来る。踏査隊が合流して、簡単な報告を行なったが、NZ氏の疲弊が明瞭なので、暫くの大休憩となった。計画に於けるオンタイムに固執するMD氏も、少し心配そうにNZ氏を窺っている。漸く回復したNZ氏は、長い登りの果てに、山頂直下の急勾配がきつかった、と云った。

山伏平に向かう山頂直下の登山道は、木段が設置されていて、NZ氏の云う通りの急傾斜であり、登ってくるハイカーの足取りも重そうであった。右手に植林帯、左手は深い茅戸が広がる尾根である。其れを直截的に下り続けて、行き着いた処が山伏平だった。樹林に覆われた薄暗い峠は、名称の平と云うような風情ではない狭小な空間で、以前は清水越と云う表記で地図に載っていた処でもある。此処でふたたび踏査隊は二班になる。21世紀の森迄、尾根伝いに歩く「浜居場城ハイキングコース」と、北東の山北町方面に向かって延びていく尾根歩きに分かれる。私は志願して後者のルートを歩くことになった。コンビを組むのは此処迄同様、KR氏である。

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北東方面はバリエーションルートなので、と、MD氏が真剣な面持ちで云う。そして、コンパスを頻々に確認して進んでください、と続けた。コンパスを取り出して眺めている私に突然、(進むべきは)どの方向ですか、とMD氏が尋ねてくる。動揺した私は、赤い針が差す方角を眺めて、あっちかな、などと曖昧に云う。其れが足柄峠方面に向かう登山道だったので、MD氏が怪訝な顔をした。落ち着いて眺めると、北東の尾根が明瞭に続いているのは直ぐに判明した。急に訊かれて慌てただけのことである。だが、そんな弁明を行なうのも変なので、何事も無い風を装って、KR氏とふたりで登山地図の破線ルートである、鷹落場、鳥手山方面に歩き出した。

平坦な尾根道を進み、小さな瘤を越えると、次第に人の気配が無くなり、周囲が静まり返った。東に支尾根が分岐するピークをパスして、進路は右に旋回していく。右手に併行する浜居場城ハイキングコースの尾根の向こうに、午後の陽光が逆光になって、こんもりと丸い矢倉岳が、暗色になって聳えている。左手には採石場の荒野が広がり、人工的な重機の音が微かに聞こえてくる。誰も居ない静かな尾根道を順調に歩いて、前方に幅広いピークが現われる。緩やかに登り、頂上部の端に立つ。鷹落場の山名標は、頂上部を南東に百メートル程歩いた処に在った。

鷹落場とは山名としては異様だが、近隣の鳥手山や、浜居場城址跡の名称をひと括りに考えると、戦国時代、此の山域が砦であった頃の名残を感じることができる。尤も、万葉集に於ける、足柄の八重山、と云うような山域でもあるから、古代から中世の鷹狩りに関する名残である可能性も、在るのかもしれない。

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それはそうとして、鷹落場の山頂は、自然林が疎らに林立する、静かな場所だった。南東に、丁度浜居場城址と対峙する谷に向かって、緩やかな尾根道が続いている。ハマイバと古道、そんな言葉が脳裏に浮遊して、此の静かな尾根を通り過ぎた、いにしえの人々を想像する。そんな、情緒的な感覚に浸っているうちに、遠くから人の声がしてきた。其れで、我々は頂上の端に在る分岐点に戻った。

ロードメジャーを転がして歩く我々を見て、三名の中年男性グループが声を掛けてきた。登山詳細図を愛用している方々で、踏査隊との遭遇を喜んでいる風であった。暫く談笑して、我々は先に出発する。鷹落場を北に下って、間も無く尾根が分岐して、コースは右に旋回していく。昭文社地図に記されている、押立山の位置は、更に東に分岐する尾根の、小ピークを越えた処に記されているので、怪訝に思いながら歩いていくが、其のような印は無い。ピークに戻ると、樹木に巻かれたテープに乱雑に、776m、押立山、と記されているだけであった。微細に標高が記されているが、俄かには信じ難いような気分である。

小ピークから少し戻って、押立山を北面に捲くようにして、心細いトラバース道を北に進んでいく。其の先は、細尾根が複雑に分岐して広がるような、曖昧な地形になってくるが、眼前には杉、桧の植林を纏った鳥手山(とでやま)が立ち塞がっているから、其れに向かって歩き続ける。踏路は山腹を左側にトラバースして続いているが、鳥手山に登らない訳にもいかない。我々は植林帯の急登を、喘ぎながら登り続けた。漸く山頂に達するかと云う頃に、下方から話し声が聞こえてくる。くだんの中年氏グループも、鳥手山に登ってくるようであった。

植林に囲まれて鬱蒼とした山頂に、特筆すべきものは無く、手製の山名板が括りつけられている杉の木の傍らで、我々は計測の記録作業を行なう。そのうちに、後続が登って来た。三人はいずれも山に慣れた感じの風貌で、近野山にも行きますか、と我々に訊いてきた。鳥手山から北に延びる尾根は、急激に東側に旋回して続いていて、昭文社地図には、登山ルートの破線から離れた尾根上に、ふたつの山名が記されている。此処、鳥手山から程近い位置に在る、等高線の閉じた小ピークが立山で、旋回した後には、21世紀の森の北方のピークが在り、其れが近野山である。我々は登山道だけを計測するので、立ち寄る予定は無い。

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中年氏グループは、澱みのない足取りで、立山の方に下っていった。尾根伝いに歩いていく彼等は、黄色いガムテープを手にして、所々に目印として其れを捲き付けて歩いていた。恣意的な行為であり、其れが道義的に正しいのかは疑問である。先程の会話で、彼等が谷峨に在住していると聞いた。地元の山に登りに来るハイカーの為に、山中をマーキングして歩いていると云うことであった。そう云われると、余所者の身分では何も云えない。

山頂の北側に、陽差しの在る箇所を見つけた。私は空腹を覚えたので、KR氏に食事休憩を提案する。暫くの休憩を終えてから、登山道に復帰する前に、直ぐ其処に在る立山迄は歩いてみようと云うことになった。鳥手山の北面は緩やかな傾斜が続き、自然林の枯木が立ち並んでいて、陽当たりがよい。直ぐに鞍部となり、瘤を登り返すと、太くて黄色いガムテープが枯木に捲き付けてあるのが見える。近づいて確認すると、樹皮に直接に、立山、640、と乱雑な文字が記されている。文字は薄く、以前に書かれたものであろうが、黄色いガムテープは、余りにも捲き方が粗雑だった。

立山の在るピークから、尾根は広がって北面に落ちている。茫洋とした様相で、凡そのところ、進路を左に取って行けば、やがて登山道に合流するだろう、そんな意識で下っていった。しかし、黄色テープは尾根の端に沿って所々に貼ってあるので、其の儘行けば、谷に向かってしまうようにも見える。首を捻るような気持ちで、北西に進路を取ると、やがて緩やかに盛り上がった尾根に寄り添うような踏路になった。すると、其処にも黄色テープが捲かれている木が在ったので、訳が判らない。

