中央本線沿線

鳥屋山北尾根・斧窪御前山

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倉岳山の北東尾根を登ってから、次はどうしようかと思案しつつ、高尾駅から中央本線の普通電車に乗車した。倉岳山周辺の地形図を携行して、目的を定めない儘出掛けてしまった。日常の些事に、気持ちが塞いでいる。其れが澱のようになって、身体の奥底に溜まっているような気がする。そんな心裡の儘、動き出した車窓を眺めると、昨日都心でも降った雪で、山々が薄っすら白く染まっていた。

電車が上野原を過ぎて隧道を越えると、陽光が山々の北面に遮られて暗い車窓に変わる。四方津を発車して、梁川駅に近づくと、風景はふたたび、朝陽が眩しい雪景色となった。御馴染みの梁川駅が、今朝は別世界のように美しい。そう思った瞬間、鳥沢駅から下畑集落方面に歩いて、倉岳山北尾根を登る、と云う具体案を考えていた私は、急遽梁川駅に下車することにした。

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2017/2/10
梁川駅(8:30)---唐栗橋(8:40)---取付き点(8:50)---686mピーク(9:55)---鳥屋山(10:20)---細野山(11:40)---立野峠(11:50)---梁川駅(13:00)

梁川駅に降り立ち、プラットホームから、雪化粧をした三角錐の斧窪御前山を眺める。視線を左手に移すと、倉岳山に続く尾根の前衛である493mピークが、此れも白い綿に包まれたようになってこんもりと立っている。快晴の青空を背景にした倉岳山を見上げて、さあどうするかと黙考する。そこで、本日の行程を、未踏の鳥屋山北尾根を登ることに決めた。

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鳥屋山は、高柄山から倉岳山に続く、桂川南岸に連なる山々の途上に在る。昭文社の登山地図には「トヤ山」と記載されている。過去には倉岳山から寺下峠経由で下山する時に、通過したことがあり、其の時の感想は、存外に長い行程だったと云う思い出しか無い。其れを北面の尾根から直登しようと云うのが主題である。

トタン沢橋を渡って舗装路の勾配を登り、相変わらずの倉岳山登山口に達した。其の儘舗装路を進んでいくと、周囲の光景は薄暗い雪の谷となっていく。林道富士東部線は尾根に突き当たると、抗うことなく旋回して尾根を捲いていく。路面が凍りついた唐栗橋を渡り、鳥屋山北尾根の取り付きを探す。松浦隆康著「静かなる尾根歩き」の記述を頼りに、「彦田359」の電柱を探し、其の付近に落ちている尾根の緩やかな勾配を伺うと、微かな踏跡を確認した。

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薄暗い笹薮の斜面を登って、程無く支尾根の上に立つ。木々に積もった雪が、強烈な陽光に照らされている。唐突に浴びる光に眩暈を覚えそうになりながら、歩を進めていくと、粉雪が舞うようにして周囲を覆っている。凍てついた樹林に積もった雪は、此の陽差しで、急速に溶けていくのだろう。暗い影になっていた谷間にも徐々に陽が差し込んで、誰も居ない雪の山道が、いよいよ明瞭になっていった。

斜面を登り、行き着く先を見上げると、青空が樹林越しに広がる。鳥屋山北尾根の478mピークに立つと、月尾根沢を挟んで、正面に倉岳山が聳えている。登り始めてから程無くの眺望は、此れ迄の月尾根沢経由の倉岳山登山では考えられない展開である。鳥屋山北尾根の愉しみを甘受した恰好であった。

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標高600mを越えて、北東からの尾根が合流し、積雪は徐々に深くなっていった。行く手を遮る倒木に積もる雪を払って、其れを越えていく。急勾配になり、高度が上がると、背後に百蔵山と葛野川の谷が遠望できるようになったので、自分が南東に向かって登っていることに気付く。松浦本の記述通り、恩賜林石標が、間隔を狭めて頻繁に出現するようになった。恩石標385の在る標高686m点に到達すると、太陽は中天に近くなって、積雪の尾根を照らしていた。

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相変わらずの倉岳山が、稜線の奥に聳えている。鳥屋山、細野山と続く稜線に、程近くなってきていることが判る。鳥屋山北尾根は、686m地点から巨岩が遮る急峻となり、トラロープが設置されている。深雪を喘ぎながら登りきると、呆気なく縦走路の途上にある鳥屋山に到着した。支尾根に取り付いてから、一時間半が経過していた。前回の倉岳山北東尾根よりも、一時間も早い。標高808mの鳥屋山と、990.1mの倉岳山を比較するのは違うのだが、僅かな時間で山上に立てるのは嬉しい。

近隣の舟山、細野山に挟まれた鳥屋山は、其れ等よりも低いので、漠然と稜線の合間に居ると云う感慨に包まれる。此処から倉岳山を目指すのが本来在るべき行程だと思うが、私は既に、立野峠から下山しようと云う考えに落ち着いていた。大好きな月尾根沢を、二回続けて素通りする訳にはいかない。そんな思いと、倉岳山迄、更に登り続けるのが億劫になっている自分にも気付いていた。

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山歩きを愉しんでも、澱んだ日常の疲れから、完全に脱することができていない。私は、自問自答を内心で呟きながら、細野山方面に歩き出していた。小さな瘤を幾度か越えて、秋山の集落を見下ろせる箇所に掛かった。中央本線沿線は青空の広がる好天なのに、秋山郷は鉛色の雲に覆われて、何処迄も暗い。其の景色は、自分の心裡に共感を与えて呉れる。私は立ち止まり、暗雲の中で雪に埋もれそうな山里の風景を、放心したような気持ちで、何時迄も眺めていた。


追記

2017/2/20
梁川駅(10:30)---斧窪御前山(11:30)---4号鉄塔---ヨソ木山---39号鉄塔---大田峠手前で迷い、北西方面尾根を下る---梁川駅(14:00)

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出発が遅くなって、取り敢えず梁川迄。駅から眺めるだけであった斧窪御前山に登る。中央本線を隧道手前で潜り、南面の登山口には古びた道標が在った。鳥居と社を通過してから尾根を直登し、呆気なく頂上に達した。テレビアンテナの在るピークからは、四方津方面に続く山並みの風景が見渡せた。松浦本のコピーを参考にしながら、北西方面の尾根を目指すが、笹薮が深くなり、強風が凄まじく、難渋して下降した。4号鉄塔を確認して、少し引き返して不明瞭な尾根分岐を探し、中央自動車道が貫く隧道の上を横断していく。送電線に併行して続く尾根を辿って、ヨソ木山に立つと、犬目や扇山が程近いのを実感させた。ゴルフ場を左手に、細い尾根を大田峠方面に進む。歩き易い尾根の分岐が断続的に現われ、二度程迷い込みそうになって引き返した。大田峠に近づいていくと、周囲は起伏の無い尾根が集合して、地形が判別できなくなる。結局、緩やかな尾根に見当をつけて無理矢理下降した。椎茸栽培の原木が積んである場所に降り立ち、作業道を歩くと、程無く大田峠方面の登山道に合流した。

倉岳山北東尾根

倉岳山に登る時は、いつも決まって梁川駅からであり、時計廻りに周回して、鳥沢駅に下りる。月尾根沢に沿って続く登山道が心地好い、と云うのが理由である。逆廻りで下山路にしても構わないのだが、都会の喧騒から離れて山に入る朝、最初に出会う風景が月尾根沢、と云うのが個人的に重要なのである。日常の中で、気持ちが落ち着かなかったり、深く沈んでしまう時、月尾根沢沿いの登山道を歩く為に、電車を乗り継いで、なんとなく無為に出掛けてしまうことが儘ある。倉岳山と云うよりも、月尾根沢が目的の山歩きは、私にとって馴染みの深い行為である。

一月の中旬に、そんな気分で相変わらずの倉岳山に行った。沢を詰める頃に現われる水場付近から、登山道は薄い積雪で凍結していた。油断していて、軽アイゼンを忘れてきたのだが、滑らないように及び腰で、なんとか立野峠に登った。しかし、其処で精魂尽き果て、倉岳山に登る気力が失せてしまった。仕方が無いので、付近に在る細野山に登り、頂上部を東に下った処から、雪に埋もれた秋山郷を眺めて帰ってきた。中央本線沿線は長閑な冬の風景だったが、山ひとつ隔てた秋山郷は、まるで新潟県の山奥のような感じの、暗い雪国を見ているようだった。

中途半端な気持ちが溜まっているようで気分が悪く、翌週に、ふたたび梁川駅に降り立った。好きな月尾根沢を歩くのも吝かでは無いのだが、先週の今週では、幾ら何でも飽きてしまう。其処で唐突に、倉岳山から北方に延びる尾根を登ってみようと云う気持ちになった。月尾根沢登山口に入って直ぐ右手に、尾根に向かう踏跡が在るのは判っている。単独で地形図だけを頼りに尾根を登るのは少し心細いが、緊張感を抱いて歩くと云うことが、最近少なくなっているような気もする。我が身を奮い立たせるような積もりで、敢行することにした。

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2017/1/22
梁川駅(8:30)---倉岳山登山口(8:50)---貯水槽(9:00)---747mピーク(10:30)---倉岳山(11:30)---穴路峠---天神山(12:05)---穴路峠---鳥沢駅(14:20)

冬晴れの陽が木立の隙間から差し込んでくる。登山道から外れて、少しの藪を掻き分けながら歩くと、コンクリートの貯水槽が出現し、其処が尾根の上であった。尾根はトタン沢橋の方角に落ちていく筈だが、貯水槽の裏手に廻って眺めても、藪状になっていて視界は遮られている。私は踵を返すと、早速の尾根登りに掛かった。

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小さな祠の在る雑木林を抜けると、緩やかに傾斜が始まる。恩賜林の石柱が現われ、少し急勾配になるが、陽当たりの良い自然林の細尾根になり、北西の風景が鞘越しに見渡せるようになった。枯葉の敷き詰められた尾根上の道が、傾斜を厳しくさせていく。露岩を縦横に擦り抜けるようにして通過すると、緩やかな尾根の肩に乗る。そんな平坦地が断続的に現われて、そのたびに、振り返って北面の景色を俯瞰して眺める。標高500mを越えると、周囲の山々を、同じようなレベルで対峙し、眺めるようになった。

見上げると、青空が立木の背景となって広がっている。月尾根沢の直ぐ傍に在る尾根道は、存外に心地好かった。ひと登りで、最初のピークである、580m圏に立つ。倉岳山の容姿が明瞭に聳えているのを見上げる。此処で梁川町立野の集落に落ちていく尾根と合流した。実質的に、倉岳山北東尾根が始まった恰好であった。紫煙を燻らせて休憩してから、急激に鞍部へと下っていく。左手に延びる尾根を見て、月尾根沢の、どの辺りに落ちていくのかと思いながら、岩礫の坂を慎重に下った。

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鞍部を通過して、ふたたびの勾配に掛かる。倉岳山北尾根の途上に在る747mピークの横腹に向かって、攀じ登っていく。傾斜は激化して、疎らに林立する樹木が傾き出す。枯葉の足元は滑りやすく、前傾姿勢になって、喘ぎながら登り続けた。勾配に抗えなくなる頃に、お誂え向きのトラロープが張られていた。其れに摑まり、何処迄も続く急登を、一歩ずつ、踏み進んでいく。標高650mを越えて、空が近づいてくる。足元が疎らな残雪を踏むようになり、巨大なサルノコシカケを根元に生やした樹木が傾斜に抗うようにして、斜めになって踏ん張っている。右手から尾根の合流点が視界に入ってくると、傾斜は徐々に緩んでいった。

