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八丁山・お伊勢山・稲村岩(後篇)

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穏やかな夜が更けて、存外に寝入るのが遅くなった所為もあるのか、私はテント泊では珍しく、朝になる迄熟睡し続けた。テントから這い出ると、kz氏は既に起床していたので、目覚めたばかりだが、早速身支度を整える心積もりになった。周囲の光景は、朧気に朝靄が漂う曇天である。健啖家のkz氏は早朝にも係わらずラーメンを作って食しているが、私は珈琲を淹れて紫煙を燻らせている。

充実の幕営が終わり、鷹ノ巣山に登頂する気概が、既に消え失せてしまっていることを我々は確認している。其れで、鷹ノ巣尾根を踏破して其の儘、稲村岩尾根を東日原に下山しようと云うことになっているので、朝食は空腹を覚えた時点で摂る、と云うことにした。

頂点の鷹ノ巣山に登らず、登山の区切りが付くのかと云う疑念は無かった。既に越えてきた八丁山に続いて、此れから登る鷹ノ巣尾根には、標高1280mの、お伊勢山、と云う立派な名称が付された山が在る。其れを越えていく予定であるので、登頂したか否かと云う溜飲は下がり、二日目の澱んだ疲労感にも誘われて、我々は下山の途に掛かるのであった。

2017/4/24
八丁山西側鞍部(7:00)---お伊勢山(8:00)---鞘口のクビレ(8:25)---ヒルメシクイノタワ(10:15)---稲村岩尾根---稲村岩分岐(11:25)---稲村岩(11:50)---稲村岩分岐---巳ノ戸橋(12:50)---東日原バス停(13:15)

広大な鞍部から、二日目の大荷物を背負い、鷹ノ巣尾根の勾配を登る。日原川が遡上する、奥多摩の奥深い谷の先に屹立している筈の雲取山は、朝霧に隠れている。全身に蔓延する疲労感に抗いながら、斜度の収まる処迄登ると、尾根の様相が一変した。岩礫が混在する痩せた細尾根の踏路に、霧が纏わりついている。

尾根は鋸歯状になって断続的に現われる瘤を越えていく。断崖の淵を辿り、崩壊して奈落の底のようになっている谷間の気配から逃れるようにして、歩き続ける。其れで、弛緩したような疲労感の漂っていた身体が、鮮烈に覚醒していった。険阻の道程に、深い霧が良く似合う。そんなことを思いながら、緊張した儘、岩場に歩を進めていった。

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相変わらずの細尾根が続き、隆起した先に在る山頂に達した。お伊勢山の頂上は狭く、名のあるピークに登りきった、と云う感慨が余り湧いてこない。お伊勢山の山名由来は、伊勢神宮への材木奉納の所以があるようだが、格別の社祠が祀られていると云うことも無く、要するに何の変哲も無い処であった。其れでも登山のひと区切りが付いた安堵感で、私は紫煙を燻らせて休憩した。八丁山付近の鞍部を出発してから一時間が経過していたので、改めて鷹ノ巣山がこんなに遠いのかと思う。

山頂から下り続けた先の鞍部が鞘口のクビレで、此処はいにしえの峠道が交差する場所だったようで、廃れた道標が、巳ノ戸ノ大クビレ、鷹ノ巣山と記した儘、南西方面のトラバース道へと誘う。巳ノ戸沢に沿って此処に至り、其の儘コルを越えて巳ノ戸ノ大クビレに続く道は、昔のエアリアマップに記載されていたと云うのを、kz氏が教えて呉れる。

ちなみに、ややこしいんだけど、と云ってkz氏が続ける。巳ノ戸尾根と稲村岩尾根の間を流れるのが巳ノ戸沢で、西側のヤケト尾根と鷹ノ巣尾根の間を流れるのは、巳ノ戸谷と呼ぶとのことであった。鞘口のクビレには遭難碑が在り、事故の現場は巳ノ戸谷と記してあったので、北西方面から此処に登攀する途上のことであったのだろう、と、kz氏が云った。

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西側の斜面には廃棄された錆びた空き缶が散乱している。鞘口のクビレには小屋もあったようで、飲料を販売していたのかもしれない。往年の賑わいの名残りと、ゴミは放って捨てるのが当たり前だったと云う昔の価値観が、此の廃棄物に拠って察せられる。こんなラベル知らなかったよお。と、kz氏が嬉しそうに叫ぶ。コカコーラの赤い缶は、確かに見覚えの無いデザインだったので、私も妙に感心して其れを眺める。其れから錆びた空き缶の物色が始まり、そう云えば、昔は皆、ネクターを飲んでいたなあ、などと云う話題に発展して、鞘口のクビレでの滞留時間は、思いのほか長くなってしまった。

