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2016年12月

重太郎新道から前穂高岳ふたたび(後篇)

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息子の罫君にダウンのシュラフを貸与しているので、私はシュラフカバーの中に、インナーシュラフを重ねて包まっている。暦表では十月になった北アルプス、岳沢小屋のテント場は、其れ程の寒さでは無いので、快適に眠ることが出来た。何よりも、いつもひとりで過ごすテント内に、ふたりで居るというだけで暖かい。

深夜に目覚め、テントの外に出ると、小粒の雨が降っていた。どうなることやらと、半ば諦めたような気持ちになって、ふたたび眠りに就いた。出発予定時刻の一時間前、午前四時のアラームで目が覚めると、テントを打つ雨音が激しい。駄目だったかと、私は観念して、雨が止むまで待機することを罫君に告げた。することもないので、シュラフカバーに戻った。止むを得ない、そう内心で呟いて、また眠り込んだ。

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2016/10/2
岳沢小屋(6:30)---カモシカ立場(7:20)---雷鳥広場(8:40)---紀美子平(9:05)---前穂高岳(9:50)---重太郎新道---岳沢小屋(13:00)---上高地(15:10)

茫洋とした意識に、鳥の囀る声が聞こえてくる。鳥が鳴いている。其の意味が脳に伝わる迄、、一瞬の間があった。そして、私は唐突に覚醒した。半身を寝具に入れた儘、テントの外に顔を出してみる。夜が明けたばかりのテント場に立ち込める霧が視界に入り、私は、慌てて現在時刻を確認した。一時間以上も眠ったようであった。雨が止んで、どのくらい経ったのだろうか。其れは判らないけれども、此れで、取り敢えず、重太郎新道を登ることができそうである。焦って行動することは、出来ない。私は、既に登頂は諦めることに決めて、ゆっくりと、登山の準備を始めた。

携帯式のサブザックと、クレッタルムーセンGungner40に、雨具と飲料と昼食用のカップ麺、そしてジェットボイルを詰めて、準備は終わりである。焦っていないことを確認するかのように、私は罫君と連れ立って、岳沢小屋のトイレ迄歩いた。上厠を済ませて、ふたたび瓦礫場の道をテント迄登った。其れだけで、起きぬけの身体に気怠さが染み渡ってくる。予定の出発時刻を一時間半も過ぎて、何処迄登っていけるのか、そんなことを思いながら、少し曖昧な気分で、私は出発を告げた。罫君は、満を持して、と云う感じでヘルメットを被り、其の表情に気怠い様子は窺えない。事前に説明している、重太郎新道の梯子と鎖場を想像して、緊張の面持ちのようであった。

雨上がりの朝靄の中を、無言で登り続けると、程無く岳沢小屋の赤い屋根を眼下にするようになる。全身の気怠さは、登り続けていくうちに消えて、ソフトシェルの上着に包まれた肌が熱気を帯びてくる。身体中が、漸く目を覚ましたような気分である。踏路は傾斜の度を増していき、木々の色彩は未だ、どんよりとした周囲の空気に寄り添うように、モノトーンの儘だった。楽では無い筈の勾配だが、私の前を、淡々と歩き続ける罫君の動きに逡巡は無いようである。

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紅葉の木々が岩壁に貼りつくようになって、鉛色の風景が少しだけ明るさを表出させる。巨岩の折り重なる踏路が始まり、やがて其の隙間を攀じ登る、と云う展開になる。私は罫君の前に出て、三点支持と、適切な岩の手掛かりの位置を示しながら、先に登る。攀じ登っていく先は、身体がやっと擦り抜けられる程度の幅であった。其れを少々の手間を掛けながら、罫君が登ってくる。其の、真剣な面持ちに、思わず笑ってしまう。

最初の岩場を終えると、直ぐに長い梯子が現われた。罫君に拠ると、最も恐れていた場所だと云う。摑まっていれば確実に安全な人工物なのだが、其れは必然的に垂直の儘高い処に登っていくと云うことで、其れが怖いと云う。理屈は判るけれども、此れを登らなければ先に進めない。怖いのならば、後からついて来るかと訊くと、ひとり残ると心細いから先に登る、と云った。恐怖感を秤にかけているようで、其の緊張感は充分に伝わってくる。そうして、ひとつひとつ、梯子段に足を掛けて登っていった。其の姿を下から見ながら、まさかとは思うが、落ちてきた場合に受け止められるような体勢に、私の身体にも力が入る。