倉岳山北東尾根は、北尾根と合流した。目前に在る747mピークに向かう尾根は、積雪で真白である。倉岳山の陰になって、明るい尾根は途端に寒々しい色彩に変わった。真冬なのに心地好かった微風が、凍るように冷たい。747mピークは、特徴の無い瘤だった。寒さから逃れるようにして、碌に滞留せずに出発する。其処からは、黙々と薄暗い積雪の道を歩き続けた。

最近は軽登山靴を履くのも億劫になり、今日もコロンビア製のローカットの靴を履き、ストレッチゲイターで足首をカバーしているだけである。深い雪を踏み抜くと浸水してくる恐れがあるので、積雪の薄そうな処を選んで、歩を進める。頂上が近いので、ふたたび傾斜は急になっているのに、足元に神経を遣いながら登っている。疲労感は徐々に増してきていた。

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標高940m付近の、平坦になっている処に辿り着くと、前方に青空が眩い。月尾根沢から競り上がってくる最後の尾根が合流する地点である。此処迄幾つもの尾根が左方から合流したが、其の都度気になって其の先を覗きに行った。心の何処かで、月尾根沢と北西尾根を両方愉しみたい、月尾根沢から登ることのできる尾根はあるだろうか、そんなことを思い続けていた。此の、最後の尾根は、お誂え向きの位置に落ちているようだが、地形図の等高線を確認すると、随分厳しそうに見える。

緩やかになった勾配を歩いて間も無く、曖昧に広がる山頂直下の処で、右側の樹木が朱色でマーキングされていた。北西尾根、ヘソ水の方向に誘う分岐点である。其れを見送ると、やがて人々の話し声が上から聞こえてきた。見覚えのある立入規制の看板の裏側が近づいてきて、倉岳山の頂上に、呆気なく到着した。真ん中のベンチに若い女性がひとりで食事を摂っているので、邪魔にならないようにして山名標の向こうに移動する。日曜日の正午近くである。南面の方で、数組のハイカーが腰を下ろして休憩している。富士山は、雲ひとつ無い青空の彼方に、ぽっかりと浮かんでいた。

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登山口から間も無く尾根に入って、およそ二時間半で登頂したことになるので、月尾根沢コースから比べると、随分所要時間が掛かった計算になる。しかし、倉岳山へのアプローチの選択肢が増えたのは有意義なことであった。ふと思い立って出掛けることのできる、登り甲斐のある登山コースであり、眺望もよい。未だ幾つも、倉岳山北面の尾根が残っているので、少しずつ踏破していけるだろう。

誰にも会わなかった静かな尾根歩きから、喧騒の山頂に立ち尽くしていると、続々とハイカーがやってきた。辟易とした気分で、私は穴路峠の方向に歩き出した。月尾根沢とは逆の方面に向かったのは、どういう心境に拠るものだったのか、其れは覚えていない。惰性の儘、時計廻りの鳥沢駅に足が向かったのだろうか。其の後は、空腹を覚えたので、穴路峠から直ぐに登った処に在る、天神山で休憩の食事を摂った。此の山頂も、北面の眺望が好くて、密かに気に入っている小ピークである。

桂川を渡る中央本線の鉄橋を正面にして、背後に百蔵山と扇山がジオラマのように並んでいる。標高は向こうの方が高い筈なのに、何故か見下ろしているように眺めている感覚であった。天神山のアカマツが、青空と対照的なコントラストを醸し出しながら屹立して、風景にアクセントを与えている。昨年の暮れに登ったセーメーバンから、銀嶺の大菩薩迄、果てしなく続いていく山々を眺めた。

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誰も居ない山頂で景色を満喫していると、何の前触れも無く、誰かが登って来た。其れは先程、倉岳山で食事をしていた女性のようだった。単独で歩く若い娘は、少し驚いたような顔をして、挨拶を交わし、逃げるように高畑山の方に、去って行った。私は、抑揚の無い気持ちの儘、煙草に火を点けた。

宮地山・セーメーバン「甲斐郡内登山詳細図」踏査隊と歩く。

大菩薩、小金沢連嶺から派生して、中央本線大月駅向かって南下する尾根の途中に、セーメーバンと云う変わった名前の山が在るのは充分に承知している。セーメーバンは昭文社登山地図に、括弧の括りで晴明盤と記されている。陰陽道の安倍晴明が此の周辺で没したと云う伝説に拠るのだそうだが、伝説が荒唐無稽であることに異存は無い。無いのだけれど、此の地味な山中に陰陽師の伝説が出てくる唐突さに、違和感とともに興味が湧く。

インターネットで検索すると山行記録が多数出てくる。眺望の無い、ピークなのか判別し難い、そんな山のようである。三等三角点が設置されている処は、等高線の閉じた山頂の端に記されているから、さもありなんと思う。其れでも、名前に興味は惹かれて訪れる人は多いようである。私も同様の気持ちを抱いているが、交通アクセスが悪い所為か、億劫になって此れ迄訪れたことは無い。いつかは、などと思った儘、一向に訪れようと云う発想は出てこない。其の儘、一生訪れることの無い山になりそうな気もしていたが、今回は「甲斐郡内登山詳細図」の踏査で、セーメーバンに登ることになった。

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2016/12/12
林沢戸入口バス停(7:40)---用沢---宮地山(10:30)---ショウジ峠---セーメーバン(13:00)---サクラ沢峠---高ノ丸---遅能戸バス停(15:20)

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猿橋駅発奈良子行きのバスがやってきて、集合したばかりの踏査隊メンバーが騒然となって乗り込んだ。本日の踏査は「甲斐郡内登山詳細図」西編のエリアなので、先導者は久しぶりに御一緒するkz氏である。以下、メンバーは登山詳細図世話人氏、NZ氏、女性のHMさんと私の四人が追随する。NZ氏とHMさんと云う組み合わせは、奥多摩登山詳細図西編に於ける「ハンギョウ尾根から三ツドッケ」の踏査以来で、記録を調べてみると、其れはもう二年半も前のことであった。考えてみると、kz氏と一緒に歩くのも、奥武蔵登山詳細図の踏査で、子の権現の周辺を歩いて以来であり、其れも約二年前である。自分の感覚とは違う速さで、時が経っているような気がして、内心で慄然とする。

奈良子入口から国道を外れて、小俣川に沿ってバスが勾配を上げていく。山間の車窓に、滝子山から続く連嶺が遠くに聳えている。其の、山々の上部に、朝陽が照らされて、モノトーンの風景が、徐々に赤く、滲んでいった。夜が明けたばかりのような雰囲気だが、時刻は既に午前七時を越えている。山間部の朝の遅さを、轟音を立てて走るバスの中から、眺めている。茫然としていると程無く、降車する林沢戸入口に着いた。奈良子行きバスは無人となって、走り去って行った。未だ陽の射さない山麓は凍りつくように寒い。此れは、氷点下でしょうね。世話人氏が呟いた。

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踏査のルートは、全員で宮地山に登り、大垈(おおぬた)山の手前でセーメーバン経由のグループと、金山峠経由に別れて、遅能戸(おそのうと)バス停に下山して合流する。林沢戸入口バス停から七保町林の集落に入り、宮地山へのルートは二手に別れる。南東から延びる尾根を登るのが世話人氏とNZ氏、HMさんの三人。集落を西に、用沢川に沿って末端の用沢集落迄歩き、南西から伸びる尾根に取り付き、標高715mで三人と合流するのがkz氏と私のふたりである。

民家も疎らで、人の気配の無い車道は真新しい。久しぶりに歩くkz氏と、他愛の無い会話をしながら歩を進めていくうちに程無く、集落の尽きそうな処に着いた。車道は用沢川の方角と、用沢集落の中心部に向かって旋回していく道に分岐していた。kz氏は周囲を観察してから、分岐する舗道の合間に続く石畳の道に注目した。民家の敷地に入っていくような雰囲気だが、kz氏は構わずに進入していく。軒先の道は徐々に細くなって、暗い谷筋の道が続いている。民家の途切れた処に鹿柵があり、行く先を遮っていた。

登るべき尾根は谷の右手に、眼前に在る。鹿柵の先に続く道が、谷に背を向けて尾根に向かって旋回しているのが伺えたので、私は扉を開けて進入した。えっ、入っちゃうの、とkz氏が云うので意外な気がしたが、其の儘進入した。直ぐに渡渉して道が尾根を捲くように続く。鹿柵は其の後二箇所に渡って設置されていたが、構わずに開錠して通過する。勿論通過後は施錠する。

里山の裾を捲くようにして勾配を上げると、周囲は一面の竹林となった。凍てついた冬の朝が、陽光を浴びて、徐々に穏やかな空気になってくる。地形図では起点の判然としない地点から破線が記されている此の尾根は、東側から回り込んで登ると云う形を取っていた。麓を伺える地点に墓地が在り、其処を過ぎると、徐々に道が細くなり、唐突に石を積んだ炭焼き窯の遺跡が現われて、kz氏が驚嘆の声を上げる。

窯跡がひとつのポイントとなって、其処から踏跡は切り返して西北に進路を変える。薙ぎ倒されたような竹の倒木が頻出して、踏み越えたり潜り抜けるようになり、少し難渋して歩を進めていくと、明るい尾根の上に出た。緩やかに左にカーブしながら明瞭な尾根道を上がり、林地区からの尾根が近づいてくるのが見える。時折人の声が聞こえてくるから、世話人氏のグループのものだと察せられた。尾根と登山道が合流して、ひと登りで標高715m点に到達し、世話人氏の率いる踏査隊が休憩して待っていた。

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尾根を忠実に登り続ける宮地山への道は、枯葉の敷き詰められた急勾配だった。kz氏を先頭に、HMさん、世話人氏と続き、NZ氏と私は徐々に引き離されていった。NZ氏の名誉の為に云うと、其れは決して体力不足に拠る足取りの遅れではなく、何時も慎重派である彼の背負う、過重なザックの影響であることを記しておく。其れはそうとして、此の情景は何時か見たことがある。ハンギョウ尾根から三ツドッケに登る途上で、やはり我々ふたりがHMさんと世話人氏に引き離され、よろよろとモノレール軌道に縋って、鈍重に歩き続けた。そんな記憶が甦ってくる。

屈強なクライマーであるHMさんと世話人氏、そんな彼等を引き連れて、kz氏はどんどん登っていく。其の体力を、唖然としながら、私は後方から見上げていた。しかし、其れはそう見えただけのことであったらしく、HMさんが背後に迫ってくるので、女性に負けるわけにはいかないと云う焦燥感で必死で登っていたのだと、下山後の打ち上げの席でkz氏が述懐していたのも一応記しておく。

標高850mを越えて、東からの尾根が合流すると、坂路は愈々急傾斜になった。枯葉の絨毯を踏みしめて歩く、冬ざれの尾根道に差す陽が暖かい。疎らになっていく鞘越しに、富士山の姿が現われる。手前に横切っている、セーメーバン東尾根の垣根越しに見る、富嶽風景の趣だった。

