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白馬岳(後篇其の弐・山頂で初めてのブロッケン現象に遭遇する)

夜行列車の睡眠不足と、想像していた以上に苛烈だった猿倉ルート経由の疲弊で、白馬岳頂上宿舎裏手のテント場に、ほうほうの態で到達した私は、結局三時間以上も午睡を続けて、我に返った。テントの外が未だ明るいのを確認してほっとする。隣のテントから、若者たちの会話が聞こえる。酒宴は続いているようで賑やかである。会話の内容は、職場の話題ばかりなので、学生では無いと云うことが判る。否応なしに聞こえてくるので聞いてしまうが、話題の端々から察すると、医療、福祉関連業界の集団のようである。女性が一名だけ居て、あとは全員男性である。同僚が一斉に休暇を取って登山に行けるような業種では無いような気もするが、まあどうでもよい。

私が午睡に入る前から、職場の話題で盛り上がっていた集団は、未だに同じような話を肴にして飲み続けている。明日は白馬岳で御来光を拝み、白馬鑓温泉経由で下山する、と云う計画のようである。其れにしても、と思う。此処迄登ってきて、酒宴は愉しかろうが、日常の由無し事を飽きもせずに喋り続けているのには、呆れつつも感心してしまう。私は珈琲を淹れて煙草に火を点ける。稜線の側に窪んだ小平地に広がるテント場から空を見上げると、陽は未だ中空に在って明るい。私は、七分丈のパンツにTシャツの姿で、薄手のウィンドブレーカーをサブザックに入れた。五月蝿いテント場から離れて、石塊の坂路を登り程無く、国境の稜線に立った。


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2016/8/7

猿倉(6:50)---白馬尻小屋(7:50)---大雪渓起点(8:30)---大雪渓終点(10:20)---葱平岩小屋跡(10:40)---避難小屋(11:40)---白馬岳頂上宿舎(13:00)---テント設営後休憩---白馬岳頂上宿舎(16:50)---白馬岳(17:20)

丸山から杓子岳への稜線が、未だ赤味の無い斜光に照らされ、其の陰影のコントラストが美しい。先程迄ごろごろしていたテント場を見おろす。日蔭になった窪地に、カラフルなテント群が寄り集まっている。稜線上の吹き抜ける風と眩い光に包まれて其れを眺めていると、なんとも薄ら寒い光景のように感じられる。正面には、立派な岩山が逆光のシルエットで、立ちはだかるようにして屹立している。机上の地図で眺めると、白馬岳の稜線から派生する、なんでもないような山に思える旭岳である。実際に対峙して眺める旭岳の姿を見て、やはり山は実際に登ってみないと判らない、そんなことを再認識する。

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写真で何度も見たことのある白馬山荘が聳え立っている。其れに向かって登り続けて、山荘前の展望所に大勢の人が佇んでいるのが目視できるようになったので、立ち止まり振り返った。雲海に浮かんでいる峻険で壮麗な山塊は、鋭利な三角形の剱岳と、立山連峰だった。唐松岳から眺めた、霧の中から忽然と現われた剱岳を思い出す。あの時の感動には遠く及ばないが、黄昏の雲海に名峰が静かに浮かんでいるのは、また格別の眺めである。

山荘の玄関と展望レストランの間を通り抜けると、いよいよ白馬岳の山頂が、直ぐ其処に在った。砂礫の登山道を登り続けて、振り返ると山荘も旭岳も、どんどん眼下に見るようになっていった。信州側から、目まぐるしく立ち昇る雲霧が杓子岳を覆っている。剱と立山は、陽炎のように霞んでいく。北西に傾いていく太陽の向こうに、朝日岳の稜線が曖昧に連なっているのを眺めながら、徐々に近づいてくる山頂に向かって、歩いた。

標高二九三二米、白馬岳山頂に到達した。黄昏の色の気配が忍び寄るピークには、人影が無かった。此れが、あの人が押し寄せる人気の山の頂なのかと思うと、少し意外な気がした。白い人工物が中空に立っている。新田次郎の「強力伝」に描かれた、壮絶な経緯で運ばれてきた風景指示盤が素気無く鎮座している。


昭和十六年と云う時代の価値観に思いを馳せながら、花崗岩の造形物に、そっと手を置く。眺望の出来る、石に刻まれた全方位の山々を記す文字は、風化の所為なのか、明瞭では無いのだけれど、其れは重要な問題では無い。自分が虫の息で登り詰めた大雪渓の猿倉ルートを、此れが背負われて来たのかと想像する。自分が体感してきた労苦を基準にして、「強力伝」の主人公が体感したであろう苛烈さに、思いを馳せてみる。冷気のような風が、白馬岳を通り抜けていく。私は茫然となって、断崖の淵のような形状の、白馬岳山頂に立ち尽くしていた。

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ぽつりぽつりと、登頂してくる人が近づいてくる。私は、頂上部から少し離れた処に移動して、紫煙を燻らせる。切れ落ちている信州側の断崖には、足首くらいの高さにロープが張ってあるが、踏み越えて落ちてしまったら一巻の終わりである。其の岩崖の底から、断続的に霧が吹き上げてくる。戸隠や妙高の山々の景色が霧の合間で見え隠れしている。不意に、目の前が真っ白になった。そして、唐突に、虹色に縁取られた人影が出現して驚いた。其れは徐々に彩度を失って、霧が晴れると消え失せた。視界が開けると、白馬村の麓に、巨大な山の影が現われた。成る程、影白馬、などと感心していると、ふたたび目の前が真っ白になって、不思議な虹の輪と、自分の影が浮かび上がる。

此れは何と云う名の現象だったかと、咄嗟に思い出せず、通りかかった若い男性に訊いてみた。ああ、ブロッケン、と、単独登山者は何事も無いと云う風に答えた。そう聞いて、ぽんと膝を叩きたくなるような気分になった。北アルプスに初めて足を踏み入れてから四年が経って、漸くブロッケン現象に遭遇したと云う訳であった。沈んでゆく陽の光は、灯滅前の蝋燭のように輝きを増していて、断続的に吹き上がる霧に輪光を照射する。其れは徐々に、勢いを失っていった。夢から醒めたような気分で、白馬山荘の向こうに広がる北アルプスの全景を眺める。杓子岳と鑓ヶ岳が、斜光によるコントラストで立体的に聳えている。

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何時迄も眺めていたい風景だったが、吹き曝しの山頂に留まるには、少し寒さを感じるようになっていった。薄着の儘登ってきた迂闊さで、止むを得ず、私は山荘に下りていった。落日の絶景が間もなく始まる。宿泊客が山荘の外に出てきて、後立山連峰の方角に向かって、思い思いに佇んでいる。私も其の群れに混じって、暮れていく山々を眺める。単独の壮年男性氏に話し掛けて、互いの山座同定を披瀝しているうちに会話が盛り上がってしまい、其れは愉しい時間だったのだけれども、薄着故の寒さが堪えてきた。会話を打ち切って、少し寂しそうな表情の壮年氏と別れ、私は頂上宿舎に向かって砂礫の道を下っていくことにした。

杓子岳の斜面がいよいよ赤く染まって、其れから、徐々に明度を下げていく。登山道が途端に薄暗くなっていくような気がした。夕陽は旭岳の向こうに隠れて、端整な山の容姿が、紅く縁取られたシルエットになった。遠くに浮かぶ立山連峰は、棚引く雲と一緒に朱色に染まって、静かに佇んでいる。私は、薄着で黄昏の山頂に登ってきたことを、何時迄も、後悔した。


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