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霧降高原から女峰山(前篇)

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蛇行しながら標高を上げていく山行きのバスの車窓が、緩やかに鉛色へと、彩度を落としていった。霧降高原キスゲ平のバス停で、少なかった全ての乗客が下車した。文字通りの霧の中である。天空回廊と名づけられた、延々と続く階段は、其の儘小丸山に登頂し、其の先には、日光連山、女峰山へと続く登山道に接続している。私は、相変わらずの幕営行の為の巨大ザックを背負い、時折小雨が降る観光用ハイキングコースの階段を登り続けた。1445段の階段は歩幅に丁度良い間隔で段が続いている。ニッコウキスゲの群落を眺めるには未だ早い時期であり、行楽日和とは云い難い天候にもかかわらず、大勢の観光客が、尾根を直登する階段を、往来していた。

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2017/5/28
霧降高原バス停(10:05)---小丸山(10:50)---赤薙山(12:10)(13:00)---赤薙奥社跡(13:55)---一里ヶ曽根独標(15:15)

連休が終わった五月下旬に、今度は何処かの山で幕営しようかと、行く先に関して思案を続けた。ふと、昨年のことを思い返してみる。四月は信州北部の飯縄山に、五月は西上州の荒船山に、そして六月中旬には奥多摩、七ツ石山に隣接する千本ツツジにテントを張って一夜を過ごした。そうして、奥多摩で、とうとうマダニの被害に遭った。小満、芒種、恵みの雨の季節に、低山をうろうろしているとこんなことになる。そんな実感であった。

今年の春先に秩父に通い、此れ迄足が向かなかった両神山が身近に感じられてきたので、山腹の避難小屋周辺に幕営して、両神山に登頂しようかなどと考えてみたが、昨年のマダニ禍を思い出して、内心で身じろぎをした。もうすぐ六月になる。幕営は森林限界の、風通しのよい場所でなければならない。しかし、雪山でビバークできるような技量も無い。漸く選んだ山は、比較的高緯度にある日光の、標高2000メートルを越える、女峰山であった。幕営は、その周辺とすることにして、行程を考えた。

日光の登山と云えば、此れ迄判を押したように、友人の車に同乗し、いろは坂を登って男体山や奥白根を目指しただけの経験であるから、電車とバスを乗り継いで女峰山を目指すと考えた時、どのような手順を踏むべきか迷った。日光連山の全体像は、地図を眺めれば一目瞭然ではあるのだけれど、登山に関して考えると、どうしても標高1200メートルの中禅寺湖を基点にして思案を開始してしまう。

女峰の莫迦尾根、とも呼ばれる、日光東照宮から延々と続く、由緒ある修験道でもある黒岩尾根にも惹かれるが、公共交通機関で日光駅に到達できるのは午前九時頃であるので、驚愕の標高差、1800メートルを登るのは困難である。テント泊の大荷物を背負い、遅い時間に出発し、頃合の時刻に幕営適地へ到達できるのは、霧降高原からの女峰山登山であると云う結論に達する迄、其れ程時間は掛からなかった。

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そう云う訳で、私は観光客と併走するように、小丸山の終点迄、階段を登り続けた。時折振り返ると、霧で真白だった下界の彼方が、少しだけ垣間見えるようになった。昨日迄降り続いた雨が上がり、高原を包んでいた水蒸気は、刻々と流動を始めるのかもしれない。天空回廊が終わり、小丸山の展望台には人が鈴なりになっている。其れを傍目に、漸く静かになった登山道を歩くと、鹿柵ゲートの回転扉が現われる。右手にこんもりと聳える丸山が、うっすらと姿を現わした。そして丸山への分岐点の在る処に、小丸山の山名標が在った。明瞭なピークでは無い小丸山でザックを下ろして、紫煙を燻らせながら改めて下界を眺める。雨はもう降ってこないだろう。そんな気がした。

赤薙山と云う名の通り、行く手の先に聳える山稜の突端から、荒々しく崩落している赤土の薙の山腹を左手に見ながら、茫洋とした笹の尾根を登り続けた。其の途上で、早朝に出発して女峰山を往復してきたと思しき、ハイカーの集団が下山してくるのと擦れ違うようになる。尾根が収斂されて、いよいよ急勾配の樹林帯に差し掛かると、霧降高原のバス停で、軽快に出発していった妙齢の女性が、早速下山してくるのと擦れ違った。ピークの手前で、山頂を巻くルートが右手に分かれていくが、当然ながら、山頂への直登コースを選ぶ。踏路は殆ど不明瞭になり、急登の樹林帯の向こうに、頂上の雰囲気が窺える。人の声が近づいてきて、ピークに立った処が、古びた鳥居の在る、赤薙山であった。