前方の空の青さが間近になって、漸く急登が終わる。左方に明瞭なピークが視界に入る。宮地山の東端に延びる尾根が分岐する、広い瘤の上に達すると、馬の置物が配置されている古びた石碑が鎮座していた。馬頭観音かと早合点しそうになるが、刻印は山神大権現である。皆で其の石碑を囲んで立ち止まり、長かった登りの終焉を味わった。

眼前の宮地山に向かって、平坦な道を西に向かって歩く。視界が開けた尾根の上は心地好く、踏査隊は疎らに間隔を空けて、ぶらぶらと歩いている。最後の勾配を登りきって、標高1112.7mの宮地山に達した。大月市製の道標には「宮路山」とあり、古びた手製道標には「宮路(地)山」と記されていた。私が携行する、2009年版の昭文社登山地図には「宮地山」とだけ記載されている。宮地山か宮路山なのか、其のどちらも正しいのか。そうなのだろうとは思うが、此の山名の所以を、先程見た山神大権現の石碑に絡めたkz氏の調べた処を、下記に引用しておく。

「この山神大権現は、宮地山の由来に深く関わっていて、山麓一帯が神社領であったことから宮(神社)の土地になっている山という意味で、宮地山と名付けられたようです。ですから宮路山の方は当て字のようです」(奥武蔵・甲斐郡内西編 登山詳細図踏査日記より)


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長い休憩をとってから、全員で稜線を西へと歩いていく。東西に広がる宮地山のピークが終わると、緩やかに下り始めて、鞍部には手製の「ショウジ峠」と記された木片が枝にぶらさがっていた。地形図にも記されている、用沢集落へと続く山道が分岐している。其処からは、大垈山、金山峠に向かって、広い尾根が続いていくが、地形図の破線は曖昧に記されて、途中で消滅している謎のルートである。破線は尾根上の顕著な小ピーク、1060m圏を北面から捲いているように記されているが、実情は南側から回り込んでピークを越えていく。徐々に広がっていく尾根道は茫洋とした風景になった。

稜線が寸断された鞍部に送電鉄塔が出現して、其れを越えて急勾配を登りきった処に道標が立っていた。大垈山から南東に延びる尾根の端で、此処から南下して、いよいよセーメーバンに向かう。金山峠方面に向かうHMさん、世話人氏と別れたので、三人になった踏査隊が細長い痩せた尾根の上を、快調に歩いていく。左方に、先程迄歩いていた宮地山の稜線の全容が判然としてくる。前方には相変わらずの鞘越しだが、富士山の上半身がこちらを覗いているように、遠くに聳えているのが見える。

岩が剥き出しになった細尾根に、何時の間にか送電線が併行するようにして続いている。先程通過した鉄塔から延びてきたもので、セーメーバンを経て、稚児落としに至るまで、寄り添うようにして辿る送電線である。踏査の過程で、送電鉄塔が頻々に現われるから、其の都度kz氏とNZ氏が記録に忙しい。

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緩やかに下降して、少し登り返して樹林の覆う道を行くと、程無く平坦な広がりに達した。噂のセーメーバン山頂である。下馬評通りの、眺望の利かない頂上であった。等高線が広範囲に閉じているピークの南端に設置された三角点の位置は、下山の途上と云う所為もあり、登頂したと云う実感が余り湧かない。大月から登ってくると、また違う感興を覚えるのかもしれない。

其れでも、不思議な山名のセーメーバンに到達したと云うことで、私は少し高揚した気分で大休憩をふたりに要求した。遅い昼食を摂り、山名板の前で記念写真を撮って貰った。大月市製の「セーメーバン山頂」の他に、手製のものがふたつ、針金で括られている。ひとつは茶色の木板に「セーメーバン」で、其の下に青い鉄板で「セイメイバン 1006M」などと書いてある。出自の判然としない名前の山名標が、音引きの是非を問うような風情で、二種類が綺麗に並んで括られているから、訳が判らない。

もう気が済んだか、と云うような感じでkz氏が私を見ているので、小さく頷いた。そうして踏査が再開された。セーメーバンを立ち去り、足取りはもう下山の徒になっている。サクラ沢峠で、NZ氏が下山ルートの踏査で捲き道に向かう。なんだか心細いなあ、と云いながら脆弱なトラバース道に足を踏み入れたNZ氏が、何度か我々の方に振り返った。転ぶなよう、と、kz氏が心配そうに叫んだ。

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サクラ沢峠からふたたび登り返して標高780m圏の高ノ丸に、そして尾根を忠実に下ると、やがて林道が交差するトズラ峠に到達した。此処で私も浅利川の方に下山する道を踏査するので、尾根から外れることになる。kz氏は此の儘尾根を歩き続けて、稚児落とし迄歩いてから下山するロングコースである。トズラ峠から南方を眺めると、立ち塞がるようにして標高713.5mの笹平が横たわっている。

あれを越えるのはきついよお。久しぶりに聞くkz氏のぼやき声に可笑しくなって、じゃあ一緒に下山しますか、と、わざと云ってみる。此処で帰ったら、また来なくちゃいけないよお、と云って、笑いながら、kz氏は林道から山に分け入っていった。そんな彼の後ろ姿を暫く眺めてから、私は煙草に火を点ける。そうして、トズラ峠を、静寂が支配していった。

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追記

トズラ峠から林道を下り、ヘアピンカーブする箇所から支尾根に乗った。踏跡は途中で消えたので、尾根上の藪を掻き分けながら下っていくと、廃れた林道に降り立った。其の儘倒木の散乱する道をジグザグに下って谷筋に至り、朽ちた木橋を渡って沢沿いに歩いて、浅利川に併行する県道512号に出た。遅能戸バス停は直ぐ其処で、NZ氏が手を振っている。金山鉱泉経由のふたりも既に到着していて、予定のバス時刻迄、ほんの数分前に到着したことを知った。大月駅前の飲食店で打ち上げをする。kz氏は、我々よりも一時間以上時間を掛けて下山して合流し、久しぶりの愉しい酒宴を過ごした。

甲東不老山・鶴島金剛山 「甲斐郡内登山詳細図」踏査隊と歩く。

奥武蔵から丹沢に至るエリアを網羅するまでになった「登山詳細図」シリーズ。今度はいよいよ山梨県の中央本線沿線を機軸とする周辺図を刊行予定とのことである。私は2016年の6月に、倉岳山の踏査に参加、7月には笛吹(うずしき)バス停から丸山に登る踏査に同行した。夏山シーズンになって御無沙汰していたが、秋口になってふたたび参加できるようになった。


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2016/10/7
不老下バス停(9:10)---甲東不老山---高指山---和見峠---甲東小学校跡((14:00)

不老下行きのバスに乗る為に、上野原駅北口のバス転回所に出た。富士急山梨バスは、此の上野原周辺のハイキングコースの普及に熱心で、ベテラン然とした職員は、ハイカーに何か訊かれると、バスの誘導をそっちのけで説明を始めるから、狭い駅前で転回するバスが建物やガードレールにぶつからないか心配になるほどである。

登山詳細図世話人氏は、踏査で何度も上野原に来ているので、ベテラン職員氏とは既知のようで、なにやら話をしている。そのうちにJR上野原駅の駅長がやってきて、周辺ハイキングの普及に就いての話題に加わった。鉄道会社とバス会社が結託して、ハイカー人口の加増に尽力しているのは結構なことである。

午前中には二便しか無い、不老下行きのバスは、案の定閑散としていた。私と世話人氏の他は一名の乗客が居るだけで、其れも途中で下車していった。不老下は、私が山登りを始めて間もない頃に訪れたことがある。其の時は、友人の先導に唯々諾々と従った結果、未明の四方津駅から延々と歩かされて、其の遠さに驚愕したことを記憶している。

一般コースは金比羅大権現の尾根登りであるが、今回の踏査は、不老山の東南から、桑久保と云う集落に落ちていく尾根を歩くことになった。地形図に拠ると、桑久保西区の集落から、谷筋から二本の登山道が不老山南東尾根に延びているが、現状は全く違う行程だった。尾根の東側の畑地から登り、尾根に乗って恩石標迄の直登が終わると、其処からは急激な勾配をジグザグに登っていった。周囲は植林帯で全く眺望が利かない。尾根の分岐する地点で、漸く自然林の立ち並ぶ雰囲気となった。ひと登りで甲東不老山に登頂する。頂上からは中央道の談合坂SAを直ぐ下に見て、其の向こうにコモアしおつの住宅地、更に背景となった高柄の稜線、そして遠くに丹沢の峰々が薄っすらと聳える良景が広がっていた。

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時刻は正午で、麓からチャイムの音が聞こえてきた。金比羅大権現経由で登っている世話人氏は、既に高指山、ゴウド山に向かっている筈で、私とは漠然と高指山で落ち合うことになっている。不老山で食事でもしてゆっくり休みたい気分だったが、此の儘では先方を待たせてしまうこと必至である。不老山を北に進んで、少しの勾配を下ってからは平坦な稜線になったので、私は足早にロードメジャーを転がしながら歩いた。

案の定、高指山に到達すると世話人氏が待っていた。手間取った経緯を説明しつつ軽い食事を摂り、今度は和見に向かって延びる東尾根を辿る。歩きやすいなだらかな道だったが、尾根の分岐する箇所は広くて、一見すると北東に迷い込んでしまいそうで要注意である。踏路は急激に南下して、抉れた登山道には倒木が目立つ。途中で尾根をトラバースしながら蛇行して下ると、林道に突き当たって、直ぐに和見峠に着いた。

瀬淵山に向かう世話人氏と別れて、あとは林道を下るだけの踏査となった私は、早々に桑久保集落に戻った。甲東小学校は廃校になって更地になっていた。校門跡の向かいにある雑貨店も、営業しているのかどうか定かではない。其の軒先のベンチで休憩して、インスタントラーメンを茹でて食べたりして時間を潰すが、世話人氏は一向に戻らないので、全身が冷えて辛くなってきた。メールで先に行くと伝えて、バスの走る県道30号を歩いた。和見入口バス手を越えた処で世話人氏から連絡が入り、少し先のバス停で待つ。世話人氏と再会して、間もなく上野原駅行きのバスが到着したのは僥倖だった。


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2016/11/17
藤野駅(8:50)---石楯尾神社---石楯山---葛原神社---名倉金剛山---鶴島金剛山---靏島古峯神社---湖南団地入口バス停---上野原駅(15:00)

中央本線藤野駅に下車すると云えば、陣場山に向かうことが必定であったが、此のたび初めて南側の低山を歩くことになった。藤野町(相模原市緑区)は、芸術振興の名目で山に巨大オブジェを設置したりしているが、個人的には美観を損ねているだけのように思っていて、此れ迄足を踏み入れたことがない。登山詳細図に於いては、「芸術の道エリア」と銘打っている。踏査の機会が無ければおそらく足が向かない地域だな、などと思いながら参加した。

相模川に架かる弁天橋を渡って、世話人氏、UDさんと別れ、ひとり車道を歩いていく。周辺は芸術の道の手製道標が充実していて、気軽にハイキングできる環境が整備されている。境川橋に向かう車道から分岐して、静まり返った舗装路を辿り、石楯尾神社の先から登山道が始まっていた。木段を登り始めて十数分で、呆気なく小高い山頂に着く。標高270mの石楯山は展望台にベンチが多数設置されていて、眺望も優れていた。