鳥手山から尾根伝いに下りてきたので、捲道を計測するために、ふたたび先程の、鳥手山を直登した地点迄歩いた。鳥手山に登る経路は、果たして登山詳細図に記載されるべきなのかどうか、そんなことを話しながら、私とKR氏は、破線ルートに忠実に、山北町方面に向かって、実直に計測して歩いた。旋回して東に向かう登山道を歩いていると、陽光が徐々に傾いていくのが感じられる。山歩きは、終盤に差し掛かっていた。

御殿場線の下り電車に乗って、山北駅を発車すると、トンネルが断続的に現われて通過していく。蛇行する酒匂川は渓谷の底を流れて、車窓は山深い景色になる。御殿場線が東海道本線だった頃、国府津からやってきた列車は、勾配の厳しくなる山北駅で必ず停車し、蒸気機関車を増結して箱根を越えたと云う。昭和初期の話である。今も御殿場線に乗ると、山に入ってきたな、と感じさせる車窓の風景である。我々は今、其の風景の、山の上を歩いている訳であるが、強く想像しないと実感は湧いてこない。

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尾根を東端迄歩いて、やがて廃れた舗装路に変わった踏路は急降下していく。北東に尾根が尽きてクイック状にターンをして、住宅街に降り立つ。急峻だった尾根の下は、平穏な市街地であった。先程迄脳裏に描いていた、御殿場線の車窓風景の幻影は、雲散霧消していった。そして、長かった歩行距離を反芻する。15キロ程は歩いただろうか。随分長かったような気がする。

陽は山陰に消えて、薄暗い川沿いの舗装路に合流する。其処が、浜居場城址方面に向かったMD、NZ両氏との待ち合わせである、酒水(しゃすい)の滝の入口だった。人の気配の無い観光地のゲートを潜って、暮れていく渓流に沿った遊歩道に入った。疲労感が徐々に湧きあがってきて、少し肌寒くなってきた。酒水の滝は想像した以上に落差のある濠瀑で、見応えがある。市街地に程近いのに、唐突に山深くなる、なんとも不思議な場所であった。紫煙を燻らせて滝を眺めているうちに、MD氏の踏査隊が到着して、長い一日が終わった。

追記

全員で山北駅迄歩き、気になっていた店である「ポッポ駅前屋 」にて酒宴。店主、従業員ともに良い雰囲気だった。山の談義に引っ張られ、鉄道模型をゆっくり鑑賞できなかったので少し悔いが残った。

「ポッポ駅前屋 」に関する好blog

明星ヶ岳・塔ノ峰「箱根登山詳細図」踏査隊と歩く。

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「諸戸尾根から梅ノ木尾根。相州大山を踏査隊有志と登る」の時以来、約二年ぶりにMD氏率いる「登山詳細図」踏査隊に参加した。粛々と進捗している箱根図の踏査エリアの、残存部分を消化していく計画である。そのような訳で、折角箱根迄やってきたが、登る目的地は明星ヶ岳であり、其処から早くも外輪山を下山して塔ノ峰を目指すと云う行程である。枝葉末節と云っては失礼になるかもしれないが、そんな区間を歩くことになった。塔ノ峰は立派そうな山名だが、箱根湯本駅、塔ノ沢温泉の北方に立つ標高566.3メートルの里山である。余りにも地味で、此れ迄訪れようと考えたこともない。そのような山に登ることができるのも、踏査の必然性あればこそであり、僥倖に感謝しなければならない。

2016/12/25
宮城野橋バス停(9:10)---大文字(10:05)---明神ヶ岳手前の鞍部(11:00)---明星ヶ岳(11:30)---塔ノ峰(14:35)---風祭駅(16:25)

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小田原駅からバスに揺られ、私とNZ氏、そしてYMさんの三人が宮城野橋で下車した。宮城野と仙石原の境に在る碓氷峠周辺を踏査するために、MD氏、HSさんのふたりが乗った儘のバスを見送り、我々は冬枯れの別荘地の舗道を登り始めた。

明星ヶ岳は「明神ヶ岳・大涌谷の眺望」の時に立ち寄ったので、広い山頂域の東端に在る、眺望の無い古びた鳥居の山名標地点を記憶している。詰まらない山頂だったが、下山に掛かって直ぐに到達する大文字からの眺望が素晴らしかった。其の景色の御褒美を目当てに、別荘地を通る舗道が閑散としてくる辺りに在る登山口から、実直なジグザグの山道を辿り始めた。

御馴染みのNZ氏を真ん中に、私は最後尾に付いて歩いていく。一緒に本格的な登山道を歩くのは初めてのような気がする先頭のYMさんは健脚で、休むことなく登り続けている。次第にNZ氏と私の呼吸が荒くなり、YMさんに引き離されないように、少し無理をして歩くようになった。石橋を叩いて渡るタイプ(と私が勝手に推察している)のNZ氏は、今回もザックが重そうであった。

B

ハイペースに引っ張られて、周囲は次第に雑木の枯木が目立ち始める。其の鞘越しに風景が広がり、富士山の白い頭が遠くに望めて、呆気なく大文字に登りついた。強羅の坂をケーブルカーの軌道が一直線に続いていて、其の先には早雲地獄がぱっくりと亀裂を広げているのを正面に眺める。夥しい数の建造物が密集して、山腹を形成している。ハイキングコースが規制されて立入禁止の早雲山を含めた中央火口丘だが、ひとたび大噴火が起こったらとんでもないことになるであろうと云うことが一目瞭然である。

そんな圧倒的な風景を堪能して、紫煙を燻らせている私だったが、YMさんは直ぐに登山を開始しそうな気配だった。休憩しないのかと訊くと、休むと身体が冷えるから、と云い、先に行っている旨を告げて去っていった。NZ氏も後を追っていったので、私も仕方なく出発することにする。ザックを背負って大文字の上のトラバース道を進んで、切り返すともう景色とはお別れであるから、何度も振り返ってしまう。文字通り、後ろ髪を引かれながらの再スタートであった。

C

程無く箱根外輪山の稜線に乗って、踏査の予定は明神ヶ岳手前の鞍部、標高913m地点迄を往復して明星ヶ岳に戻る。穏やかな冬空で、富士山は静かに姿を大きくしていく。途中で会ったのは、子供をひとり連れた若い夫婦だけであった。クリスマスに冬の低山歩きとは風情のある親子だが、子供は既に疲れた顔をしていて、明神ヶ岳迄行けるのかと思うが、復路にふたたび擦れ違った頃は、母親の方が子供を担いで歩いていた。屈強な妻の後ろから、小柄な夫が付いて歩いていく不思議な光景を見送り、我々は来た道を戻って、明星ヶ岳に着いても未だ誰も居ない。

三人でそれぞれが食事を摂っているところに、MD氏とHSさんが到着して、後は小田原駅で別れ、和留沢行きバスに乗ったIH氏とTMさんを待つばかりだが、予定の時刻を過ぎても到着しないので、暫く待つことになった。ベテランのふたりは三十分以上遅れて到着したが、疲労の色は無かった。「奥和留沢みはらしコース」に就いて、見晴らしなんて全然無かったわよ、とTMさんが呆れたように云った。途中で食事を済ませたと云うので、其の儘総勢七名で塔ノ峰を目指して歩く。

