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霧降高原から女峰山(中篇)

いよいよ一里ヶ曽根の山稜に差し掛かると云う鞍部で、残雪が現われた。五月の日光連山を甘く見ていた訳では無いが、私は軽アイゼンを携行してこなかったことを思い出し、内心で少し不安になった。残雪は登山道の周囲を覆っているだけで、踏路は明瞭に土の道が続いている。私は進路を真北に、眼前に聳える標高2209mの、尾根の突端に向かって登り詰めていった。樹木は閑散となり、巨岩の点在する稜線に出ると、先程迄の青空と陽光はすっかり影を潜めて、周囲はふたたび、鉛色の霧の道に戻ってしまった。

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ヤハズと記された古い木標を通過する。鋭利な山容を形容する矢筈の意なのかは定かではないが、ヤハズを過ぎて間も無く、湧きあがる霧の中から、峻険な双頭の山が出現した。女峰山と前女峰の間に切れ込んだ谷は、雪に埋もれているようであった。徐々に雲は流れ、ふたたび青空が広がる。一里ヶ曽根は雲上の道となり、左右に切れ落ちる断崖の気配を窺いながら、岩稜の上を歩いていく。やがて勾配が緩やかに上がり始めると、潅木に囲まれた道になり、残雪で周囲が真白になった。

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2017/5/28
霧降高原バス停(10:05)---小丸山(10:50)---赤薙山(12:10)(13:00)---赤薙奥社跡(13:55)---一里ヶ曽根独標(15:15)

目的の女峰山が視界に入ってきて、私は改めて、自分が日光連山の屋根の上を歩いているのだ、と云う実感に包まれていた。そして、目まぐるしく変化する空の色に、云いようの無い不安を感じてもいた。ふたたび、幕営地がどうなるのか、そんな気持ちで、私は歩き続けていた。

潅木に囲まれた斜面が緩やかになり、時折山道の傍に平坦な場所を確認すると、もしもの時は此処に戻ればいい、そんな風に内心で呟いて、自分の気持ちを慰撫する。そんな未踏の尾根を歩き続ける不安とは対照的に、空はいよいよ青くなり、見上げると未だ冬枯れの樹木が、シルエットになって聳えていた。

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樹林帯を抜けると岩礫の斜面になり、気が付くと周囲の光景が雲の上に広がっている。振り返ると、歩いてきた岩尾根の先に、赤薙奥社跡のピークが明瞭に屹立していた。そうして辿り着いた、這松に囲われている瓦礫場の平坦地には、一里ヶ曽根と記した道標が立っている。巨大ザックを下ろして、私は茫然と周囲を眺める。一里ヶ曽根は、此の岩の山稜を示す尾根の名前だと察せられるが、此の場所が其のピークである、独標のようであった。

岩礫の点在する平坦地を眺めて、何処にテントを張ろうかと考えながら、私は荷物を広げない儘、暫く岩に腰掛けて紫煙を燻らせる。時刻は午後三時を廻った頃で、最後の下山者を見送るには、未だ少し早い時刻である。日帰りの登山者が通過する顕著なピークに、誰彼構わずにテントを張ると云うことが、私には出来ない。そして此処は、名にし負う日光女峰山の周辺である。予断は許せない。予定通りの行程を終えて安堵しているのに、テントを張る迄の妙な緊張感が心中に漂う。其れも止むを得ない。

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日曜日の午後三時台、女峰山から下山してくる者は存外に少なかった。老夫妻がひと組、そして妙齢女性のふたり組が、鞍部を越えて一里ヶ曽根に登って来た。ふたり組の装着しているスパッツは泥に塗れていたので、挨拶を交わし、女峰山直下の路面状況を尋ねた。そうして、彼女たちは怪訝さを隠すようにして私の荷物を見ているので、此処で泊まると云うことを伝えると、率直な驚きの言葉を云った。ひとりで怖くないんですか、其れが彼女たちの感想だった。

独標にふたたび静けさが戻り、私はフラットな場所に見当を付けて、瓦礫を除去する作業に没頭した。大きな石を周辺に移動させて、細かいザレになった地面を、足で整地していくと、程よいテントサイトが出来上がった。時刻は午後四時に近い。私は、深い安堵感を味わうようにして、煙草に火を点ける。いつしか雲が流れて、北面の眺望が開けるようになり、県境の山々の向こうに広がる、東北地方の景色を眺める。日曜日の夕刻である。下山者が未だ居るとは思えなかったが、単独行の男性が鞍部を登って来るのを見た時は、未だ居たのかと落胆した。

一里ヶ曽根独標に達した中年男性が、挨拶を交わした私が喫烟しているのを認めて、煙草を取り出した。那須の山ばかり登っていたので、たまには日光に登ろうと思って、と語る中年男性は、単独行者らしい穏やかな訥弁さであり、好感の持てる人物だった。其れで今日は此処でビバークするのだと伝えると、やはり驚きを禁じえないようであった。

彼は、未だ女峰山に登頂して、避難小屋迄歩ける時間ではないかと云う趣旨のことを云ったが、其の口調には、非難の色は感じられなかったので、私は、こういう場所で泊まるのが好きなんです、と率直に云った。訥弁氏は、ひとりで泊まるのは怖くないかと、くだんの女性たちと同じことを云った。

煙草が好きな様子の訥弁氏と、思いの外のんびりと会話をした。テントはずっと以前に使っていたが、随分御無沙汰になっている、と語る訥弁氏は、今のテントは性能がいいんでしょうね、と云った。そして、私が整地したテント泊予定地を見て、きっと星空がすごいんだろうな、と云い、また始めてみるかなあ、と、ひとりごちた。私は、奇妙な満足感で、其の言葉を聞いた。

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時刻を再確認して、こりゃあ、階段からはヘッドランプだなあ、と云って、訥弁氏は去って行った。午後五時に近い岩峰の上で、アライテントの橙色のフライシートに、陽光が降り注ぐ。新たに谷底から湧きあがってきた雲が、周囲を包み込むように、空中に敷き詰められたようにして、浮かんでいる。微かな暮色が滲む雲の塊りの上は、相変わらず青空の儘であった。

私は、今度こそ安寧の気分となり、持参してきた缶麦酒を飲む。全身が弛緩したようになって、茫然とした儘、雲海の向こうに広がる風景を眺める。日陰になって薄暗くなった一里ヶ曽根独標の頂上から、紅く染まった雲海が果てしなく広がる。私は麦酒と煙草で朦朧となりながら、出掛ける前に思案した幕営行の選択が、出来過ぎなくらいの成果を獲得した結果に、満悦していた。雲海の彼方に黄昏が消えていく迄、ぼんやりと眺め続けて、静かに夜が訪れた。

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