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周縁の尾根を踏査して、東に延びる尾根を下りきると車道に突き当たり、其の儘シュタイナー教育の学校を経て南進する。登山地図では、此の周辺でひときわ目立って記載されている、高倉山、天神峠、金剛山の山稜を目指す。今回の私が受け持ったコースは、実線ルートではない、葛原(とづらはら)の集落から名倉金剛山を目指す尾根であった。地形図の破線に沿って登り口の見当を付けて、山に入ったのだが、やがて谷筋に突き当たり踏み跡が消えた。後戻りするには随分奥深い処迄来てしまったので、無理やりに尾根を攀じ登って、稜線の鞍部に到達した。低山ならではの強行突破であった。

鞍部には公的な道標が在り、私が登って来た方角への指針も示されているが、「私有地」と記されている。立派な道標の行く先が私有地では、地図に載せていいものか判断がつきかねるが、しっかりした登山道が在るので下っていった。送電鉄塔の目印も判りやすい登山道の降りついた先は、一面の畑地であった。私有地とはよく云ったものである。畑の区画された道を其の儘歩いていくと農家の入口の前を通って舗装路に出た。葛原の車道に出た処でふたたび引き返して、山道を登った。此れも踏査ならではの山歩きである。

稜線の鞍部に戻り、西に向かって登ると、呆気なく名倉金剛山に登頂する。祠と山名標の在る処は、狭い岩場の道の途上のような処だった。南側の眺望があり、眼下にふじの温泉病院が建っている。此れから西に連なる尾根を辿るが、其の行き着く先にも顕著なピークがある。地元で呼称されているのかどうか定かではないが、其処も金剛山と呼ばれている。名倉金剛山に対して、鶴島金剛山と云うことになっている。標高491mなので、名倉金剛山よりも高い。

細長い山頂域から、葛原神社方面の道標を越えて、稜線を西に歩いていく。程無く神奈川と山梨の県境を越えた筈である。心地好い細尾根歩きの果てに、急勾配が現われる。鶴島金剛山直下は、激しい傾斜だったが、真新しいトラロープが張ってあった。既存の登山地図では記載されていない山であるが、実際は整備されたコースが存在していたことになる。

疎らに林立する樹木は程よく紅葉していた。其の鞘越しに、相模川の向こうに、山並みが広がって、遠くに顕著な三角錐の峯が浮かんでいる。奥多摩の御前山だろうか。鶴島金剛山は、対になった石の傍らに祠の在る、静かな山頂だった。此処で随分長い休憩を取り、カップ麺を作って食した。登山地図に無い山は、麓の風景を直ぐ其処に望めるのに、何処までも静寂の儘であった。

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西北の方角に見当を付けて、急降下するロープの張られた斜面を下った。こちらも、比較的新しいトラロープである。距離は大したことは無いが、鶴島金剛山の直下は、何処からも厳しい登りを強いられるようであった。緩やかな傾斜になって軽快に下っていくと、尾根の分岐点がどちらでもどうぞと云っているような感じで道になっている。右に、右にと念じながら下り、やがて薄暗い尾根のトラバース道になり、古色蒼然とした靏島古峯神社に降り立った。

眼前に在る住宅地から踵を返すようにして、舗装路を歩いていく。蛇行する道は鶴島金剛山から延びる尾根の裾を舐めるようにして続き、やがてトラックが疾駆する県道35号に合流した。此処が湖南団地入口と云うバス停であった。無生野から上野原駅に向かうバスがある筈も無く、其の儘車道を延々と歩いた。上野原駅南口の階段が、疲れた身体に随分堪えた。

大菩薩嶺・小金沢連嶺(後篇)

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小金沢山の夜は静かに更けていった。握り飯をひとつ消費して、あとはインスタント麺の塊りを砕いて、其れをつまみながらウヰスキーを飲んだ。そうしてシュラフに潜り込んで本を読んでいたら、たちまち睡魔が襲ってきた。だから、携帯焜炉を忘れてきたと云う惨禍も、思った程では無かったことのように思えた。深夜に目覚め、テントから這い出て、山頂東側のピークから夜景を眺める。煌々と光る街明かりのようなものは、旧青梅街道の辺りだろうか。視線を転じると、富士山は、夜の暗い壁に描かれているように、静かに立っている。富士は裾野に向かって、グラデーションが掛かったように明るくなっている。静寂に包まれて広がる薄い闇の景色を、時折、甲高い鹿の鳴き声が切り裂く。山小屋も何も無い山頂で幕営している、と云う荒涼とした実感が、其れで湧きあがってくる。

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2015/10/19

小金沢山(7:10)---牛奥ノ雁ヶ腹摺山(7:40)---黒岳(9:20)---湯ノ沢峠---大蔵高丸(11:15)---ハマイバ丸(11:45)---大谷ヶ丸(13:15)---鎮西ヶ池(14:30)---道証地蔵---笹子駅(17:10)

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夜明け前のアラームに目覚めて、のんびりと身支度を始めるうちに、外が緋色に明るくなってきた。小金沢山から、地平線の雲海を紅く染める御来光を眺める。昨日、草原地の狼平ではなく、山頂迄歩いて幕営した甲斐が在ったと云うものである。満悦の心持ちになった途端、此処で珈琲を飲むことが出来無いと云うのが残念に思われ始めたから、我儘なものである。朝の七時になっても、奥深い小金沢山に人の気配は無い。私は、すっかり陽が昇った早朝の山頂から、ゆっくりと出発した。

登山道は下ってから直ぐに登り返し、細長いピークを縦断する。其の南端に出て、富士山が正面に現われ、甲州と御坂山塊の眺望が一挙に広がる。踏路は笹原に刻まれ続いていて、登山地図に記された、鹿の通る細い道が分岐しているのが時折現われる。紅葉が始まりつつある樹木や、立ち枯れたような老木が点在する、心地好く緩やかに下っていく道が、やがて登りになっていき、木立の向こうに富士山が見えると、牛奥ノ雁ヶ腹摺山の山頂であった。昨日の小金沢山と同じで、唐突に山頂に立つ、と云う構図の山歩きである。

牛奥ノ雁ヶ腹摺山は南側に眺望の広がる山頂で、平坦な地面に事欠かない幕営の適地だった。つい先程の、小金沢山から眺めた御来光のことも忘れて、此処でテントを張っていたら、と思う程に心地の好い場所だった。後ろ髪を引かれるような心持ちで、ふたたび歩き始める。行く手には明るい鞍部と、其の向こうに黒い塊りの山々が在る。小金沢連嶺のアップダウンを、俯瞰して眺めている。急傾斜の笹原の道を下り、高齢の単独ハイカーが登ってくるのと擦れ違った。下りきった鞍部も笹原で、地図上で、賽の河原と記された処は、獣のヌタ場のようなものが散見している。其処から少しの急登で、ふたたび唐突に眺望の広がる場所に出たと思ったら川胡桃沢ノ頭で、此処も枯芒の似合う、富士山の眺めの好いピークであった。

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小金沢連嶺の地形は此処から少し蛇行する。南東に曲がりながら、川胡桃沢ノ頭から続く平坦な細尾根を歩く。のんびりとした此れ迄の風景から転じて、断崖状に切り立つ石小屋沢の谷側を覗き、時折現われる露岩に遮られながら歩く。少し下った先が樹林に囲まれた鞍部で、大峠からの登山道と合流する地点でもある。程なく到着した黒岳は眺望の無い山頂で、年配のふたり組が休憩していた。

山頂から南へ下ると、山梨の森林百選、黒岳の広葉樹林、の看板の在る斜面で、落葉の敷き詰められた道に、黄葉の樹林が立ち並ぶ明るい場所であった。心地好い気分でふたたび登りの勾配に差し掛かると、直ぐに眺望の広がるピークに達する。白谷丸は、此れも幕営の適地で、茅戸の平原に緩やかな丘が盛り上がる向こうに、富士山が眺めることが出来る。尤も、私が到着した頃は、既に霧が湧き上がり始めて、間もなく富士の姿は消えていった。

白谷丸から稜線は南西に向かう。湯ノ沢が突き上げる南東の斜面を避けながら、急激に下り続けて、湯ノ沢峠に降り立つ。小金沢連嶺の通称は此処迄である。避難小屋には立ち寄らず、其の儘南下を続けた。大蔵高丸迄、登山道は見晴らしのよい草原地帯を辿っている。湯ノ沢峠のお花畑、の道標が在り、自家用車で気軽に訪れることのできる山域なので、観光客を対象に、登山道から外れないよう、ロープで両側を仕切っているのであろう。仕切り線は、大蔵高丸の山頂迄続いていた。

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東側の山塊が程近く見える。今回の出発前には、気力が漲るようであれば、大峠に下り、雁ヶ腹摺山、姥子山を経由して、セーメーバンを経て、稚児落とし迄、歩いていこうか、とも考えていた。其の意欲は携帯焜炉忘失が発覚した時点で、もう一泊するのは断念したから、順当に笹子駅迄歩くことになった。其の、雁ヶ腹摺山が、眼前に聳えている。何時か、登ることがあるだろう。そう思いながら、大蔵高丸から延々と続く草原の道を歩いている。徐々に、紅葉が映え渡るような標高に降りてきているようで、草原の中に、鮮やかな赤が点在するようになった。ハマイバ丸は緩やかに続いていた稜線の尽きる処に在るピークで、紅葉の額縁に囲まれた富士が眺められる。

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文句のつけようの無い富士山の眺望と、気持ちの好い草原地帯が続いて、やがて其れにも飽きてきた。そんな不埒な想念に応えてくれるかのように、其の後は眺望に恵まれることが殆ど無い儘、帰路へと就くことになった。大谷ヶ丸の、樹林に遮られたピークで、大鹿峠に続く尾根を歩いて甲斐大和駅に下山するか、すみ沢に沿って笹子駅に向かうか迷ったのだが、結局は笹子駅を目指すと云う、当初の目的を完遂しようと決めた。鎮西ヶ池迄到達するのに、想像以上の時間が掛かり、久しぶりに歩く滝子山西側を流れる谷間の道は、途中の迂回路が厳しく、疲労の極に達した処で、漸く舗道に辿り着いた。

笹子駅迄の道程は何度も歩いたものだが、其の遠さに辟易した。空腹を覚えて、町に下りたら、何か食べたい、そう思うが、笹子駅の周辺には、食堂の類は無さそうである。今日は握り飯ひとつに、非常食を少し食べただけであるが、昨晩齧っていたインスタント麺が、余り消化がよくないのか、殆ど空腹感を覚えなかった。途中の何処かで蕎麦でも食べようか、早く帰って風呂に入ろうか、薄暮が訪れようとしている吉久保集落の静かな道を、私は、薄ぼんやりとした意識で、歩き続けていた。

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大菩薩嶺・小金沢連嶺(前篇)

大菩薩連嶺は北の黒川鶏冠山に端を発し、南の滝子山に至る、と書かれている場合が多いようだが、稜線は遥か北方から続く奥秩父山地に属している。大菩薩峠から南に位置する石丸峠より、湯ノ沢峠に至る稜線を小金沢連嶺と呼ぶから、連嶺の区分は曖昧に名称を付されているようにも感じられる。未踏の頂きである大菩薩嶺から、中央本線の笹子駅迄、途中でテントを張って一泊しながら、秀麗富岳を眺めながら、歩いてみようと思う。