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個人的に最大の難所と位置付けていた梯子を登りきって、罫君の動きも軽快になってきたようであった。カモシカ立場で漸く視界が開ける筈だったが、西穂の断崖は、幽谷の趣で霧に包まれている。重太郎新道は、此処からが岩礫の踏路が延々と続いていく。時折現われる鎖の付いた傾斜を、罫君が渾身の表情で登ってくる。其れを見て、鎖を両手で握り締めると、三点支持にならない、と云うようなことを伝える。息の荒い罫君が、無言で頷く。明神の岩崖が、黄葉の向こうに現われた。霧は未だ穂高に纏わり付いて、離れていく様子が無い。

瓦礫の岩肌に、白いペンキマークが点在している。其れに縋るようにして、罫君は四つん這いになって登り続ける。先行する私は、其れを上から眺めている。岳沢の底が、時折霧の合間に覗く。後方に、登山者のグループが現われた。追い着かれるかなと思うが、罫君は休むことなく登り続けている。今迄登ってきた山は何だったんだ。鎖を握り締めた罫君が、唐突に、感極まったように叫ぶ。私は、我が意を得たり、と云う気持ちであった。

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我々が雷鳥広場に到達したのは、テント場を出発して二時間が経過した八時四十分で、其れは驚くべき事実だった。前穂高岳に登頂できるのが、午前十時台であれば、其の実現は可能であると、私は考えていたので、此処迄の所要時間は、予想外の出来である。罫君が、辿り着いた途端に巨岩の上に仰臥している。精根尽き果てた、と云った様子にも見える。

駄目かなと思ったが、頂上迄行けそうな時刻だけど。そんな声を掛けてみると、其れなら行こうか、と無表情で云った。此処迄の途上で、申し分の無いペースで登っていると、彼を励まし続けてきたが、芳しい反応は無かった。登頂してやるぞ、と云う気負いも見受けられないし、仕方ないから登るか、と云うような、義務を課せられた虚無感を漂わせている訳でも無い。要するに、何を考えているのか判らない。確かなことは、此処迄、通常よりも早い所要時間で歩き続けて来たと云うことだけである。岩の上に大の字になっている罫君が起き上がったので、其れなら登るか、と、私は鸚鵡返しのような曖昧な返事をする。後続のパーティが登ってきたのを機に、我々はふたたび登りに掛かった。

二度目に登った重太郎新道の時に、吊尾根から見下ろした雷鳥広場を脳裏に描いた。楕円形の岩が突き刺さったような瓦礫の尾根は、恐竜の背鰭のようだった。今、其の上を歩いている。霧が晴れていれば、紀美子平は直ぐ間近に在る筈だが、相変わらず視界は開けない。踏路は、ふたたび巨岩の折り重なる勾配になり、いよいよ最後の長い鎖場に差し掛かった。濡れた岩に刻まれた裂け目に、慎重に爪先を引っ掛け、鎖にしがみつく様にして罫君が登攀している。鎖の無い箇所に掛かると、我罵っと四つん這いになって登り続けている。前を行く私に追い着いて、とうちゃん余裕だね、と罫君が云う。二本足で登っている私は、ふたたび、我が意を得た気分になっている。

雷鳥広場から僅か二十分程が経ったばかりの、険しい鎖場の途上で、背後が明るさを増してきた。頭上は厚い雲に覆われているが、遥か遠くの岳沢が、眩い緑色の山肌に変わっていた。晴れる。何と云う僥倖なのかと、私の意識が高揚してくる。罫君は、必死の形相で、登り続けている。巨岩の上に、僅かに抉られたクラックに手足を確保して、登っている。此の穴は、誰かが作ったのかな。丁度いい場所に刻んである。そう罫君が云った。

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長い鎖場の果てに、最後の梯子を経て、紀美子平に到達した。出発から約二時間半が経っていた。標準コースタイムよりも随分早く、此処迄来ることが出来た。滑らかな表面の巨岩に囲まれた紀美子平には、デポされたザックが散乱するように置かれている。其れは考えてみると奇妙な光景なのだが、罫君は到達の充足感で満たされているのか、特に感想は云わない。そして間もなく、周囲を覆っていた白い霧が、照明器具のディフューザーのような、柔らかな明るさになっていった。そして、明神岳と前穂に掛かる雲が流れて、青空が表出した。陽差しに包まれて、暖かくなった紀美子平で、我々は何時迄も空を見上げていた。