箱根外輪山の東端の道は次第に高度を下げて、周囲の風景は徐々に植林の目立つ里山の風情になる。大勢居るので、ロードメジャーを転がすのはTMさんだが、バックアップの意義で私も転がして歩いている。其れで、計測ポイントで距離を相互に確認するのだが、私の計測した数値が、TMさんのよりも数十メートル以上も多い。しっかりと地面に着けて、段差で空転しないようにしなきゃ駄目よ、と、TMさんに叱られる。以後、ロードメジャーの空転が気になって、碌に周囲を眺めながら歩くことができなくなった。標高700メートルを通過して、登山道が急激に南下して支尾根に入る頃には誤差が僅少になって、とうとう五メートル以下になった。TMさんが、まあいいだろう、と云うような顔で首肯している。

D

支尾根の登山道に、足柄幹線林道が交差して、暫く立派な舗装路を歩く。MD氏が、国道一号を迂回してくる車が飛ばしてくるので注意するように、と云った。IHさんと喋りながら歩いていると、後方から轟音を立ててポルシェが走ってきたので道端に避けて見送った。すると、見通しの無いカーブの先からタクシーが現われて、IHさんがうわっと声を上げた。ポルシェは急ブレーキを掛けて停まった。MD氏の忠告通りの、危険極まりない林道歩きであった。

舗装路が大きく右に旋回して、左手から尾根が合流してくる。足柄幹線林道は其の尾根を乗り越えて、小田原方面に去っていく。明星ヶ岳から続いている尾根を外れて、高速林道を迂回してきたが、ふたたび合流して、此処から最後の塔ノ峰に続く登りが始まる。整備された木段を登り、緩やかな傾斜を歩いていくと、存外に素晴らしい眺望が北面に広がった。全員が足を止めて休憩する。枯れ芒に黄昏色の陽光が当たっている先に、顕著な三角錐の大山を目印に、丹沢山塊が青空の下で連なっているのを見渡す。年の瀬の陽が落ちるのは早いだろう。皆さん申し訳ないですが、とMD氏が予定時刻を遵守するための出発を提案した。

E

良景の地点から直ぐに、樹林に囲まれた平坦地に到着した。暮色の漂う地味な塔ノ峰山頂に、踏査隊が大挙して登頂したので、賑やかになった。皆が距離を記したり、GPS機器を操作したりして忙しい。此処から二手に分かれて、踏査隊は登山鉄道沿いに下山して計測する。私を含む出発時の三人は、東北東の尾根を歩いて、風祭駅を目指すことになっている。MD氏のグループは、阿弥陀寺を経由して塔ノ沢温泉に向かう。

女性の数が多い所為か、皆が最後の山頂でお喋りに興じているから、MDさんは少し焦った感じで、時計を確認している。暫くの間合いで、皆さん申し訳ありませんが、と云う声。其れで皆が整然とMD氏に注目した。そして、二手に分かれた踏査隊が、塔ノ峰から下山を開始した。


追記

風祭駅に到達してやってきた電車に、丁度良くMD氏一行が乗り合わせていた。其の儘本日の忘年会の会場である町田に向かった。翌日が早立ちのIH氏が欠席すると云うので、皆で麦酒一杯だけでも、と誘うと、IHさんはかなり逡巡していたようであった。町田の居酒屋に、本日の踏査隊と、世話人氏以下、御馴染みのメンバーが集合して、酒宴が開催された。呑み放題コースに地酒が無いことが判明して一部隊員が騒然となるが、YMさんが見事な交渉を行ない、地元の銘酒「相模灘」を堪能することができて、満悦の夜が更けていった

山上の白霧・毛無山の往復

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毛無山に登ってきたことを記す。そうは云っても何処の毛無山かと問われる場合も、あるかもしれない。同名の山が日本国中、幾つ在るのかは知らないが、随分沢山在りそうである。富士五湖のひとつ、本栖湖の南面から、静岡、山梨の県境をなぞるようにして、天子山塊が連なっている。竜ヶ岳、雨ヶ岳から天子ヶ岳迄、富士山の西側を縦断している山並みの最高峰が毛無山で、毛無山と名の付く山では最高峰とのことである。其れに登った。標高1964mの最高点ではなく、一等三角点の在る1645.5mが登頂点とされていて、其処に立っただけである。
河口湖からバスで一時間近く掛かって辿り着く朝霧高原が毛無山の登山口であるが、公共交通機関を利用して、わざわざこんな処には来ない。今回は友人の間戸井君との、久しぶりの山行である。わが友人が自家用車を導入してから、此れ迄行く気にもならなかった山に、登ることが出来るようになったのは非常に有難いことではある。しかし、彼の登山への情熱とでも云うものは、衰微の一途を辿り、とどまることを知らない。今回の友人の主題は、焚火台を購入したので薪を持ち込んでキャンプ場に自家用車を乗り入れ、焚火をしたいと云うことである。其れで朝霧高原迄、遥々やってきたのである。毛無山登山は謂わば其のついでのようなもので、我が登山隊の目的は、言葉にするだけで堕落してしまいそうな気分になる、所謂オートキャンプなのであった。登山がオプショナル・ツアーのような恰好になり、甚だ面白くないが、止むを得ない。

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2016/4/9

麓(9:30)---不動の滝見晴台(10:10)---富士山展望台(12:25)---毛無山(13:00)---麓(16:10)

河口湖インターで高速道路を下りて、国道139号を延々と走る。富士山は曇天にも係わらず、全容を表出していた。常識的な時刻にキャンプ場入りする為に、毛無山の往復時間を逆算して出発する筈であったが、間戸井君は寝坊をした関係で、一時間以上も遅れて私をピックアップして呉れた。週末の中央道を都心から出発するには危険な事態で、案の定小仏トンネル付近で渋滞に巻き込まれた。果たして毛無山に登る時間はあるのかと内心で苛立っていたが、其の後は順調に移動できたので、毛無山の山麓にある、其の名もずばり「麓」と云う集落に在る、登山口の駐車場に到着したのは、午前九時を過ぎた頃であった。山頂迄、メインの登山道を往復してきても、午後三時には戻ってこれる時間である。有料駐車場は、無人の料金箱に駐車料金と車輌情報を記した封筒を入れておくと、追って自動車のワイパーに領収書を挟んで呉れると云うシステムのようであった。何はともあれ、登山口に此処迄簡単に到達できるのは、自動車の恩恵である。素直に感謝して、登ってこようと思う。