2015年の山行は、此処数年の中で、著しく消極的な結果の儘、終焉を迎えようとしている。なによりも、北アルプスの幕営行が出来なかったことが、心の空虚を支配している。今年の北アルプスは、結局焼岳の夜行日帰りのみになってしまった。其れでも、何とかならないものかと云う気持ちで、10月の下旬に続けて休暇を取ったが、北アに脚を踏み入れるには、季節的に少し遅すぎるのではないか、と云う不安が纏わりついて離れなかった。其れで、山中で一泊する行程を考えて、大菩薩連嶺が浮上した。其処で個人的な懊悩が湧出する。

よもや「百名山完登を目指してます!」と云う程の輩が、深田久弥『日本百名山』を読んでいない、なんてことは無いでしょうね。屈託の無いハイカーに対して、私は内心で、皮肉を呟くのであるが、其れでは『大菩薩峠』はどうするのだ、と云われると、どうしようもない。読んだことがない。だから、大菩薩嶺に登ることに、少々の躊躇があって、其の儘になっていた。

「フリー百科事典ウィキペディア」の大菩薩峠を覗いてみる。其の解説によると、

「幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった」

と云う、幻想小説的なことが書いてある。続いて、あらすじの項を拾い読みしてみると、

「甲州裏街道(青梅街道)の大菩薩峠で、一人の老巡礼が武士机竜之助に意味もなく斬殺される」「与八にかどわかさせて、お浜の操を犯してしまう。あげくに竜之助は試合で文之丞を惨殺」「果し状を受け取った竜之助は、悪縁のお浜を諍いの末に切り捨て、兵馬との試合をすっぽかし、新選組に居場所を求めて京都へ向かう。しかし、竜之助は、近藤と芹沢の争いで揺れる新選組をよそに、遊郭の里島原で狂乱し、またも失踪する」

と、凡そ甲州の山で繰り広げられる朴訥とした物語、と云う訳では無さそうで、此れから出立する大菩薩嶺の山行に、格別の関連が在るとは思えない。だから此の問題は据え置いて、出掛けてみようと思う。大菩薩峠は本来、江戸と甲斐を結ぶ青梅街道の難所で、丹波山村から続く「丹波大菩薩道」の尾根を登り詰めた処に在る、妙見ノ頭の直下の箇所を指していたと云う。現在は賽の河原と呼ばれ、避難小屋が建っている処である。今、大菩薩峠と云うのは、くだんの丹波大菩薩道から、妙見ノ頭を捲いて、南の鞍部に辿り着いた処になっている。峠の実情としては適切な場所に設定されているように思う。其の大菩薩峠に「介山荘」が在るので、中里介山の小説『大菩薩峠』を読んでいないことが気に掛かってしまっていたが、もうどうでもよい。

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2015/10/18

大菩薩峠登山口バス停(8:20)---丸川峠(11:00)---大菩薩嶺(13:00)---大菩薩峠---石丸峠(14:50)---小金沢山(16:20)

早朝の中央本線普通電車に乗り続けて、塩山駅のプラットホームに降りると、夥しい数のハイカーが溢れんばかりで、面喰うと同時に、登山口に向かうバスに乗車できるのだろうかと、恐怖感を覚えた。其れは駅前広場に出ると、全くの杞憂に終わった。殆どの人が、乗り合いタクシーを予約しているようで、裂石に向かうバスに乗車したのは、五、六人程度であった。そうなると却って、身勝手な想念であるが、路線バスの命運が心配になってくる。裂石から、上日川峠行きのマイクロバスを接続させたら利用者が増えるのではないか、そんなことを思案しているうちに、勾配を上げた車窓から、山里の風景が広がった。私は漸く虚ろな気分から、山登りを始めるのだ、と云う高揚感に包まれていった。

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終点の大菩薩峠登山口バス停は、番屋茶屋の敷地内で、高齢のハイカーたちが中で談笑している。私は所在が無い気持ちの儘、車道を歩いた先の公衆トイレに立ち寄り、身支度を整える。出発して、舗装路の坂を歩いていると、自家用車が頻々に追い越していく。今日は「甲州フルーツマラソン大会」の当日で、参加者関係の車が上日川峠に向かっているものと思われた。私は幕営行のザック、クレッタルムーセンHuginに、今日も荷物を膨らませて背負い、歩いている。不快な自家用車の気配から逃れるために、早く丸川峠の分岐に到着したい。裂石止まりのバスは、やはり実情に添ってはいないと云う実感を、荷物とともに背負いながら、私は歩き続けた。

丸川峠分岐の駐車場に到着すると、車が溢れんばかりに並んでいる。大菩薩嶺に登るために、北東方向を巡って丸川峠経由のルートを辿ることにしたのは、上日川峠の喧騒を避けると云う漠然とした予感があったからで、其れは的を得た結果になったようであった。林道が心細いような感じでみそぎ沢に沿って辿っている。山間の、陽が当たらない、落葉が敷き詰められた道を、黙々と歩く。呼吸するたびに、冷たい空気で体内が満たされていく。徐々に勾配を上げた林道に、木漏れ日が差し込んでくる頃、右手の尾根に向かって、ジグザグに登り詰める踏路が分岐していた。

大菩薩連嶺に繋がる支尾根に漸く乗り上げて、自然林の立ち並ぶ登山道を歩く。紅葉は疎らに始まったばかりのようで、細尾根から谷を見渡せるような箇所で、時折赤く染まった木々が散見される。下山してくる人々は、小屋泊まりなのであろうか。ふた組と擦れ違った。眺望の利かない登りの果てに、少し疲労感を覚えた頃だった。周囲は黄葉の木々が陽光に映えて、明るさを増していった。尾根道が平坦になって、青空が広がる。切り拓かれた枯芒の道が辿っていく先に、丸川峠の山小屋が在った。

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尾根が緩衝し合って平坦になった場所に、赤く色づいた木々が点在している。晴天で風も無い。丸川荘の裏手に在る木製ベンチで、私は紫煙を燻らして休憩する。小学生くらいの子供を連れた家族が、のんびりと食事を摂っている。時の流れが判らなくなるような心地好い空間であったが、間もなく十人近い数のグループが到着して、雰囲気は台無しになった。尤も、大菩薩の日曜日であるから、此れも止むを得ない。私は、銜え煙草の儘、出発の準備を始める。大人数のグループの、禍々しい視線を感じたような気がした。

山の上の箱庭のような丸川峠を、時折振り返って眺めながら、大菩薩嶺に至る主稜線を登っていく。登山道は、支尾根が分岐する小ピークを丹念に捲いて辿っていた。トラバースは北面が多く、周囲の光景は一転して寒々しいものに変わっていく。針葉樹林帯に入り、眺望の無い儘、頂上直下の急勾配を避けるようにして、登山道がカーブを描きながら続いていた。相変わらずの樹林帯が周囲を覆う中を、登り詰めた処が大菩薩嶺の頂上であった。其の標柱の周りに、大勢の人々が屯している。唖然としながら其れを眺めつつ、歩を進めていった。

大菩薩嶺山頂は、想像以上に何の変哲も無い平坦地で、夥しい人々が食事の休憩を摂っている。団体旅行の旗を持ったガイドに連れられて登頂した人々が、順番待ちをして記念写真を撮影している。一刻も早く立ち去りたくなるような場所だったが、空腹に抗えず、山頂の片隅に座り込み、食事をすることにした。其処で重大な過失が判明した。

チタニウム製のカップに水を注ぎ、焜炉を組み立てようとして背筋が冷たくなった。カセットガスの缶は在るが、肝心のバーナー部分が無い。家庭用ガス缶を使用できるので重宝している、SOTO製ST-310を持ってきた積もりだったが忘れてきてしまった。湯を沸かせないので、握り飯だけを頬張る。足りないので非常食の菓子パンも食べてしまう。賑々しい周囲の人々に気を遣いながら、煙草に火を点ける。全身が弛緩していくのが判る。紫煙を吐き出しながら、樹林に囲まれた山頂の空を見上げようとするが、木々に遮られて、空は見えない。

現在時刻を確認する。午後一時を過ぎて間もない。此奴等は、そう思いながら周囲を見渡す。タクシーを雇って、あるいは甲斐大和駅行きのバスに乗って帰るのであろう。私は、裂石に戻って此の儘帰宅すると云う計画変更に、全く違和感を抱かなかった。携帯焜炉が無い儘、テント泊を敢行できる訳が無いと、瞬時に断定していた。日本百名山、大菩薩嶺。大荷物を背負って、丸川峠経由の長い道のりだった。歩荷の訓練とでも結論づけて、大菩薩、小金沢連嶺の縦走は幻と化し、此の儘下山する他に術は無し、其れも止むを得ない、そう考えた。

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相変わらずの喧騒が続く大菩薩嶺から南下して、間もなく広大な眺望が現われた。人造の大菩薩湖を手前に、甲州の市街地が、霞んだ儘地平線迄続いて広がっているのが見渡せる。雷岩の周囲には、先程とは比較にならない程に夥しい数のハイカーが蠢いていた。若い男女のグループが多い。嬌声が混淆して眺めのよい稜線を漂っている。ハイカーが押し寄せて止まない、良景の稜線が、介山荘迄続いているのであろう。岩場をパスしながら、立ち止まって風景を眺める意欲も無く、私は歩き続けていた。詰まらない処に来てしまった。そんな想念で、何かに圧迫されているような心持ちで、脚を繰り出していくばかりだった。

歩いているうちに、私の内面に異様な憤りが湧いてきた。今年は北アのテント泊が出来なかった。其れで思い切って連休を取得し、遂に槍ヶ岳に登ろう、などと考えていた挙句に、十月下旬の北アルプスの幕営に不安が募り、計画を断念した。仕様が無いから、大菩薩連嶺でも歩くか、と思い立ち、結局は怠惰の代償を支払うようにして日帰りで下山する。そんな自分に怒りが湧いてきた。私は歩きながら憤怒に駆られた末に、此の儘連嶺を歩き続けて、何処かに幕営して縦走を敢行する決断をしていた。食料は握り飯が二個、そしてインスタント麺が三個。湯を沸かす為の水は有り余る程に在る。飢えに苦しむことは無い。温かいラーメンと、温かい珈琲を断念すれば済むことなのだと思い直したのだった。

踏路が緩やかな下りになって、眼下に整地された広場が現われた。いにしえの大菩薩峠、現在は賽の河原となっている、大菩薩峠避難小屋が在る箇所だった。広場の中央に、ケルンなどとは呼べない程、堆(うずたか)く石の山が詰まれている。三途の川が虚空に向かって、直ぐ其処に漂っているかのように。其の畔に、私は腰を下ろした。避難小屋の前を、カラフルな衣装の若いハイカーたちが、おしゃべりに余念が無い風で、通り過ぎていく。避難小屋は、誰でも泊まっていいんだよね。若い男性が云う。でも、セキュリティが心配ね。若い娘が真面目な口調で云った。私は、茫然とした儘、紫煙を燻らせて休憩していた。

親不知ノ頭、と記された道標の瘤を越えて、介山荘を見おろす地点に立った。崖地は草に覆われ、背後に熊沢山のピークが盛り上がっている。遠目に眺めると、まさに峠の茶屋と云う風情だった。大菩薩峠、の古びた標柱が立つ介山荘に到達する。先程迄の情景から転じて、鞍部は霧に覆われていた。多くの人が行き交う光景は、現在はハイカーたちなのだが、昔日の交易路の要衝を想像させる風情も併せ持っていた。尤も、私は云い様の無い寂寥感の儘、足早に大菩薩峠を背にして、ひと気の無い山道に向かって歩き始めたのだった。