充足感に包まれていたが、陽が差し込んできた頃合に此処に居る状況に、逸るような気持ちになって、我々は前穂に向かって登攀を開始した。サブザックに飲料を入れて、Gungner40はデポした。最後の登攀は険しいが、三十分で登頂することができる。岩塊の頂点に向かって、夥しい空身の登山者たちと擦れ違いながら登った。南側に回り込んで明るくなった処で、罫君が少し苦しそうな顔をしている。どうしたのかと訊くと、なんだか腕が痛いと云う。疲れたのではなく、両腕が肩の辺り迄痺れるように痛いと云った。

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峻険の岩塊、重太郎新道を、罫君はなりふり構わず四つん這いで登ってきた。其の疲労が集積しているのかもしれない。腰掛けて休憩して、水を飲むように云った。後続の徒が、我々の傍らを通り過ぎていく。無理しないで引き返すか、と云うと、罫君はかぶりを振った。おかしいなあ。そんな呟きで腕をぐるぐる回しながらも、罫君は、ふたたび頂上直下の登りに掛かる。白い雲が流れて陽が差し込んで、程無く別の雲が流れてきて頭上を覆った。空が近い。もう直ぐ頂上に着きそうな処で、ふたたび罫君が立ち止まって、少し苦しそうに腕を回す。頂上から降りてきた若い女性が、もう、直ぐ其処だから、と罫君に云った。

瓦礫の地に白い霧が覆われている。前穂高岳の頂上に立ち、罫君は山名標を背もたれにして座り込んだ。四年前に初めて登った此の山頂を思い出して、また霧だけを見るのかと、私は感慨深い気分だった。今日の霧は明るくて、息子とふたりで登頂した満足感もあるので、悲壮感は微塵も無い。私は罫君を立たせて、山頂の北端に向かって歩いていった。歳月を感じさせるケルンが点在している。其の瓦礫の地を踏みしめ、やがて頂上部のエッジに着いた。涸沢カールの広がっている筈の方角を眺めていると、やがて雲が切れて、奥穂の山肌が姿を現わした。ほら、あれ、などと、慌てて罫君に云うが、疲れきった高校生は岩に腰掛けた儘立とうとはしなかった。

山頂に居て、陽が差したのはほんの僅かな時間であったが、其の儚さも、また趣深いものであった。常念岳方面に、雲海が広がっている。其れを眺めて、本当に登頂できたんだなと、私は改めて感慨に耽った。

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腹が減った。ラーメンを此処迄持ってくるんだったあ。罫君が云った。私も、首肯した。早く紀美子平に戻って、ラーメンを喰おうか。そう云うと、罫君は元気よく立ち上がった。

山名標に戻り、ふたりで並んで、写真を撮った。シャッターを押して呉れた壮年氏が、其れを持てばいいと、足元に置いてある、前穂高岳、標高3090mと書いてある板切れを指した。其れをふたりで持って、写真を撮って貰った。帰宅してから、其の写真をプリントして、食卓の壁に貼って、何時も眺めている。写っている親子は、なんとも曖昧な表情をしていた。其れは、嬉しさと安堵感と、疲労感の混淆した、曖昧な笑顔だった。

追記

紀美子平でカップ麺を食し、重太郎新道を引き返した。岳沢パノラマ付近で二十名近い下山パーティに追い着いて、渋滞に巻き込まれながらも、なんとかパスして岩塊の道を下った。岳沢小屋に帰還して、罫君は漸く笑顔になり、着込んでいた服を脱いだ。岳沢の登山道を軽快に踏破し、河童橋で、最後の記念写真を撮って貰った。岳沢の上方に聳えている筈の穂高連峰は、やはり雲に覆われて見えなかった。

帰途のバスで新島々駅迄。其処から電車で松本駅に着き、予約済みの高速バスの発車時刻迄、松電バスターミナルビルの地下で食事をしたりして時間を潰した。今回はアルピコ交通発行の、「上高地ゆうゆうきっぷ」を利用した。直通の「さわやか信州号」に比べると、往復で四千二百円安い。松本乗り換えの上高地迄の運賃と比較しても三千円くらいの差があるので、ふたりで使用するとかなりの節約だった。チケットは独立した一枚ではなく、乗車する区間の紙片がそれぞれ束になっているだけなので、失くさないように注意が必要である。