林道のゲートを越えて歩き出す。神社と金山の採掘場跡を通過して、間もなく、雪見岳と金山の鞍部へと詰める沢からの瀬音が聞こえてくる。谷が広がって林道が尽きようかと云う地点で、水の無い沢を渡渉して、尾根に登り始める。地蔵峠に向かう道と分岐する堰堤から、漸く登山道らしくなった。樹林帯の尾根道は、つづら折になって登り、迂回を繰り返す割には急登であった。何度目かの折り返しで、先程自家用車で走ってきた、ふもとっぱらと云う名の、整備されたキャンプ場を見おろす景色が広がった。靄靄とした空に、富士の姿はすっぽりと隠されていた。尾根に乗ってからは、自然林の中を明るい陽光を浴びながら登っていく。随分歩いた処で、一合目、の標識が現われたので、未だ先が長いことを知る。

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徐々に巨岩が折り重なるようになって、ロープが垂らされている箇所も現われ、登山道の風景は一変した。細尾根の脇を辿るように登り、徐々に濠音が聞こえてくる。尾根上に出ると、錆びた鉄板に「朝霧高原から下部温泉コース・不動滝」と記された道標が、朽ちた儘捨てられていた。此処が登山地図に記された「不動の滝見晴台」で、岩の上に立ち、此処迄登ってきた尾根の反対側の断崖の先を眺めると、山腹に抉られた岩壁に見事な滝が落ちている。落差二百米の不動滝は二段になって落ちていく形状で、雨天続きの所為か、充分な水量で瀑音を響かせている。歩いて登ってこなければ見ることができないと思うと、堪えられない名瀑のようにも見える。

小休止を終えて、次は登山地図に記されているポイントの、五合目を目指す訳だが、其の途上では二合目、三合目と、丹念に道標が立っていた。岩塊の合間を登っていく箇所も増えて、随分歩いたのに、漸く現われたのが三合目の手製道標だと思うと、却って疲弊が誘発されてくる。間戸井君は岩場が頻発してくるようになって動きが鈍重になっている。此れはいつも通りのことであるから、然程どうしようと云う想念も湧かない。途中でレスキューポイントの看板が立つ平坦地が現われ、其処で後発のハイカーに追いつかれる。中年の夫婦は、ふたりとも苦悶の表情で通り過ぎて行った。

五合目に到着すると、朝霧高原から下部温泉コース、の鉄製看板が、今度はきちんと樹間に設置されていた。五合目であるから道半ばに達したことになるが、標高は未だ千四百米で、あと五百米以上も登ることになる。高度が上がるに連れて、自然林の枝は疎らな感じになり、春の雰囲気が逓減していく。天子山塊の南方面に連なる山々が見渡せるようになってきた。登山道の尾根は等高線の幅を見ると首肯できるが、存外に急峻である。天子山塊の姿を、右側が開けたり左側になったり、道筋が右往左往するので交互に眺めながら登っている。右側が開けると対岸に、毛無山最高点からの支尾根が峻険な形状で麓集落の方に落ちていくのが見渡せる。其の一角が鋭利な小ピークになっているのだが、友人は其れを見るたびに、あれが毛無山の頂上ではないかと云うので、私は其のたびに説明して否定する。延々と続く急登に、間戸井君が飽きてきているのは薄々判っている。今日も途中で足の痛みを訴えられるのかもしれないと警戒したが、特に其のようなことは無い儘登り続けた。オートキャンプで焚き火、其の愉しみが在るので、なんとか持ち堪えているのかもしれない。

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忘れた頃に現われる、六合目、七合目の道標を通過して、一時間が経過しようとしていた。先頭を行く間戸井君が下山の徒に話し掛けられて立ち止まった。壮年の男性は、自分は毛無山の管理を任されていること、三千回の登頂を目指していること、此の辺りでは名物おじさんと呼ばれていること、何合目、と云う標柱は自分が設置したこと、などを披瀝した。三千回を目指すと云うからには二千回以上登っていることになるのだろうが本当か、と其の時は疑念を抱いた。名物、を自称されると、其の信憑性は愈々薄まってくるようにも思えるので、後日、インターネットで検索を掛けてみた。其の結果、多くのハイカーが毛無山登山に於いて、季節を問わず名物おじさんと遭遇しており、五年前くらいの記述では、登頂千八百回と公言している記事も発見した。五年間が経っていることを考えると、名物氏の現在の登頂回数が、二千回を越えていても不思議ではない。疑ってすみません。と、今更ながら思う。名物氏の、毛無山への称賛の言辞は止むことがなかった。二週間前には田中君も来たからね、と云うので、一瞬何のことかと思ったが、どうやら田中陽希氏のことのようであった。

名物氏は、もう直ぐ展望台で、九合目が稜線だから登りは其処で終わりと云った。其れで友人は非常に上機嫌となり、凄い人と出会えたな、などと云っている。しかし、もう直ぐ、と云われた展望台はおろか、八合目の標柱もなかなか現われないので、間戸井君はふたたび寡黙になってしまった。瓦礫混じりの斜面の、何でもないような処に漸く八合目の票が立っており、此の時点では名物氏に疑念を抱いていた私は、此のポイントの根拠は何なんだろうね、などと悪態をついた。友人は、其れでも名物おじさんを擁護するように、何度も登っているから距離を算出したんじゃないか、と云った。

直ぐに到達すると云われてなかなか辿り着けず、無言になって勾配を登り続けているうちに、ふと見上げると、ひと際巨大な露岩が突き出るように行く手を遮っている。其れを右側から回り込んで登っていくと、其の巨岩の上が富士山展望台なのであった。先着していた、先程追い越していった夫婦が記念撮影をして寛いでいる。我々を確認して、ふたりは場所を譲るように出発して呉れた。

富士山展望台からの眺望。此れは見事であった。ゴルフ場などの整備された人工的な緑地が広がる朝霧高原、其れを前景に、富士山を中心とした箱庭のような風景が一望できる。纏わり付いていた雲が徐々に流れ、やがて富士山の五合目辺りから上部が姿を現わす。頭を雲の上に出し、と云う唱歌の通りの富士山だった。程よい標高から対峙して眺める富士山は、北斎の画のような遠近感で、麓から仰ぎ見る富士とは趣を異にする。苦労して登ってこなければ味わうことができない。我々は昂然として、暫く巨岩の展望台に佇んでいた。

息を吹き返したような気分で、最後の尾根登りを開始した。名物氏の距離感と我々の其れとは、著しく乖離していると云う認識を新たにして、稜線上の九合目を目指す。欲を捨て、ゆっくりと登り続けるうちに、天子山塊の稜線の上に乗った。下部町観光協会製の道標が在る分岐点の周囲は、潅木で眺望は無いが、毛無山方向に少し歩くと、西側に突き出た巨岩が在り、明らかに名物氏の筆跡で、北アルプス展望台、と記した票柱が立っていた。岩の上に立つと、前衛の身延山の向こうに、銀嶺が並んでいるのが見渡せる。南アルプスの上部を見渡している訳だが、北アルプスの眺望が可能なのかは定かではない。

緩やかな傾斜の踏路を辿ってくうちに、霧が深くなってきた。樹木が途切れ、明るさの広がった処が毛無山の頂上広場で、食事休憩をしているグループなどが賑やかであった。富士山が正面に見える筈の、南東に開けた先は、一面のガス状の霧である。其の方角から、強い風が吹いてきて寒い。山名票の前で握手をして、我々は風を遮る潅木の中に避難して、食事を摂った。