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鬱蒼とした大菩薩峠南側の小ピークへと登り続ける。誰も来ないと思っていたが、数人と擦れ違った。樹林帯が途切れて南面の眺望が開き始めた頃、熊沢山と記された道標が現われる。笹薮に挟まれた登山道を斜めに下って、一挙に眺望が広がる。熊笹の高原が広がる石丸峠の、其の奥に山々が連なっている。小金沢連嶺は、裾から湧きあがる霧を纏いながら、傾きかけた緋色の陽射しを浴びて佇立していた。

石丸沢の詰め上げた峠から、無機質にさえ感じる静けさの人造湖を眺めつつ、小金沢連嶺の稜線を歩いていく。直ぐに乗り上げる瘤のピークから、徐々に奥多摩方面に連なる尾根が見えてくる。牛ノ寝通の分岐を越え、1957mピークで小休止する。時刻は午後三時を過ぎていた。今夜の寝床をどうするか。考え始めるべき時刻だった。漠然と、今回の行程を考えて、小金沢山、牛奥ノ雁ヶ腹摺山、或いは其のふたつの山の中間に、平坦地が在れば、テントを張ろうと考えていた。しかし、気分としては、もう適地が在れば張ってもよいだろうと、思い始めていた。石丸峠を過ぎてからは、誰とも出会っていない。私は、漸く孤独感を愉悦のように、感じ始めていた。

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小ピークを下りきって、広々とした笹原に到達した。地図上に記されている、狼平であった。作業道が分かれている地点に道標が立っている。其の傍らに、テントを張ったような跡が在った。私は、暫し其の場に立ち尽くして黙考した。幕営に申し分の無い場所であった。空を見上げる。青空が広がる草地に佇んでいると、静寂の中から風の音が徐々に、聞こえ始める。私の心裡が、何故だか不安に転じてくるのを感じた。狼平と云うネーミングの所為かな、などとも考えたが、だだっ広い処にひとりで幕営するのが、なんとも心細いように思えてきたのであった。

其れで、ふたたび歩き始めた。脚は既に疲れきっていて、緩やかな尾根登りが、やるせなさの気分が入り混じって辛く思えてくる。縦に細長い尾根を登り詰めて、樹林帯に突入していく。周囲は薄暗く、此の儘陽が暮れてしまうのではないかと思っていたら、唐突に小金沢山の頂上に辿り着いた。山頂は南と東の方角に眺望が開けていた。黄昏の陽差しが山名板を照らしていたが、其の明るさは、間もなく山裾に沈んでいった。

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狭い山頂だったが、標柱の横になんとかテントを張った。全ての荷を下ろして、ウヰスキーの入ったスキットルを手にして、落日とは反対側の、奥多摩方面の黄昏を眺める。雲海が徐々に広がり、長峰の連なりや、雁ヶ腹摺山が、絶海の孤島のように浮かんでいる。薄暮に地平線が紅く染まっていく。雲海が激しく移動して、南の空の向こうに、富士山が現われた。小金沢山からの眺望は、夜の境界に近づいていくほどに、明媚となっていくようであった。

断章的に。霧ケ峰・松ノ木沢ノ頭・社山・2015年迄の山行記録

昨年(2015)の夏に八ヶ岳を初めて訪問した。赤岳からの眺望、久しぶりのテント泊、順調な行程で予定通り下山した。其れで初秋に差し掛かった頃、次の山行に向けて、意気揚々と計画を練る積もりだったが、日常の諸事情に阻まれて、思い通りにならない。とうとう北アに行くことが出来なかった。其れでどうしたかと云うと、全く山に登らなかった訳でもなかった。此れ迄考えてはいたものの未訪問だった白毛門や、大菩薩の連嶺を縦断した経緯などは、個人的には特筆に価するもののように思えるが、何かに打ちひしがれたように書けなくなっていた。思い返すと、白毛門に到達できず、手前の松ノ木沢ノ頭で引き返した時から意欲の減退が起こったようにも思える。18切符の残りを消化しようとして中途半端に遠くへ出掛けていて、出掛けると云う動機の根幹が曖昧になっていったような気もする。そしていつの間にか一年が終わっていった。だから情緒的な感懐は記すことができないのだけれども、自分の足跡は記録しておかねば、さらに曖昧になってしまうので、断片的に記す。



Kirigamine

2015/8/23
コロボックルヒュッテ(10:30)---車山乗越---山彦谷南の耳---山彦谷北の耳---ゼブラ山(12:00)---奥霧小屋---蝶々深山(13:30)---車山---コロボックルヒュッテ(15:00)

八ヶ岳から戻って一週間後に、ふたたび茅野駅に降り立った。白樺湖、霧ケ峰に向かうバスは、全く持って観光客しか乗っていない。其の数も疎らで、ビーナスラインには自家用車で行く輩が圧倒的多数なのだと実感する。車山高原から最初に車山を目指すか、蝶々深山の方から巡って最後に車山に登るか。どちらでもよいのだけれど後者に決めた。
バスをコロボックルヒュッテ直下の車山バス停で下車して、比較的人気の少ない車山湿原の方角に下っていく。茅野駅からバスに乗って走り出した頃は真夏の陽射しが照りつける晴天だったが、白樺湖を半周する頃には、周囲は霧に包まれていた。文字通りの霧ケ峰の木道を歩き、車山乗越からゼブラ山方面に入ると、人影は消えた。蝶々深山が東側に尾根を伸ばす先にある山彦谷をなぞるようにして歩く。殆ど人と擦れ違わなかったのに、ゼブラ山の広場には大勢の人が昼食を摂って休憩していて少し驚いた。 霧に包まれた高原は幽玄の趣もあったが、長く続くと退屈した。
八島ヶ原湿原の手前で折り返すようにして、蝶々深山に歩を進め、時折霧が途切れて晴れそうになるが其れも束の間だった。車山乗越に戻って、今度は車山に向かって階段が整備された踏路を登った。八の字にコースを描いて、霧ケ峰の最高峰、車山に到着した頃は鉛色の霧に包まれていた。晴れていれば、歩いてきた山彦谷の両耳から蝶々深山を見渡す良景であろうと思われたが、何も見えない。溜息混じりに下山する途中で、ビーナスラインを見下ろすようになって、霧が嘘のように晴れた。素晴らしい高原の眺望は、何処か人工的で余所余所しい。帰りのバスの時刻迄、ドライブインの食堂で生麦酒を飲んで過ごした。



Shiragamon

2015/9/6
土合駅(9:00)---土合橋---桧のウロ---松ノ木沢ノ頭---撤退---土合駅(14:50)

未明の出立で水上に到達し、上越線の電車に乗り換えたら車内は人いきれのするくらいに混んでいた。発車して湯檜曽を過ぎて、清水トンネルに入って直ぐに土合駅に到着した。登山の客は皆無で、多くの人は土合駅を見物する為に下車しているようだった。天候が悪いのは承知の上で、18切符の期限切れが近づいていたので強引に来てしまった。白毛門は山登りに興味を抱いた時から気になっていた山で、山と渓谷社刊の分県登山ガイドを眺めては、何時登ろうかと考えていたが、漸く機会を設定したことになった。

谷川岳を真正面に、対峙するように聳える白毛門に登るが、眺望は諦めている。国道を傘を差して歩き、土合橋の手前で右折、駐車場の彼方に登山口が在った。東黒沢を渡って、唐突に急斜面に削って設えた登山道を登っていった。尾根は実直に延びていて、登り続けるだけである。ブナ林の中を歩いていると、降雨の感触が無いので、黙々と、其れでも清涼な空気を呼吸するのが心地好い思いで歩き続けた。
桧のウロを過ぎて、行程の順調さに安堵するが、やがて雨脚が強くなってきた。そんな頃に視界が開けて、岩襖の折り重なる鎖場が現われる。慎重に登りきったら、松ノ木沢ノ頭に到達した。此処で私は唐突に意欲が減退していった。松ノ木沢ノ頭は岩が盛り上がっていて、樹林が遮ることのない開けたピークであった。勿論目の前に聳える谷川岳は霧の向こうであり、反対側の山並みは薄っすらと見えるだけであった。岩の上に座って紫煙を燻らせながら、あの向こうには宝川温泉か、などと考えて、もう帰って風呂にでも入りたい、そんな気持ちになった。
ずっと前から愉しみにしていた白毛門に、こんな天候の中、登頂することが、とても詰まらないことのように思えてきた。私は随分松ノ木沢ノ頭で茫然としていたようだった。馬蹄形に縦走してきたパーティが現われ、挨拶する私に、皆が怪訝そうな声色で挨拶を返してきた。詰まらないな、無意識に声を出していた。私の気分はどんどん沈み込んでいった。其れで其の儘下山してしまった。
此の結果は想像以上に自分の意識の底に、滓のように沈殿していったようで、暫く山に出掛けることが無くなった。やはり無理をしてでも白毛門に立つべきだったのだろうか。そんなことを後日、考えたが、自分の気持ちの整理は付いていない。
土合からの帰途に高崎で下車して、評判のパスタ屋に入って食べたが、スパゲッティは所詮スパゲッティで、ひとりでワインも飲まずに食べても、何の面白味もなかった。




Koganesawa

2015/10/18
裂石(8:20)---丸川峠(11:00)---大菩薩嶺(13:00)---大菩薩峠---石丸峠(14:50)---小金沢山(16:20)

2015/10/19
小金沢山(7:10)---牛奥ノ雁ヶ腹摺山(7:40)---黒岳(9:20)---湯ノ沢峠---大蔵高丸(11:15)---ハマイバ丸(11:45)---大谷ヶ丸(13:15)---鎮西ヶ池(14:30)---道証地蔵---笹子駅(17:10)

本当は北アルプスに行きたかったのに、愚図愚図しているうちに十月が半ばを過ぎていた。体力と気力も儘ならないのに、初冬に等しい北アに足を踏み入れるのに躊躇した。其れで、自分に鞭を打つような気分で、幕営しながら大菩薩、小金沢連嶺を縦断した。断章的に綴るにはいろいろあった山行で、そのうちに落ち着いて記してみたいと考えている。



Hangetu

2015/11/7
中禅寺湖道路第二駐車場(7:30)---半月山展望台(7:50)---半月峠(8:15)---阿世潟峠---社山(10:30)---半月山展望台---中禅寺湖道路第二駐車場(13:30)


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友人間戸胃君と性懲りも無く奥日光へ行った。間戸胃君は奥白根の経験で本格的に山登りに慎重になっており、女峰山に登りたいと云う私の意見を拒み、できれば湯元には午後三時くらいに着いてのんびりしたいと云う。仕様が無いので中禅寺湖の南面にある半月山、社山に登ってみることにした。まったく期待していなかったのが功を奏して、延々と男体山を背景に広がる中禅寺湖を眺めながらの山歩きは愉しかった。尤も、天候は次第に崩れて、社山の頂上に立った頃は濃霧の中で、強風にも煽られて、早々に退散した。
湯元迄車を走らせ、奥日光高原ホテルの露天風呂で寛いでから帰途に着いた。陽が落ちる頃に差し掛かったいろは坂で、豪雨になった。


その後の山行。

2015/11/16
梁川駅(10:50)---立野峠(12:20)---倉岳山(12:50)---立野峠---梁川駅(15:10)