鞘口のクビレを出発して、鷹ノ巣尾根が稲村岩尾根に収斂されていく勾配を登り続ける。標高が1350mを越えてきた頃に、唐突に霧が流れて青空が表出して、あっという間に晴天となった。尾根の途上に平坦地が在り、私は朝食を摂ることにして休憩を提案した。ブナ林の鞘越しに、雲取山に連なる山稜を眺めながら、のんびりとインスタント麺を食す。昨晩の食事に心血を注ぎすぎた所為なのか、携行する食糧の配分を見誤ってしまったので、此のラーメンが、最後の食糧になってしまった。ヒルメシクイノタワに合流して、直ちに下山する行程は、私にとっては必然の選択となってしまった。

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標高1500m迄辿り着くと、地形図の等高線が細かく配列されている記載通りの様相となり、踏路の判別も付かない儘、急斜面を登り続けた。標高1527mピークに在る、ヒルメシクイノタワは、稲村岩尾根から鷹ノ巣山を辿る時は何の感興も湧かないが、迂遠に尾根を辿ってきた身にとっては、立派な山頂である。北面の暗い斜面を攀じ登り、ヒルメシクイノタワの細長い標柱のシルエットが漸く確認できるようになって、私は深く安堵した。

kz氏は、東日原のバス発車時刻から逆算して、稲村岩の鞍部に到着する目標時刻の検討に入っていた。午前十時を過ぎた処で、稲村岩尾根の下山に掛かり、私は未踏である稲村岩の上に立ちたいので、やや足早に足を繰り出す。途中で数組の登山者と擦れ違う。月曜日の午前だが、存外にハイカーは多い。雲取ですか、と幾人にも訊かれるが、八丁山の鞍部で幕営ですと答えても話が長くなりそうなので、面倒だから鷹ノ巣避難小屋に泊まったと虚偽の証言をするが、余り気分の良いものではない。

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稲村岩尾根を下り続けて、左手には歩いてきた巳ノ戸尾根が併行している。約一時間で末端に在る稲村岩の鞍部に到達した。道標には、かつては稲村岩の指標が記されていたが、死亡事故発生の所為か、木片で塞がれていた。其の上に、不用意に立ち入らないように、と云う注意書が貼ってある。我々は心の準備を整えて、ザックをデポして岩場に取り付いていった。

隆起した稲村岩に至る細尾根を、慎重に渡っていくように辿る。左手の、巳ノ戸沢に落ちていく崖下を窺いながら、横這いのようになって歩を進めていく。やがて岩崖が立ち塞がるようになって、イナブラを攀じ登っていった。日原集落から眺める稲村岩を脳裏に描き、其の垂直の岩登りに内心で首肯する。岩が尽きて、狭い山頂に通路が延びている。行き着いた先に小さな社祠が設置されていて、澤ノ井のワンカップが供えられてあった。

仰ぎ見ることしか出来なかった稲村岩の頂点に立ち、改めて大展望を満喫する。360度の見晴らしは圧巻で、先程下ってきた稲村岩尾根を俯瞰して眺める先に、鷹ノ巣山が聳えている。八丁山、お伊勢山を繋ぐ尾根に、巳ノ戸沢が深淵に向かうようにして続いていた。

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満悦至極の思いで鞍部に戻り、後は正規の登山道を、巳ノ戸沢に下りていく。沢の畔を歩いていくと、稲村岩の壁が迫ってくる。岩の上から見下ろした谷底を歩いていると云うのが、なんとも不思議なことのように思えてくる。渡渉して巳ノ戸尾根側の山腹を辿るようになり、やがて昨日歩いた分岐点に到達した。其れで今回のラウンド・トリップが完成したことになる。我々は感慨深いような気分で、立ち止まった。

改めて登山道が急降下していき、巳ノ戸橋に達してから、中日原バス停迄の道を登り返していく。疲労感が一挙に蔓延していくようになり、民家の脇の階段を、溜息混じりに登って、漸く帰還した。中天の陽光に晒されて、茫洋とした風情で、稲村岩が佇立しているのを眺める。あの山々を歩いてきたのだと、反芻するようにして考えると、不思議な気持ちになる。疲労困憊の態で、其れでも充足した気分で、kz氏と私は、ゆっくりと東日原のバス停に歩いていった。奥多摩駅行きのバスは、計ったように、数分後に到着した。

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別記

2017/5/19
沢井駅(8:30)---築瀬尾根---高峰(9:50)---竜ノ髭(10:10)---日ノ出山(10:30)---日ノ出山北尾根---御岳渓谷---沢井駅(12:20)

2017/5/23
古里駅(7:55)---寸庭橋---越沢林道---大楢峠(9:30)---鍋割山北尾根---鍋割山(10:45)---奥ノ院〈甲籠山〉(11:00)---ロックガーデン---武蔵御岳神社(12:20)---丹三郎尾根---古里駅(14:00)

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