重太郎新道から前穂高岳ふたたび(前篇)

何処で誰からどのような影響を受けたのか、今夏は富士山に登りたいと次男の罫君が云うので、其れならば、と計画を立てたのが山開き前の六月頃だった。私の経験した富士登山は、あの御殿場ルート日帰り往復だけである。苛烈だった登山の記憶は、今も鮮明に蘇ってくる。日頃、スマートフォンを相手にして、部屋に閉じ籠もっている高校生に、耐えられる訳が無い。そう思って、此処は無難に吉田口五合目からの往復にしておくかと考えてから、やはり、あの非人道的な環境であろう山小屋に高い代金を払って宿泊するのは嫌だなと思い直した。そうして、馬返しから五合目に登り、テント場の在る佐藤小屋で幕営し、程よい未明に出発して往復してこようと云うプランに落ち着いた。

学校の夏休みが始まって間もない七月下旬に決行と決まったが、相次ぐ台風の影響で天候が不安定になって順延となった。高校生は夏休みだが、勤労者である私は都合を事前に設定しなければならない。八月の中旬に改めて休みを取ったが、今度は太平洋から真直ぐ北上してきた台風九号が関東を直撃し、またもや計画は御破算になった。因みに此の台風は北海道迄上陸して農作物を破壊し、其の後の野菜価格の高騰に発展することになる。それはそうとして、罫君の夏休みも残り一週間となり、太平洋上では次から次に低気圧が発生してくる。本土の天候も不安定を極めている。私の都合もそう頻繁には変更できない。富士山の山閉めも前倒しに早く、九月十日となっているので、残念ながら今夏の富士登山は中止と決定した。止むを得ない。

止むを得ないのであるが、親子でテントに泊まって山頂アタック、と云う珍しい計画に高揚していた私の気持ちが納まらない。成長するほどに意思の疎通が難しくなってくる子供と、自然の偉大さの支援を受けて、思い出深い山行をしてみようではないか、と云う気持ちが納まらない。そういうわけで、九月になっても富士山に比肩できる登山の計画を考えた。そうして、私が今迄の山行で最も感銘を受けた、重太郎新道からの前穂高岳を実行することにした。罫君に其れを持ちかけると、どっちでも、と云う前置きがあるような口調で、いいよと云った。

2016/10/1
上高地(13:00)---岳沢小屋(15:40)

Maehomap

鉛色の空が虚しいバスタ新宿から、松本行きの高速バスに乗り、上高地行きに乗り換えても、天候は曖昧な曇天の儘であった。しかし、釜トンネルを抜けて、焼岳の赤茶けた山肌を見上げると、陽差しが照り付けている。此れは、と云う期待に応えてくれるかのように、バスが上高地に到着した時は、見事な晴天となった。

食堂で腹ごしらえをしてから、観光客でごった返す河童橋の袂に歩いていく。峻険な北アルプスに登ると聞いて、其れなりに緊張感を抱いてきた罫君は、なんとも怪訝な表情である。橋の真ん中から、穂高連峰を見上げて、明日はあの山に登るのだと云いたいが、岳沢は霧に煙って殆ど見えない。しかし、観光客の雑踏から離れて、梓川の畔を歩いているうちに、漸く凡庸では無い自然景勝地にやってきたと云う雰囲気になった。あの山はすごいね。罫君が感心したように六百山の前衛ピークを見上げて云った。岳沢湿原から眺める良景である。

岳沢登山口に入り、鬱蒼とした樹林帯を登り始める。明日はテント場に殆どの荷物を置いて前穂に登るので、多少の負荷の掛かる山歩きは、此の上高地から岳沢小屋の往復だけである。私が背負っている、クレッタルムーセンHuginには、いつも通りのテント泊一式が詰め込まれているが、今回は相方が居るので、重量は其れ程でもないが嵩張る衣類を、罫君に背負わせたGungner40に入れてある。岳沢小屋で補給できるから水も持たないので、ザックの重さは其れ程でも無い。我々は、雨後の湿った雰囲気の漂う登山道を、淡々と登り続けた。