2015/11/24
沢井駅(9:00)---光仙橋(9:40)---日ノ出山(11:15)---築瀬尾根---沢井駅(13:30)

2015/12/18
大倉(8:40)---堀山の家---花立山荘(11:10)---塔ノ岳(12:00)---大倉尾根---大倉(15:30)

稚児落としから岩殿山(後篇)

トズラ峠に向かう分岐を右に曲がり、木段が続く樹林の尾根道を歩いていた。対向からふたり連れが登ってくる。先程稚児落としから見えた、対角線上の岩尾根を歩いていた人物は高齢の夫婦だった。擦れ違い様に挨拶をして話し掛ける。其れで岩殿山から此処迄の行程を話して呉れたのだが、妙齢カップルの男性と同様に彼等も、鎖場が厳しかったね、と云った。でも若いから大丈夫でしょう。婦人が笑顔で云った。稚児落としの威容に驚嘆して、此れ以上の驚くべきことなど、此の先には無いだろうと考えていた私は、少し気持ちを引き締めるようにして、歩き始めた。樹林帯が程なく途切れて、ふたたび稚児落としの大岩壁の光景が広がる。一段下がった高さで連なる岩尾根の上から、先程迄立っていた方角を見上げた。絶壁の高さは低い場所から眺めると、また違った趣の迫力が在った。と、ふたたび芥子粒のような大きさになった高齢夫妻の姿が現われた。ヤッホーと叫ぶ声に、私は大きく手を振って応えた。

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2015/4/30

大月駅(8:50)-----浅利-----稚児落とし-----天神山-----カブト岩-----岩殿山(13:00)-----岩殿上バス停-----猿橋-----猿橋駅(16:00)

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稚児落としから遠ざかり、登山道は尾根の東側に沿って続いていた。相変わらずの新緑に包まれた道の途上で、送電線が時折垣間見える。南下する天神山に向かう尾根に、送電鉄塔が点在しているのは大岩壁の上から眺めて判っていたので、順調に進路を踏破している実感が湧いてくる。勾配が急になってきたなと思ったら、左手に延びる尾根が見えてきた。そうして登りついた処に、小さな祠が在った。真直ぐに落ちていく尾根の先に、大月の街並みが一望できる処であった。花咲山の裾にゴルフ場が不自然なグリーンで纏わりついている。数時間前に歩いていた桂川の扇状地が広がっている。自分の歩いて来た場所が、箱庭のように、眼下に広がっている。本当に歩いてきたのだろうかと、自分のことが俄かに信じられなくなる。其れは、非現実的な、玩具のような風景だった。

祠の展望地から東に尾根が延びていて、少し傾斜を登った処に天神山の山名標が在った。其れを乗越して、中央本線と併行しながら、岩殿山に向かって尾根を歩く。電車の車窓から眺めることのできる、岩が露出した長大な尾根である。其の上を歩いている。踏路は岩の内側に沿って丹念に刻まれていた。少々の起伏を経て、樹木の合間を縫って歩き、唐突に眺望の広がる岩の突端に出る。其の繰り返しは、飽きることの無い道程だった。

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大月駅の向こう側に鎮座する菊花山の彼方に、道志の山々が朧気に連なっているのを眺める。青空の広がりの下で山なみは陽光を浴び、遠近感が無いフラットな絵画のように広がっている。そんな好天だが、富士山の姿は全く見えない。其れが不思議だった。そうして幾度か樹林帯と岩の淵の歩きを繰り返しているうちに、端整な岩塔が眼の前に出現した。尖った巨岩の滑らかな胴体が屹立している。背景の岩殿山は、苔に塗れたかのように、こんもりとした緑色で聳えている。尖塔はカブト岩と云う岩峰で、実直に辿る登山道を遮断していた。塔の背中に廻り込むようにして、トラバース道が日陰の樹林帯に向かって延びていた。

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登山地図では曖昧な表現でカブト岩を迂回しているかのように記されているが、捲道は途中から傾斜を増して、カブト岩の東側に向かって登るようにして続いていた。其の途中に、完全に岩峰を避けて歩くことのできる道が分岐している。森林コースの道標が立っている。私は、逡巡することなく、カブト岩の背中を強引に登っていく踏路に歩を進めた。砂礫状の急登を四つん這いになって、砂で靴が滑るのを堪えて登り続けて、ぽっかりと空が広がる岩の上に達した。カブト岩の東側から眺めると、岩殿山がいよいよ近づいてきているように感じられた。

広場の隅に、鎖場の指標が在った。下方から、もう直ぐです、と云う声が聞こえる。程無く、大丈夫でえす、と下方に向かって叫びながら、若い女性がひとり登ってきた。どうやら複数の人々が登ってきているようであった。鎖の彼方を見下ろすが、せり出した岩に隠れていて全容を見ることはできない。緊張感が抜けないのか、登りきって休憩している女性の表情は硬かった。挨拶して、何人くらい登ってくるのかと訊いてみる。彼女は茫然とした表情の儘、二、三人くらいだと思うんですが、と云った。そして、此処を下るんですか、と心配そうな顔で私を見た。

心優しい単独女性が立ち去っても、後続の登攀者は未だ姿を見せない。待つしかないな、そう思い、暫く休憩することにした。紫煙を燻らせて相変わらずの良景を見渡す。東京方面を眺めると、御馴染みの倉岳山と高畑山が連なっている。遠望の視線を転じても、富士山は相変わらず見えない。高川山が、小さい丘のように、控え目に盛り上がっている。

幾ら待っても、鎖の下から物音は聞こえてこなかった。怪訝に感じて、取り敢えず鎖を掴んで、狭い岩の間を下降していくことにした。視界を遮る岩の処迄降りて、漸く岩場の全景を見下ろすことができた。崖の淵に、人影は無かった。後続の人々は、諦めて森林コースに迂回したのだろう。其れで、本格的に垂直の鎖場を下ることにした。頑丈な鎖の他に、鉄製の鉤状取っ手が岩に打ち込んである。確保に問題は無いが、直下を見ると遥か谷底に森林が蠢いているのが判る。其の高度感は緊張を強いるものが有った。

私は、不帰險北峰のことを思い出していた。峻険な岩肌に貼りついて、黒部側の谷を俯瞰して眺めた光景を思い浮かべた。そうなのだ。俺は不帰キレットを越えた男なのだ。こんな鎖場は、淡々と通過しなければならない。そんなことを考えると、非常に気分が落ち着いてくるのだった。其れで乾いた砂礫に着地したが、其処からは岩尾根の側面に無理矢理刻んだトラバース道であった。ロープを掴み、横這いになって、心細くなる程狭い足場を移動した。無事に渡り終えた処で、深呼吸した。心裡としては、やはり切迫した心持ちになっていたのだった。こんなことで、剱岳に登ることができるんだろうか。そんなことを思った。

カブト岩を過ぎれば、後は鞍部に向かって降りていくだけなのだが、鎖場はもう一箇所在って、弛緩して歩き続けると云う訳にはいかなかった。躑躅の花の彩りを添えて、踏路は徐々に高度を下げていく。鞍部の筑坂峠に差し掛かり、城砦の雰囲気を漂わせながら、登山道は山腹をループしながら勾配を上げていった。階段状のメインルートに合流して、一投足で岩殿山の頂きの広場に到達した。

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岩殿山の頂上は、厳密に云えば電波塔の在るピークだが、其の手前の展望地になっている箇所に山名標が在る。随分大月駅方面の眺望を愉しんできたが、岩殿城はさすがに一等地と云った趣で、桂川の流れを真下に、そして全方位が見渡せる絶景だった。遠くから甲高い汽笛が聴こえる。やがて、山峡の合間から貨物列車が現われた。よく出来た鉄道模型のジオラマを眺めているような錯覚に陥りそうになった。

貨物列車は、大月駅を何の用も無いと云った態で、淡々と通過していった。桂川が蛇行するのに付き合うように、鉄路はゆっくりとカーブを繰り返して東へと続いている。機関車の汽笛が短く鳴って、貨物列車はトンネルの中に消えていく。私は、茫洋とした気持ちで、いつまでも其れを眺めていた。

稚児落としから岩殿山(前篇)

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中央本線の電車が猿橋駅を発車して、岩の要塞のような山が右手に現われる。駅から直ぐに登ることができると云うので、何時でも訪れることができると思って軽視していた岩殿山である。人工的な迄に露出している岩肌に、岩殿城址の看板が設えてある。未だ四月だが、真夏のような最高気温を記録する連日の晴天が続いている。展望の山に登るには絶好の時期かも知れない。そう思い立って久しぶりに電車に揺られ続けている。電車はやがて、厳粛さを表現するかのように、速度を落としていく。其れは富士急が分岐する大月駅が、交通の要衝であることを改めて感じさせて呉れる。

2015/4/30

大月駅(8:50)-----浅利-----稚児落とし-----天神山-----カブト岩-----岩殿山(13:00)-----岩殿上バス停-----猿橋-----猿橋駅(16:00)

河口湖方面に向かう電車に乗り換える人も少なく、閑散としていた大月駅だが、駅前に出ると観光客の姿が散見できて、少し遠く迄来たのだな、と云う実感が湧いてくる。今年になってから、碌に山行が出来ていない。相州大山のグループ登山に参加した迄はよかったが、その後に著しく体調を崩してしまった。復調となってからも、奥武蔵や奥多摩の低山を逍遥するばかりだったので、大月迄行くと云うのが、遠く迄旅をしている気分にさせて呉れる。

尤も、距離が遠いと云うのは人によって感覚が違うかもしれない。大月を遠いと感じるのは、其の観光地然とした雰囲気に起因している。富士五湖の玄関口であることもあるが、駅の周辺を歩くと、古びた商店が廃れているのが散見できる。大月駅前から右手に入り、払い下げの車輌に厚化粧したフジサン特急が待避線に停まっているのを横目で見ながら歩き、裏通りに入ると快晴なのに建物の陰で周囲は薄暗く静まり返っている。錆びたシャッターが閉じた儘の廃業したと思しき店に、ミルクホールと云う看板が掛かっている。昔から観光地として栄えてきた街並みが静まり返っている風情が、何とも云えない旅愁を誘う。此れと似たような感興を覚える駅が在る。小田原や熱海、京浜急行の浦賀なども似たような旅愁を覚える。何れも観光地的に歴史の在る土地である。ウチはそんなに寂れてないぞと、小田原あたりは憤激しそうだけれど、近代的な駅から離れて小路に入ると、栄枯盛衰を思わせる古い商店が並んでいて、存外に飽きない。

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それはそうとして、平日の午前九時を廻った時刻の、静かな大月駅界隈を歩いているが、岩殿山からどんどん遠ざかっている恰好である。直截的に登山をするならば、大月駅から猿橋駅方面に戻って線路を渡り、城址の山腹の正面に向かえばいいのだが、其れでは詰まらない。セーメーバンから連なる尾根の途中から、時計回りの恰好で大月駅から岩殿山を目指そうと思う。岩殿城落城に纏わる悲劇の伝説地、稚児落としを経由して、峻険な岩尾根を歩いて岩殿山を目指すのである。