麓の穏やかな気候が遠い彼方の出来事のように、毛無山の頂上は冷え切っている。インスタントラーメンを食べるにはお誂え向きの寒さですな、と、私は湯を沸かす準備をしながら友人に云った。間戸井君は複雑そうな表情で、持参した握り飯を頬張っている。のんびりとラーメンを作り始めている私を、落ち着かない様子で眺めている。どうやら、一刻も早く下山して、キャンプ場に行きたいような様子に見える。敢えて其れは黙殺し、私は食事の支度に取り掛かる。寒い山頂から、ハイカー達がひとり減り、ふたり減り、喧しいグループも消え失せた。毛無山の頂上広場は、徐々に霧が深くなっていくようであった。


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付記

毛無山からの下山は、急勾配に加えて岩塊が多く、思った以上に時間が掛かった。ストックを使用して、其の有難味を再認識した。帰京して二日間程、激烈な筋肉痛が続いたから、改めて厳しい勾配だったのだと思った。

オートキャンプ場にテントを設営して、一旦車で国道139を南下し、公共温泉に出向いた。温泉に浸かった後、キャンプ場に戻った頃は真っ暗で、ヘッドランプを頼りに焚火台の設置と、薪に着火する作業をした。キャンプが始まってからの友人は精力的に働き、無事焚火台が作用した。焚火はただ燃えているだけで、其れで調理する訳ではなく、別途持参のカセット焜炉で肉を焼いて食し、麦酒で乾杯した。湯上がりに焚火の傍の麦酒なので、快適だったのは間違いない。しかし、キャンプでの贅沢な晩餐と云うのが、過剰なエネルギーを消費して行なわれているような気がして、なんとも落ち着かない。周囲を見渡すと、本格的にタープを張って、椅子とテーブルを設置して。焚火の前で茫然としているソロキャンパーが少なくない、と云うことを知って驚いた。其れはともかく、今年は友人と出掛ける場合、オートキャンプに絡めて登山する機会が増えそうで、気分は複雑である。自動車によって行動範囲が広がるかと思っていたが、焚火台使用可のオートキャンプ場が在る場所に目的地が限定されてしまいそうな気配である。便利なものが増えていくに従って、自然との距離が遠ざかっていくような気がするが、勿論友人に、そんなことは云わない。と云うか、云えない。

愛鷹山塊、黒岳、越前岳、そして駿河湾の落日。(後篇)

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空が近い、樹木の密度が薄くなってきている。いつも通りの登頂の予感である。バスを降りて歩き出してから五時間近くが経過しているが、然程の距離を歩いてきた訳ではない。しかし、全身に疲労感と虚脱感のようなものが染み渡っているように、足取りが重い。富士見台で食事を済ませてから長らく休憩して、気持ちは早くテントを張って横になりたい、と云うようなものになってきていた。富士見台は程よい平坦さで、樹木が疎らに立ち並ぶ静かな場所だった。幕営には不足の無い環境であったが、肝心の富士山が雲に隠れて見えないので、単純に面白くない気分になり、取り敢えず越前岳に登ってしまおう、そんな意識だけで歩き続けた。枯木が立ち並ぶ先に、木製のベンチが散見している。其の合間を縫って明るさが広がる。越前岳の頂上であった。


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2016/2/22
越前岳(7:00)---勢子辻分岐---平坦地---馬の背---十里木高原展望台---十里木バス停(8:50)


予備知識としては持っていたが、越前岳は富士山と云うよりも、駿河湾の眺めを一望できる山であった。午後の陽は未だ高いが、二月の寒空の午後三時である。今日は此処迄で充分だろう、内心で呟きながら、改めて伊豆半島西側の付け根から三保の松原の在る半島を囲む、茫洋とした駿河湾を眺めた。頂上広場には若い男女の三人組が居て、他愛の無い会話が耳に障る。彼等にも挨拶をするが、ひとりだけ曖昧な表情で会釈をするだけで、こちらを目障りのような風に見ているのが判る。構わずに巨大ザックをベンチに置いて、地図を広げて山座同定をして、長々と展望地に立っていたら、無礼な若者たちは下山して行ったので、漸く安穏とした心持ちになった。

どうしよう。テントを張るか。そう思うが、余り進んでいない時計を見て、もう暫く様子を見ることにした。風も無く、陽光が心地好いので、じっと座っていても、苦痛では無い。そのうちに飽きてきて、ザックを置いたまま、十里木方面の様子を見てこようかと思いついた。例の平坦地迄行けるかどうかは時刻次第で、一時間以内に戻って来れば、テントを張っても差し支えない頃合になるだろう。私は、サブザックに貴重品だけを詰めて、十里木方面に下り始めた。

登山道は、此れ迄に無い程深く抉れていて、十里木からの登山者が圧倒的に多いと云うのが窺い知れる。泥濘の状態は酷く、登山道を避けて草地の上に立ち並ぶ樹木の合間を選んで歩を進めているうちに、傾斜が徐々に急になっていく。縦横に抉れた道が交錯して、やがて草地が途切れていくなと思った途端、崩れかかった斜面に足を取られて身体が仰向けになり、私は泥濘に向かって滑り落ちた。

したたかに打った臀部と、庇って衝いた両方の掌が黒ずんだ泥に塗れている。泥水が尻に染みてきて冷たいのと、目を覆わんばかりに汚れた自分の下半身の醜さに、情けなくて全身が脱力していくようだった。越前岳北面の偵察などと云う気持ちの余禄はすっかり無くなってしまい、私は山頂に向かって登り返すことにした。平穏の裡に目的地へと辿り着いた一日の終わりが、気分としては一挙に暗転した心持ちになった。疲労の果ての足腰の脆弱さなのか、荷を下ろして神経が弛緩して油断した所為なのか、泥濘の登山道を避けて草地を踏んだ不埒な行為に対する代償だったのか、どうでもよいことを思い悔やみながら、頂上直下の急勾配を登り続けていた。

暖かな陽光に照らされた頂上から、茫漠として靄のかかった南アルプスの山並み、そして午後の陽光に海面が光る駿河湾を眺めていた。私は泥だらけの登山パンツと、外套のソフトシェルを脱いでベンチに広げた。陽は未だ沈みそうに無い。陽に当てて乾かせば、泥は落とせるだろう。私は滞留のためのダウンのジャケットとパンツに履き替えて、スキットルのボトルに入れてきたウイスキーを飲みながら、いじけたように背を丸めてベンチに座り、越前岳からの絶景を虚ろな気分で眺めていた。その後の登頂者は単独行の男性が二名で、それぞれ無言で佇んでから、長居をせずに去っていった。巨大ザックを立て掛け、衣類を広げて日干しして、酒を飲みながら煙草を銜えている謎の男に、少し困ったような顔をして、彼等は挨拶をして、去っていった。