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小尾根を縫うようにして続く登山道が勾配を上げて、前方に明るさの気配が現われる。広大な岳沢の手前を遮る尾根に乗った処で最初の休憩を取る。此処迄約三十分間歩き続けたが、高校生の表情に疲労の色は無い。案外体力があるもんだね、と話しかけると、毎日の電車通学で、(足腰が)鍛えられてるのかな、と云った。彼と一緒に丹沢や奥武蔵の山に登ったのは四年くらい前のことで、其の頃は小学生だった。出掛ける前に袋菓子をたくさん買い込んで、登山道にベンチが在ると頻繁に休憩を要求し、嬉しそうにお菓子を食べていたのを思い出す。子供と云うのも、僅か数年で、随分雰囲気が変わるものである。高校生は、私の煙草が終わるのを見て、行こうか、と云った。

天然クーラーを通過して、瓦礫場の道に変わり、一挙に風景が広がった。初めて此の道を登った時の感動を思い出す。瓦礫の白い岳沢を挟んで、峻険な山々が天に向かって延びていく風景に、圧倒された。しかし、今日は分厚い雲が頭上を覆って、西穂の連嶺を隠している。罫君に、あの感動的な光景を見せたかったのだが仕様が無い。と思っていると、高校生はザックを置いて、上高地を遥かに見おろす風景を、熱心にスマートフォンのカメラで撮影している。あれが、さっき渡った河童橋だと教えると、素直に驚いていた。やはり、来てよかった。私は内心で安堵した。

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岳沢に併行する登山道が、時折瓦礫の淵に近づくと、上高地が徐々に遠く望むようになる。分厚い雲から、ぱらぱらと雨が落ちてきた。大したことの無い小雨だが、罫君にレインウェアの上着を出すように指示した。子供と高山に行く為に、新たに準備したのは雨具だけである。寝具はどうするかと考えたが、其れ程の寒さでは無いだろうと想像して、シュラフは貸与するとして、私はサーモライトリアクターとシュラフカバーで眠ることにした。行動中の雨具は絶対に必要で、出費を強いられるなと思ったが、評判のよい美津濃製ベルグテックが廉価だったので購入した。赤いレインジャケットを着た罫君がザックを背負って、ふたたび淡々と登るのを背後から見上げる。クレッタルムーセンGungner40にヘルメットを括りつけて、カリマーのザックカバーを被せているので、ザックが瘤のように膨れている。雰囲気だけは、初心者に見えない精悍さである。

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丹念に休憩ポイントが表示される標柱が現われるが、我々は意にも介さず登り続けた。順調に歩を進めていくが、胸突き八丁の岩の階段で、徐々に私と罫君の差が広がっていった。想定外の健脚ぶりである。此れなら明日は大丈夫だろう。私は、ペースを変えずに長い勾配を歩き続けた。岳沢の左岸に下り、順調に瓦礫場を横断して、最後の登りは晩秋の雰囲気を醸し出す、紅葉の道であった。次第に御機嫌な親爺たちの声が響いてきて、久しぶりの岳沢小屋に到着した。

テント場の受付を済ませて、水を補給してから、テント場に向かう。ふたたび瓦礫場を渡って、前回設営した最奥のサイト迄登った。巨岩の在るお気に入りの場所に到達して、荷を下ろした。ポーカーフェイスだった罫君は、緊張の糸が切れたように座り込み、汗を拭きながらペットボトルのお茶をごくごくと飲んだ。テントを作り、カップ麺を食して、あとはすることも無い。晴天だった上高地の様子とは裏腹に、穂高の断崖の上から、不穏な色の霧が降りてくる。明日の朝、もしも雨だったら。罫君が一応は聞いておこうと云う態度で質問する。

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岳沢小屋から前穂を往復し、上高地に下山する。私の経験、初めての北アルプスであった重太郎新道の登山。其の、今回と同じコースの所要時間は、十時間半であった。帰途に就くバスに乗車できる時刻に下山する為に、逆算すると、明朝の出発は午前五時と云うことになる。そして、其の時刻に雨が降っていた場合は、出発を遅らせなければならないだろう。単独行の時とは事情が違うので、安全に就いて、万全を期さなければならない。私は、もしも雨なら登頂は出来ない、行ける処迄行って引き返す、と答えた。

雲の隙間から、夕暮れの陽差しが唐突に現われて、明神岳の険阻な岩肌が赤く染まった。暗雲に包まれていた岳沢に明るさが戻り、青空になった。そして、暫くすると白い雲がふたたび広がって青空を隠し、やがて、不穏な色彩に戻っていった。目まぐるしく変化する十月の北アルプスの空を、我々は茫然と見上げている。此の自然に抗うことなど、出来ない。そう実感できる光景だった。