歩行者用の跨線橋を渡り、駅の裏側に出た。甲州街道から分岐した県道を歩くと、二又に分岐している箇所に着く。通り掛かった高齢のおじいさんに、浅利の方向を尋ねると、左を下って行けと教えて呉れた。おじいさんは山歩きの徒に慣れているのか、向こうからの登りは急だから気をつけて行くように、と云った。左手に入ると、大月駅周辺の住宅地の裏に廻り込むような形になった。桂川を挟んで、岩殿山の山塊と大月の市街地が対峙している。市街地は崖っぷちのギリギリの処で尽きていて、私は其の崖の下に沿って歩いていた。其処から、河岸段丘が落ち込んで広い扇状地になっているのが見渡せた。青空を背景に、花咲山と天神山が作り物のように佇んでいて、中央高速道の橋梁がふたつの山を繋いでいる。思わぬ良景だったので、暫く立ち止まって其の風景を眺めていた。

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県道は大きくカーブしながら、扇状地の中央に向かって続いていた。崖に張り付くように賎家が点在していて、川岸側には畑地が広がっている。先程眺めた遠景の中を歩いている自分が、客観的な視点となって脳裡に浮かぶ。蟻のように小さい生き物が、とぼとぼと高速道路の下に向かって歩いている。灼熱の陽射しを浴びて、私は茫然とした儘、歩き続けていた。

漸く中央道の下を通過して、浅利の集落入った。浅利川に沿って、バイパス線と合流した県道512号を歩いて行く。手にしている昭文社の地図には、花咲山への分岐である廿三夜塔と浅利公民館のポイントが記されている。広域の1/50000地図では距離感が測れないので、思ったよりも随分歩いているような気がする。稚児落としへの分岐である「吊橋」は、依然として現われない。しかし、山峡の細い道路は日陰が多いので、心地好く歩くことが出来た。花咲山側の尾根に沿って蛇行する舗装路を歩き続けて、吊橋にはお目に掛かれない儘、稚児落としの分岐を示す道標が現われた。

浅利川を渡ってからは、山腹に点在する民家を見上げながら、歩いて来た方角に引き返すような感じで、南東に山道が続いていた。小さい沢を幾つか越えて、次第に尾根に向かって勾配が上がってくる。やがて唐突に道標が現われ、設えてあった階段を登って尾根を急登していく。登山道は初っ端から急勾配が続いたので、道を訊いたおじいさんの言葉が思い返されて、思わず内心で首肯した。

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傾斜を登りきって、支尾根の上に乗ると、対面に広がる谷が鬱蒼として広がっていた。見渡す限りの自然林で嬉しくなる。小楢や橅の合間に、ホオノキの白い樹皮が映えている。ライトグリーンに反射した陽光に包まれて、尾根道が続いていた。次に合流する尾根で、ふたり組の下山者と擦れ違う。トレランの恰好をした男女が、足早に遠ざかっていくのを見おろしながら、疲労ではなく、心地好さに浸りながら、私は緩慢に歩き続けた。

稚児落としの大岩壁に向かって喰い込む谷が、どのようにして現われるのだろうかと地形図を凝視してみるが、殆ど把握が出来ない儘、東南に向かって延びる尾根を登り続けた。唐突に空が開けて、尾根が断崖になって落ちている箇所に到達した。南西に眺望が一挙に開けた処で、花咲山とサス平が緑のお椀のようにして立ち並んでいる。岩の淵には妙齢の男女が風景を眺めていた。既に下山の途中である彼等に、稚児落としは未だ先ですね、と話し掛けた。凄い眺めでしたよ、と女性の方が云った。

私は、駅から直ぐに登ることができるから、何時でも行けると思っていた儘になっていたので、稚児落としは初めて訪れるのだと云うことを話した。すると、私たちもおんなじなんです、暑くならないうちに行っておこうと思って、と女性が嬉しそうに云った。其れで、大岩壁の上はどのようにして歩いていくのか、怖くは無いのかと云う、心の隅に少しだけ在った不安を打ち明けた。其れは大丈夫です。其れより後の鎖場の方が怖いかな、と男性が云った。爽やかに挨拶を交わして別れたふたりの満悦の様子が窺えて、私は、もうすぐ到達するであろう稚児落としの情景が、非常に楽しみに思えてきた。

断崖の上から尾根はふたたび北東に進路を変えて、岩礫の急斜面が現われた。鎖が垂らしてあるが、其れに頼らないでも登ることができた。岩の斜面の途上から、トズラ峠方面の良景が広がる。途中で停まって眺めていたら砂礫で足が滑った。咄嗟に木の枝を掴んで難を逃れた。ふと気付くと、周囲にはシロダモの明るい樹肌が立ち並んでいた。徐々に樹林が疎らになった登山道の先に、滑らかな岩の曲線が在って、其の向こうに、空が広がっている。最後の支尾根を登りきった処に、此処から稚児落とし、危険、の指標が立っていた。

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薄茶色の岩の上に立ち、断崖に広がる谷底を見渡した。写真で幾度も見た稚児落としだが、其の上から実際に眺めると、圧倒的な力が全身に押し寄せてくるような感覚に囚われた。対角線上には、直角に連なる大岩壁が聳えている。其れを眼下に見る恰好である。落ちたら、最期である。こんな処が登山道で大丈夫なのかと、信じられないような気持ちになった。勿論、絶壁の上に連なる岩の内側を歩くので大丈夫なのは判っている。しかし、景色を眺めない訳にはいかないので岩の上に立つのは必然である。そうして眺めていると、陳腐な表現しか出来ないが、吸い込まれそうになる。対角線上の岩壁の上を、誰かが登って来るのが見えた。大岩壁の上に、芥子粒のような大きさで、人間が歩いていた。

鼓動が早まっていくのを感じながら眺望を堪能して、稚児落としの上を及び腰で歩いて行く。断崖の向こうを想像して、千鳥姫の伝説が脳裡に浮かんでくる。武田勝頼を見切り、小山田氏は織田信長に加担しようとするが、其の不忠を逆に織田勢に咎められ、岩殿城は攻め込まれた。小山田信茂の側室、千鳥姫は、信茂の次男と、実子の万生丸を連れて、護衛の兵と共に岩殿城から西の尾根を伝って逃げ延びようとして、此の断崖の上に辿り着いた。一行は無事に落ち延びたことに安堵し、喜びの声を上げた。声は大岩壁に反響して、思いも拠らぬ方角から返ってきた。追手の声だと勘違いした一行が騒然となり、其れを切っ掛けにして未だ赤子であった万生丸が泣き出した。此の大岩壁は、反響する声の所為で、呼ばわり谷、と云う名が付いていた。護衛の小幡太郎は、赤子の泣声により追手に捕らえられる危険を避ける為に、万生丸を千鳥姫から奪い、断崖から谷底へ投げ落とした、と云う伝説である。

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現代人の価値観で、或る時代の事象を判じることは出来ない。伝説に対し、其の真偽に就いて考えるのも愚行である。確かなのは、稚児落としと呼ばれる此の大岩壁が確かに存在していると云うことで、其れを実際に眺めていると、さもありなん、そんな確信が心の底から湧き上がってくる。褐色の岩壁は何処までも深く落ち込んでいた。其の壁に貼り付く様にして、樹木が点在して生えている。若葉の緑が、残酷な伝承など大した問題ではないと云わんばかりに、懸命に生きている。煩悩に左右されて生きる人間が、如何にも詰まらない、些少な存在であると云うような気持ちになってくる。

現在時刻の稚児落としに於いて、瑣末な存在の代表である私は、心臓に早鐘を打たせながら、木々が繁る安全地帯に向かって、腰を低くして、歩いて行くのだった。樹林帯に入って、我に返ったかのように振り返る。何たる小心かと自分を憐れみながら、平穏になった登山道をゆっくりと歩き続けた。噎せ返るような若葉の息吹きが、周囲を包み込んでいった。

初夏の高尾山北尾根を辿る

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2013/6/2

高尾駅(12:00)---日影---高尾山北尾根---高尾山---金比羅台---淺川---高尾駅(16:00)

朝、いつものように起きて雑事を済ませたら、山に行きたくなった。何処へと謂う積もりもなく、出発するにしても遅いから、考えも無く高尾山口行きの電車に乗った。其の車中で、高尾山北尾根を登ってみようと、以前下った時から考えていたことを思い出したので、高尾駅で下車して北口に出た。しかし、小仏行きのバスは二十分後迄無い。私は此のバスターミナルの居心地がよくないと思っていて、二十分が苦痛なのである。私はいつものように歩き出した。

小仏川の遊歩道を歩いていると、気持ちが悠然としてきた。樹林の中の疎らな陽射しが心地よい。蛇滝口から止むを得ず車道を歩くが、日影から林道に入ると、清々しい沢の気配に包まれた。最早下山の途に就いている人と擦れ違うが、トレイル・ランナーは縦横無人な方向から現われる。昼下がりからでも登れる高尾山の気楽さが嬉しい。

火災で焼け落ちたウッディハウス跡の箇所から、いろはの森コースが分岐するが、其れを横目で見ながらもう少し直進すると、また分岐点が現われる。いろはの森コースに合流する林道に左折して歩いて行くと、尾根が突き出ている処があり、林道は素直に其れを迂回すべく、左に回りこみながら右にカーブを描いている。高尾山北尾根の取り付きは、其の突端から延びて居る。林野庁の小さな看板が立っていて、其処から作業道が尾根を直登している。

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高尾山北尾根が、若葉の季節を越えて夏になったら、藪が繁茂して登るのに苦慮するような道なのかを確かめたかった。事実は全く杞憂であって、道筋は至極明瞭で、急登を楽しめるならば、人影が全く無い儘、山頂に向かうことが出来る。標高490mで尾根が合流するまで、ひたすら登り続ける。500mを確認して、緩やかな斜面に立ち止まり、振り返ると樹間から北高尾山稜を覗き、中央道の喧騒の名残りを微かに感じることができる。

ふたたび急登が実直に続き、標高550mで西へ延びる茫洋とした広い尾根が窺える。奥高尾の静かな谷間を見下ろすことができる迄登ってきた。休憩して煙草を燻らせていると、微かに人の気配を感じる。其れは漠然とした気配で、誰かが近づいてくるようなものではない。スタジアムの観衆の騒ぎが、遠くから聞こえるといったような感じだろうか。ざわめきが、私のテリトリーの遠く外側から聞こえてくる気配だった。

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徐々に東に進路がずれていくようになり、登りきったら唐突に樹木が道を塞ぐように重なりあっていた。其処に黄色い立ち入り禁止のテープが、バツ印を描くようにして張られていた。其れを難渋して越えると、其処はビジターセンターの裏手にある、高尾山頂の捲道だった。1号路に合流して、私はデパートのように混雑している高尾山頂に立った。

もうすることがない。私は携帯電話機を取り出した。さすがは世界の高尾山であって、私の微弱なPHS電話機も通じるようであった。其れで、登山詳細図即売所の小仏峠に居る筈であるC氏にメールを送った。早速返信がきた。彼等は既に下山途中の模様で、高尾駅で合流する約束をした。手持ち無沙汰な気分が、其れでずいぶん解消した。麦酒を我慢して、私はいそいそと下山の途に就いた。

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別記

2013/6/5(登山詳細図奥多摩東部篇補足踏査)

軍畑駅(9:50)---青梅沢井デジタルテレビ中継局---490.5mピーク---544mピーク---惣岳山---四辻---沢井駅---東光寺踏切---東光寺墓地---日枝神社---送電鉄塔---軍畑駅(15:40)

2013/6/23

大倉(8:50)---大倉尾根---塔ノ岳---新大日---烏尾山---烏尾尾根---新芽山荘---大倉(17:30)

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