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午後四時半を過ぎて、私はザックの中から荷を取り出して広げた。いつの間にか日の入りが遅くなっているのだなと思いながら、なかなか沈みそうに無い太陽の光を浴びて、幕営の準備を始めた。テントを組み立てる作業に没頭していると、気分が徐々に落ち着いてくる。出来上がった今夜の寝室に全ての荷物を仕舞うと、私の気分はすっかり安寧に戻っていた。そうして、漸く黄昏の色彩を帯びてきた山頂から、展望所のような柵に凭れ掛かって、赤く染まっていく水平線と雲の境界、そして七面山から連なる、富士川の衝立の山並み、特徴的な鉤状の三保半島を眺めた。夕陽は駿河湾に沈むのだろうと思い込んでいたが、遥か遠くの南アルプス南部の稜線に、其の姿を隠していった。富士市の街並みに、ぽつりぽつりと、夜の灯が燈っていった。

真冬の幕営。其の緊張感は然程では無かった。二年前の箱根外輪山の時のような、積雪が全く無いことに加えて、風の無い穏やかな気候の所為かもしれない。薄暮が宵になり、雲間から時折覗く月光が、驚くほど明るい。手順とすれば、食事を摂ってから寝袋に入るのだが、昼食が遅かったので食欲が無いので、ウイスキーを飲みながら本を読んでいた。其のうちに漸く睡魔が襲ってきたので、眠ることにした。爪先が冷えないように、今回も使い捨て懐炉を靴下二重履きの間に挟んでいる。靴下に貼るタイプの懐炉は小さいので、踵が冷えてくるのが辛くなったので此れは失策だった。爪先と踵にそれぞれ貼って漸く落ち着いたが、夜半に目覚めた時は既に効力を失っていたので、反省材料となった。冬のテントで使用する懐炉は、足裏用ではなく通常の大きさのものがよい。そして、登山パンツが汚れてしまったので、下半身はウールのインナーにダウンパンツのみで横になったが、此れはさすがに薄着だったようで、腰が冷えて困った。通常の使い捨て懐炉があればよかったのにと、また後悔した。

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冷えと尿意を催して覚醒したのが午後十時頃で、仕方なく外に出た。富士市の夜景は絶頂の域に達していた。三保半島をなぞる駿河湾の曲線が、ネオンの洪水を図案化しているかのように構成されていた。暗い海に、何隻もの船の灯火が浮かんでいる。夜景を見下ろしながら放尿して、紫煙を燻らせていると、細い光の帯がゆっくりと移動していくのが見えた。光る毛虫が這っているようにも見える。夜更けに走っている岳南鉄道の電車である。ずっと前に所用で訪れたことのある、岳南江尾(えのお)駅のことを思い出した。工業地帯吉原の周囲を走るローカル線の光景は、自然美とは違う一幅の絵で、いつか再訪してみたいと思う場所である。沿線の須津(すど)駅から、須津川に沿って愛鷹山塊に登ることも出来る。そんな山行もやってみたいが、何時のことになるだろうか。
テントに戻り、消灯してふたたび眠りに入ろうとする。腰が冷えて中々眠れない。日常生活の、当然のようなベッドの温もりが得がたいもののように思えてくる。其れも、真冬の幕営の醍醐味なのかもしれない。風が強くなってきた。フライシートが、テント本体を押してきて揺らめく。少し心細いような気持ちになって、ふたたびヘッドランプを点灯する。暫く眠れそうにも無いから、ウイスキーを飲みながら文庫本を読み始める。宮本常一著作の「家郷の訓」と云う本が読みかけだったので何の気無しに持ってきた。深夜の山頂で読む民俗学の書物は、不思議に没頭することができた。

はっと気がついて目を覚ました。テントの外側は未だ暗い。眠りは深かったのか浅かったのか判らない。時計を見ると午前五時だったので、勢いよく寝袋から這い出た。其れが寝心地のよくなかったことを物語っているような気がする。支度をしているうちに、夜が明けるだろう。私は煙草に火を点けるために外に出た。暗いので最初は何のことか判らなかったが、足を踏む音がざらついていて、泥濘の感触では無かった。ヘッドランプで足元を照らすと、周囲は真白になっている。辺り一面に、霜が降りていた。夜景は微かに窺えたが、やがて霧の中に消えた。寝具を畳み、のんびりとザックに収納する作業を行ない、テント類を残した時点で珈琲を淹れた。天気予報は単なる曇りの筈だったが、越前岳の頂上はガスに包まれて、風の音が不気味に響いている。私は、早く下山してしまおうと云う身持ちが逸り、食事をする意欲も無いので、其の儘テントを解体してザックに仕舞った。

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昨夕の失策が身に染みて、私は勢子辻の分岐迄、抉れた登山道を忠実に下山していった。泥濘は霜で凍っているので、存外に歩きやすい。樹林帯の中は風が少なかったので、山頂ビバークの独特さを、改めて感じ入った。分岐から北へ転換して、実直に尾根の登山道が続いている。途中でぽっかりと北西に開けた場所があり、相変わらず霧が渦巻いているのが見渡せたが、徐々に下方の建造物や道路が見えるようになった。足早に下り続けて、唐突に広場が現われる。此処が例の「平坦地」で、其の名称の道標も在った。テントが張れそうな場所であり、少しずつ広がる十里木の景色を眺めると、好天であれば富士山が充分に堪能できる展望地であると確認できた。

登山道は標高千メートル迄下降した辺りから、急激に勾配が変化して、ロープの手摺りが続くようになった。其れ等をパスして、やがて緩やかな鞍部を通過して、少し登り始めると、もう周囲は行楽地の遊歩道然としてくる。ひとつのピークに達すると、木製のベンチとテーブルが幾つか設置してあった。標高1098.9mの三角点が存在する、馬の背或いは笹峰の別称のある山頂である。

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目の前には、ゴルフコースや別荘地が整然と配置された、十里木の人工的な風景が広がっている。分厚い雲が低く覆われていて、直ぐ其処に在る筈の富士山の姿は無い。ベンチに座って、終わろうとしている山歩きの感慨に耽っていると、雲が少しだけ流れるようになって、空の真ん中から、富士山頂の白い台形が現われた。其れはまるで、雲の壁の隙間から、富士山がこちらを覗いているように思われた。そんな倒錯した構図の中に、自分が居るような気がして、私はごく自然に、頬を緩ませて、笑った。



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2016 2月迄の山行。

2016/1/20
古里駅(10:20)---丹三郎尾根---大塚山分岐---御岳神社(13:20)---表参道---御岳渓谷遊歩道---沢井駅(15:40)

2016/1/25
高尾山口駅(11:20)---琵琶滝---霞台園地---薬王院---一号路---高尾山口駅(13:20)

2016/1/31
宮ノ平駅(12:00)---神明神社---要害山---赤ぼっこ(13:20)---馬引沢峠---宮ノ平駅(14:30)

2016/2/10(登山詳細図踏査)
青梅駅(8:30)---梅岩寺---叢雨橋---栃谷橋---こぶしの森---青梅丘陵ハイキングコース「黒仁田方面」道標(11:20)---こぶしの森---仏塔---久平稲荷神社---梅岩寺---青梅駅(14:10)

愛鷹山塊、黒岳、越前岳、そして駿河湾の落日。(前篇)