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賑やかだった集団が立ち去り、独りになったので、此処で昼食の休憩を摂ることにした。湯を沸かしてインスタント麺を作る。出発して丁度二時間が経って、正午を廻った頃であった。雨は降らないが、女峰山に至る東の尾根は、相変わらずの霧の中だった。日光連山の東端に在る、標高2010mの山に登頂しているが、茫洋と白い周囲の光景は、自分が何処迄歩いてきているのか、判然としない。

今日の幕営地の目途は明確に立っている訳では無いが、女峰山に至る途上に、適地が在るものと推察している。赤薙山から女峰山迄、尾根は西に向かって単純に延びている訳では無い。尾根の南面は、先程から眺めているような、激しく崩壊した薙が随処に展開する崖地である。其処に雲竜渓谷が壮絶に食い込んでいるので、女峰山からの尾根は、雄大に北側に湾曲して連なっている。岩の山稜が標高2200メートル前後の高さの儘に続いている、一里ヶ曽根の何処かで、テントを張るのに適した平坦地があるだろうと、私は地図を見て推察し、考えていた。今日の歩行時間は、あと三時間も無いだろうと思うと、昼食の休憩ものんびりとしてくる。

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結局、一時間近くも休息し、ふたたび歩き始めた。ピークを越えて、周囲の様相は断崖に挟まれた痩せ尾根となった。天候は好転するものと思っていたが、険阻の谷から湧きあがる霧は却って濃厚になり、白樺の裸木が踏路の先を誘うように点在している。五万分の一縮尺の「山と高原地図・日光」の2013年版を再確認すると、標高二千メートル以上を示す朱色に染まった尾根の行程には、「起伏多い」と記されている。北東からの六方沢と、南東からの雲竜渓谷が詰め上がる峻険な尾根は、濃霧に包まれ寂然とした儘、アップダウンを繰り返しながら標高を上げていった。

険しかった尾根がひとつのピークに向かって、勾配を形成し始めた。相変わらずの霧の中で、足元がふかふかとして柔らかい土になり、其の儘ひたすらに登り続ける道になった。静謐な空気を呼吸して、頭の中まで真白になっていくような気持ちになりながら、一心不乱に登り続ける。其の道程が終わりを告げ、気が付くと狭いピークの上に立っていた。

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キスゲ平、女峰山を示す道標の上に、奥社跡と記された木片が掲げられている。其の根元に石積みが在り、熊野修験道、那智山の青岸渡寺と署名の有る祈祷の木札が立て掛けられていた。鋸歯状の険しい尾根の果てに辿り着く、標高2203mの頂上は、如何にも修行の場に相応しい、そんな風情だった。

赤薙神社の奥社が在った場所であるから当然なのだが、祈祷木札の周辺は、整地されたように平坦であった。潅木で眺望は利かないが、幕営適地である。時刻を確認すると、午後二時だった。未だ、早いかな、と内心で呟く。疲労感は其れ程でもないが、今夜のテント場がどうなるのか、其れは最も気掛かりな問題である。お誂え向きの場所だが、此れから下山者をやりすごして二時間以上も滞留する、と云うのも退屈であった。そして、女峰山に登頂する迄、コースタイム二時間の行程を残して幕営する、と云うのも、間尺に合わないような気がする。

そうは云っても、此れから二時間を歩いて、今日のうちに女峰山に登ると云う気力も無かった。鬱然として変わらない霧中の行程が、早く幕営適地を見つけて落ち着きたい、と云う漠然とした想念を湧き上がらせている、そんな気がした。

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どうするのか決められない儘、茫然と喫烟していると、思いがけない強風が頬を打ってきた。やがて、風は緩やかに勢いを弱めると、周囲が途端に明るさを増してきた。見上げると、霧が徐々に晴れて、青空が雲の流れの合間に覗いている。やがて陽光が降り注ぎ、鉛色の光景であった奥社跡が、安穏とした山上の風景に変わった。

生き返ったような気持ちになり、山頂の南側に在る、少しだけ展望の開ける場所に立って、眺めた。雲竜渓谷を挟んだ対岸に並んでいる筈の黒岩尾根は、流れる白い雲で覆われて、何も見えない。其れが却って、自分が、空の中に浮かんでいるような錯覚にさせる。随分高い処に、自分が立っているのだと、改めて気付かされるのであった。

クレッタルムーセンの巨大ザックを、今日初めて背負うような気持ちになって、担ぎ上げる。女峰山の道標が指し示す方角に、霧を纏って横たわっている壮大な尾根が、判然としてきた。あの、一里ヶ曽根と呼ばれる長い尾根に、一夜を過ごす場所が在る筈である。私は内心で呟き、鞍部に向かって登山道を、下り始めた。

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