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もし登れなくても、と罫君が云った。此の景色だけでも来た甲斐があるよ。雲に包まれた儘、上高地の底が薄暮に転じていった。此れは快適だあ、と云って罫君はテントに入ってシュラフに潜り込んだ。其れからはスマートフォンを見つめて、何かに没頭し始めたようである。私は、安堵感に包まれたような気分で、暮れていく岳沢を眺める。ぼんやりと紫煙を燻らせていると、山懐の谷が、あっと云う間に、夜になっていった。

武尊神社から武尊山(後篇)

薄暗い北尾根から漸く稜線に出て、武尊連峰の一角を担う剣ヶ峰山に立った我々は、最高峰、沖武尊へと続く稜線に戻って、好天の登山道を歩き続けた。紅葉の断片が、夏山の緑と混淆しながら、秋の彩りに染めていこうとしている。しかし、陽差しを受けて歩き続けていると、徐々に暑さで疲労していき、絶景の稜線散歩と云う気分は、途中に在る鞍部を越えて、1975mのピークに達する頃には徐々に霧消していった。未だ着かないのか。そんな風情で眼前に聳える沖武尊を見上げている無言の友人、磨都井君の様子を、私は慎重に窺っていた。

此の儘稜線を進んだ先の、沖武尊山頂直下は急坂だと、ガイドブックには明記してある。そして、1975mピークから、其の急登の取り付き迄、延々と降りていかなければならない。沖武尊から須原尾根に下る途中の鎖場を怖れる余り、此の稜線をふたたび引き返し下山しようと云う友人の意思が、何処で揺らいでくるのか。其れは間もなくやってきそうな気配を感じる。折角の稜線歩きの途上なのに、同行者の機嫌を伺いながら奸佞の算段をしているようで気が退けるが、止むを得ない。


Htk7

2016/9/25
武尊神社(7:10)---林道終点駐車場(7:35)---武尊沢渡渉地点(8:50)---剣ヶ峰山(10:55)---武尊山(12:25)---手小屋沢避難小屋分岐(15:05)---林道終点駐車場(16:20)---武尊神社(16:55)

急斜面のジグザクの道に貼り付き、沖武尊の直截的な登りが始まる。踏路は砂礫になって、時折ずるりと滑るから、淡々と歩くと云う訳にもいかない。下山者が、及び腰で向かってくるのを避けてやり過ごしながら、息つく暇の無い急登を続けた。前武尊へと続く山並みが、低潅木に隠れていく。振り返ると、剣ヶ峰山が怜悧な姿で尖っている。圧倒的に広大な武尊連峰の懐で、自分が藻掻きながら壁を攀じ登っている蟻のように思えてくる。

砂礫の道が落ち着いて、進路は徐々に東面に向かい、尾根が合流した。中ノ岳方面からの登山道に、ハイカーが行き交っている。山頂の方向に、空が広がっている。ひと登りで、武尊山の最高峰、沖武尊の山頂に到達した。立派な風景指示盤が設置された頂上広場に、多くの登山者たちが食事を摂って休憩している。やれやれと云う気分でザックを下ろし、低潅木の向こうに広がる北側の風景を眺めた。日光白根山から皇海山迄、国境の山脈が連なっている。そして、此の武尊山を眺めて詠嘆した至仏山と、ひと目で判る燧ケ岳の、尾瀬の山々が遠くに浮かんでいた。

磨都井君が腰を下ろすこともせず、立った儘パンを齧っている。私は、殊更にのんびりとジェットボイルを取り出して、湯を沸かし始めた。カップ麺に湯を注いでから、出来上がりの間に煙草に火を点ける。いつか登った至仏山のことなどを話題にするが、友人は生返事である。私は此処で、下山はどうするか、と云うようなことを、努めてどうでもいいような口調で訊いた。内心では、此処迄来ても、彼が鎖、梯子を忌避して引き返すと云ったら、別行動を提案する積もりであった。