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真冬の幕営をすると云う動機が先にあった。其の次に行き先を考える。重いザックを担いで、山頂にテントを張って、黄昏の風景を眺める。どの山が相応しいのだろうか、漠然とそんなことを考えるが、具体的な結論には辿りつかない。前回の金時山から一ヶ月が経つ。此の間、都心にも大雪が降っているので、富士山の容姿も随分変わったのではないか、ぼんやりと、そんなことを考えた。正面にどんと聳える富士を眺める、其れだけが目的の山行でよい。丹沢から、箱根から、富士山の裾がゆっくりと広がった先に並ぶ愛鷹山塊を、何度も眺めたが訪れたこたが無い。初めての山に登ると云うのは気分を高揚させる。だから初めての愛鷹山に登り、富士山を眺めに行く。そう云うことに考えが落ち着いた。


2016/221
愛鷹山登山口バス停(9:00)---山神社---富士見峠---黒岳---富士見峠---鋸岳展望台---富士見台---越前岳(14:40)

愛鷹山は富士市、沼津市、裾野市に跨る連峰の総称で、凡そ南北に連なっている。富士山を至近で眺めるのであれば、北端に位置する越前岳が相応しく、お誂え向きなことに、此の山塊の最高地点でもある。越前岳から東北東に尾根が延びていて、黒岳に連なる途上には、富士見台とか富士見峠などの地点名称が並んでいる。此のルートが富岳絶景であろうことは想像に難くない。御殿場駅からのバス路線に、愛鷹登山口と云う停留所があり、其処から一時間も歩けば、黒岳に至る稜線の鞍部、富士見峠に到達できる。登山で御殿場に行くと云うのは、以前は全く想像できないことであったが、金時山に登る足柄駅を三度も経験したので、もうそんなに遠い処だとは考えていない。

日曜日の朝、小田急新松田駅に降り立つ。勝手知ったると云う足取りで、駅前に在る立食蕎麦屋で天麩羅蕎麦を素早く食してから、御殿場線の松田駅で切符を買って入場する。ICカードが使用できないのは、国府津から御殿場の区間がJR東日本と東海の境界域になっていることに関連がありそうだが、確実な事情は判らない。御殿場線の電車が間もなく到着しそうなのに、券売機に数人が並んでいたので少し慌てたが、プラットホームに出ると、丁度良く三島行きの電車が滑り込んできた。平日は高校生で一杯の時刻だが、今日は部活の生徒が少し多いくらいで、其れも隣の東山北で降りてしまうから、車内は閑散となった。谷峨を過ぎると、遠近感が可笑しいのではないかと思うくらいに大きな、真白い富士山が登場する。曾遊の足柄駅を発車して、里山に遮られ、隠れては現われる車窓の富士山を眺めた。そうして、電車はゆっくりと御殿場駅に到着した。

イエティ行きの富士急バスは、大変な混雑振りだった。車内は行楽客で一杯で、中国語や英語が飛び交っている。ぐりんぱと云う遊園地に行く人々かと思われる。ぐりんぱとは何ぞやと思ったが、後日調べてみると、以前は日本ランドと呼ばれていた施設で、そう云われてみると記憶がある。とにかく、車内にハイカーの姿は無く、しかも巨大ザックを抱えて座っている私は生きた心地がしない。暖房と人いきれで曇ったガラス窓を時折拭いて、茫漠とした枯芒の高原を眺める。電車の車窓では青空が広がっていたのに、窓外はいつしか鉛色の曇天になっていた。

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須山の町を過ぎて、国道469号は徐々に勾配を上げて、森林の中に突入していく。集落も何も無い処に在る愛鷹登山口のバス停に到着し、漸く満員の車内から脱出する。バスが去ってから、暫くは息を整えるのに苦労した。蛇行して登る舗装路の途上に在るバス停の横を、何台もの車が唸りを上げて通過していった。紫煙を、ゆっくりと吐き出す。樹林に覆われた国道の路面は濡れていた。昨夜に降ったであろう大雨を彷彿とさせる。私は、銜え煙草の儘、登山道の入口に向かって、林道を歩き出した。

杉或いは桧の植林帯が右手に広がり、緩やかな傾斜の尾根が垣間見える。直截に登っていけば、やがて最初の目的地である黒岳に行き着くのは明白だが、登山道をめざして林道を直進する。山神社と呼ばれる登山道の入口に在る駐車場には、自家用車が十台程駐車してあった。鳥居をくぐると、登山道敷設の契機となった遭難者の碑が在り、木段を登ると小さな祠が在り、参拝してから谷筋の道を登り始める。天候は愈々悪化して、曇天は常態のようになっていたので、内心で溜息を付くような気分で歩を進めた。富士山の目の前迄来て、何も見えないと云う皮肉な事態が、間もなく到来するのであろうと云う想像が頭に纏わり付いてくる。

黙々と谷底の道を登っていると、踏跡はやがて尾根の東側をなぞるようになって、勾配を上げていった。迂闊なことに、山と高原地図の他に、1/25000地形図を用意しないで出掛けてきてしまったから、面食らった。1/50000の登山地図では登山道の赤線が真直ぐに鞍部迄引かれてあるので、尾根に登り始めると云う予測ができていなかった。今歩いている尾根の東側を辿っていくのかと思っていたら、突き当たって左に切り返す道が辿っている。其の儘尾根に乗るのかと思ったら、刻まれた踏跡はトラバースして尾根を乗り越していった。尾根の反対側に出ると、森林を眼下にして空が開けた。霧が流れるようにして周囲を覆っている。

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心細い程に狭いトラバース道で、下山の徒がやってきた。早朝に自家用車で到着した登山者だろうか。挨拶をすると、黙殺されてしまったから唖然となった。暫くして、またひとり、下山者と擦れ違った。ふたたび挨拶してみたが、また黙殺された。其れどころか、狭いトラバース道で、登りの人間に進路を譲る気配も無く、通り過ぎて行った。愛鷹山塊を歩く人々が、何故此のように無愛想なのか、事情は判然としないが、私の気分も、徐々に殺伐としてくるような気がした。山腹のトラバースが延々と続いて、途上には梯子段も現われつつ高度を上げて、やがて谷筋に差し掛かった地点に、避難小屋が建っていた。門扉が設えてあり、山荘兼避難小屋、無人、無料、と記してあった。門扉の鍵を外して敷地内に入り、小屋の前のベンチで休憩することにした。

「あしたか山荘」の看板が打ち付けてあるトタンで覆われた小屋の中を覗いてみると、存外に快適そうな室内だった。敷き詰められた絨毯は綺麗で、隅に布団と毛布がきちんと畳んで積んである。小さい土間には竈があり、火を熾せば十分に暖かい夜を過ごせそうであった。外に出て、深呼吸をする。背伸びをして、空を見上げたら、なんだか明るい。あれっと思い振り返ると、小屋の向こうに、枯木が並んだ稜線が見えていて、青空になっている。富士山の在る北面から、晴れてきている。弛緩していた身体に気力が漲ってくるような気がした。私は巨大ザックを背負い、足取りも軽く、出発した。

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小屋の裏手を登り始めて程なく、富士見峠の鞍部に乗った。正面には落葉樹の枯木越しに、富士山の姿が見えている。でかい。単純にそう思った。早く黒岳から、巨大な富士山の全容を眺めたい。そう思った。此処から越前岳とは反対方向に、黒岳が在るから、当初は此の富士見峠にザックを置いて、往復しようと考えていた。しかし、先ほど擦れ違った、挨拶を黙殺するハイカーたちを思い出して、なんとなく、ザックをデポしていくのが躊躇われるような気持ちになった。其れで、重いザックを背負った儘、黒岳方面に歩を進めた。

登山道は薄暗い植林帯になって、暫く登り一辺倒になった。やがて其れが落ち着いて、北面にぽっかりと眺望が開ける箇所に着いた。黒岳展望広場と云う場所で、ベンチが設えてある。富士見峠から歩いて十分も経っていないのに、雲の動きが早い。富士山は、既に雲に覆われていた。そして、先ほどから頻繁に聞こえている、自衛隊東富士演習場の砲撃音が、けたたましく断続的に、鳴り響いている。裾野に広がる眺めを見下ろすと、広大な駐車場と建物があり、獣の咆哮のような声が響いてくる。富士サファリパークに放たれている猛獣の声だろうか。砲撃音と咆哮が交錯して、地の底から響いてくるから、穏やかではない。

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黒岳展望広場は、眺望こそあるが鬱蒼とした樹林帯の中に在るので、あまり居心地がいいとは云えない。私は、ザックを下ろすことなく、先に歩を進める。杉の巨木を通過して、やがて尾根が二分する地点に道標があり、右折すると、彼方にこんもりと盛り上がる丘が見えた。一旦下降して、丘に向かって気持ちのよい道が続いていた。緩やかに登り詰めた処が、広々とした黒岳の頂上だった。姿は隠れているが、富士山が目の前に在り、視線を右に転じていくと、丹沢山塊が明瞭に見渡せた。振り返ると、正面に箱根外輪山が連なり、其の奥に、中央火口丘の上部が顔を出していて、大涌谷の白煙が確認できた。広々とした山頂は、自然林が疎らに立ち並んでいて、平坦であるから、此処で幕営するのも気分がよいだろうなと思った。事実、焚火の跡もあるから、黒岳でテントを張る人も少なくないのであろう。

時間は充分にあるので、黒岳山頂では暫くの間休憩した。其のうちに雲が晴れて、富士の全容が現われるかもしれないと期待して、待った。しかし、裾野の眺望は広がっているのに、肝心の富士山は、姿を見せて呉れない。其のうちに、ひとりのハイカーが登頂してきた。妙齢の女性は明朗だったので、漸くまともに挨拶ができて安堵した。越前岳から歩いてきたと云う彼女は、富士見台で富士山がくっきり見えて素晴らしかった、と云った。ひとりきりの山頂を彼女に譲るために、私は荷物を纏めてザックを背負い、黒岳を後にした。

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富士見峠に戻り、越前岳へと尾根登りに入った。地図のルートを眺めて想像した雰囲気とは違って、登山道は無味乾燥な植林帯の中を辿っている。夥しい数の人が歩いたであろう道は、深く抉れていて、雨上がりの所為か、泥濘になっているから、足元ばかり見て歩き続けた。森林だけでなく、隣の尾根に遮られて、富士山側の眺望は全く無くなってしまった。私は、背負っているザックの重さが身に染みてくるような気分になりながら、鈍重に歩いていた。

鋸岳展望台から、文字通りの鋸歯状の山並みを眺める。愛鷹山塊の、南東に併行する稜線を、初めて明瞭に確認する。鋸岳が行き着く先の位牌岳は、一際巨大な山容で、越前岳と対になって愛鷹山を表現している山である。山名には不気味で恐ろしいものが幾つかあるが、此の位牌岳には、怖いと云うのとは違って、虚無感に囚われそうな不気味さを覚える。鋸岳の禍々しい姿を連ねて聳える位牌岳は、中空の陽射しで逆光になり、黒ずんで見える。ひと息入れて休もうとしたが、なんだか落ち着かない気分になり、直ぐに歩き出した。

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標高1200mを越えて、踏路は相変わらず眺望の無い儘、そして人の気配が無い儘、傾斜を増して続いていた。時刻は午後一時を過ぎている。私は近づきつつある今夜の幕営地に就いて、思案を巡らせながら歩いていた。富士山と対峙しつつビバークすると云うことで、私は越前岳から十里木に下る途上の何処かでテントを張ろうと、漠然と考えていた。登山地図には、「平坦地」と記されたポイントが在る。平坦地か、更に下降して十里木高原に程近い、標高1098.9mと云うピークも在る。何れにしても真正面に富士山を眺めるには申し分の無い場所だと想定していた。此れから越前岳に登頂し、下山の途上に到達する時刻はどの程度のものか、私は疲労感を天秤に掛けて、何処迄歩けるか、と云うようなことを考え始めていた。

登山道は鬱蒼とした尾根道が続いたが、やがて視界が開けてきた。岩が混じった尾根上に、危険、の看板が立っている。恐る恐る、近づいて彼方を眺めると、眼下は切り立った崖になっていた。登山地図では、北白ガレンと記されている。ガレンとは何であろうか。瓦礫場の際立った状態だろうか、などと考えつつ、後日調べてみると、爆裂火口のことを示すらしい。越前岳、呼子岳、位牌岳、そして黒岳。頭の中で山々を繋ぎ合わせて、太古の昔の巨大火山を想像してみるが、北白ガレンの奥底を窺ってみても、其れは困難なことであった。

切り立つ崖の東側をトラバースして登山道は続く。やがて抉れた赤土の登山道は、笹薮状の中で狭まり、足元は相変わらずの泥濘で勾配は急になっていった。日曜日の午後、もうハイカーは居なくなったのかと思いきや、三組の下山者と擦れ違った。越前岳には誰か居るだろうか。疲弊した心持ちの中で、私は何処で幕営するかを思案していて、越前岳の先まで歩いていくのが苦痛に思えてきたのであった。そして空腹を覚えて立ち止まった。行く先の方を見上げて、ひとつのピークが近いことを確信したので、朦朧とした儘登り続けた。

辿り着いた処が尾根の分岐する瘤状の平地で、脚立のような櫓の立つ富士見台であった。私はザックを下ろして、茫然と立ち尽くしていた。富士山の方向には青空が復活して、広大な裾野の光景が広がっている。しかし、肝心の富士山はと云うと、宝永火口の上に作為的にも見える程上手に雲が掛かっていて、なんとも締りの無い姿を晒している。其れを確認して、私は地面に座り込んだ。何か食べよう。そして此れからどうするかを考えよう。そう思いながらも、食事の支度をするのが億劫になって、煙草を取り出した。肝心の上部が見えない富士を眺めながら、紫煙を燻らせた。全身が、弛緩していくような感覚は、何故か心地が好く、私は、不思議な充足感に、包まれていた。
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