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結局は、剣ヶ峰山からの稜線アップダウンの疲弊が余程堪えたのか、磨都井君は須原尾根で下山することに同意した。其れで私は漸く安堵して、カップ麺を食した。午後一時を廻って、山頂のハイカーたちが次々に下山の途に就いていった。みんなあっちに下山していく。友人が不安そうに云う。あっち、とは、我々が向かう須原尾根とは反対側のことである。武尊山登山のマジョリティ・ルートは川場村方向なので当然と云えば当然なのだが、友人の狼狽ぶりは鬱陶しい限りで、仕方が無いので其の儘黙殺することにした。誰も居なくなった山頂から、改めて川場谷を挟んで広がる武尊連峰の眺めを堪能する。山々の遠い彼方に、関東平野が広がっている。武尊沢の奥深い谷底から登ってきた身にとって、其の山頂からの風景は、余りにも穏やかで、漠々たるものであった。

西側に延びる尾根に歩を進めて、緩やかな傾斜を軽快に下る。振り返ると、沖武尊の山肌に、紅葉が纏わりつくようにして色づいている。円盤が縦に突き刺さったように思えた剣ヶ峰山も、此処から眺めると綺麗な曲線の頂点が、人工的なまでに尖っていて美しい。風景に見惚れながら平坦になった踏路を進むと、やがて尾根の分岐に掛かるピークに達した。藤原武尊の名が付いている標高2040m圏峰を過ぎると、右手に急降下する岩礫のルートに入った。
下降していく尾根道の途中で傾斜が穏やかになり、左手に開けた箇所から、藤原武尊の断崖を横から眺める。暫く歩いていくと、正面に深い森の風景が広がった。須原尾根の連なる彼方に、峻険な山塊が鎮座している。白毛門から続く馬蹄形の山並みを前衛にして、谷川岳の奇怪な山容が広がっていた。展望所のようになっている断崖の上は、武尊山の高みから風景を眺める最後のポイントで、私は名残惜しい気分で紫煙を燻らせ、佇んでいた。すると、先に行ってる、と、落ち着かない様子で友人が云った。

展望所の右手から、岩混じりの道になり、程無く崖状になって、鎖が設置されていた。危険印がいよいよ始まった訳だが、臆していた筈の磨都井君は、率先して鎖を掴んで降下していった。見おろすと垂直の崖のようにも見える巨岩の割れ目を、慎重に下る。鎖が堅牢なので足場を確認しながら、ゆっくりと降りていった。いよいよ垂直になる箇所で、梯子が立て掛けられていて、其処に移動するのだが、此れが見るからに朽ち果てそうな古びた梯子で、却って肝を冷やした。

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其の後は四箇所の鎖場が在り、いずれも露岩を無理矢理に降下していく難所であったが、最初の古びた梯子が最も怖かった、と云うのが後になっての印象である。意外なことに、危険印にあれだけ腰が引けていた磨都井君だったが、腹を括ったようで、何事も無く難所をクリアしていった。

「怖がっていた割には、随分あっさりと下っていったね」
「崖の上にひとりで残ると、怖いからな」

判らないでもないが、やっぱりよく判らない。とにかく、無事に鎖場が終わったことで、奸佞を弄して此処迄彼を誘導してきた私としては、云いようの無い安堵感を覚える。岩礫の道はいつしか樹林帯の尾根道に変わり、須原尾根は緩やかに高度を下げながら続いていた。尾根上の標高は、まだ1800mもあるのだが、沢の音が随分近くに聞こえる。其れは不思議な感覚だった。尾根の分岐するピークを越えて、沢音は徐々に高まっていく。手小屋沢避難小屋を下に見る箇所に達すると、手小屋沢が直ぐ其処にあるのだな、と判った。

尾根から沢に、其の繰り返しを九十九折になって、須原尾根から武尊川へと下っていく。急速に傾いていく陽差しを浴びて、今朝通過した分岐点に戻った。獅子ヶ鼻山から延びる、対岸の尾根に、黄昏の余韻も無く、陽は隠れていこうとしている。我々は、往路に歩いた林道を歩き始めた。朝は車で埋め尽くされていた最奥の駐車場は、空っぽになっていた。

Htk10

其処から、ふたたび長い林道歩きになったが、友人の足取りが極端に遅くなった。とうとう持病の足裏痛がぶり返したようであった。愛車をダートに入れたくないと云って、最奥の駐車場迄を歩くことにしたのは彼の決断なので、此れも止むを得ない。私は、不機嫌になっていく友人の気配を感じながら、歩調を合わせるのに苦労しながら、ゆっくりと暮れていく林道を、歩き続けていた。

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