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2016年4月

山上の白霧・毛無山の往復

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毛無山に登ってきたことを記す。そうは云っても何処の毛無山かと問われる場合も、あるかもしれない。同名の山が日本国中、幾つ在るのかは知らないが、随分沢山在りそうである。富士五湖のひとつ、本栖湖の南面から、静岡、山梨の県境をなぞるようにして、天子山塊が連なっている。竜ヶ岳、雨ヶ岳から天子ヶ岳迄、富士山の西側を縦断している山並みの最高峰が毛無山で、毛無山と名の付く山では最高峰とのことである。其れに登った。標高1964mの最高点ではなく、一等三角点の在る1645.5mが登頂点とされていて、其処に立っただけである。
河口湖からバスで一時間近く掛かって辿り着く朝霧高原が毛無山の登山口であるが、公共交通機関を利用して、わざわざこんな処には来ない。今回は友人の間戸井君との、久しぶりの山行である。わが友人が自家用車を導入してから、此れ迄行く気にもならなかった山に、登ることが出来るようになったのは非常に有難いことではある。しかし、彼の登山への情熱とでも云うものは、衰微の一途を辿り、とどまることを知らない。今回の友人の主題は、焚火台を購入したので薪を持ち込んでキャンプ場に自家用車を乗り入れ、焚火をしたいと云うことである。其れで朝霧高原迄、遥々やってきたのである。毛無山登山は謂わば其のついでのようなもので、我が登山隊の目的は、言葉にするだけで堕落してしまいそうな気分になる、所謂オートキャンプなのであった。登山がオプショナル・ツアーのような恰好になり、甚だ面白くないが、止むを得ない。

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2016/4/9

麓(9:30)---不動の滝見晴台(10:10)---富士山展望台(12:25)---毛無山(13:00)---麓(16:10)

河口湖インターで高速道路を下りて、国道139号を延々と走る。富士山は曇天にも係わらず、全容を表出していた。常識的な時刻にキャンプ場入りする為に、毛無山の往復時間を逆算して出発する筈であったが、間戸井君は寝坊をした関係で、一時間以上も遅れて私をピックアップして呉れた。週末の中央道を都心から出発するには危険な事態で、案の定小仏トンネル付近で渋滞に巻き込まれた。果たして毛無山に登る時間はあるのかと内心で苛立っていたが、其の後は順調に移動できたので、毛無山の山麓にある、其の名もずばり「麓」と云う集落に在る、登山口の駐車場に到着したのは、午前九時を過ぎた頃であった。山頂迄、メインの登山道を往復してきても、午後三時には戻ってこれる時間である。有料駐車場は、無人の料金箱に駐車料金と車輌情報を記した封筒を入れておくと、追って自動車のワイパーに領収書を挟んで呉れると云うシステムのようであった。何はともあれ、登山口に此処迄簡単に到達できるのは、自動車の恩恵である。素直に感謝して、登ってこようと思う。

林道のゲートを越えて歩き出す。神社と金山の採掘場跡を通過して、間もなく、雪見岳と金山の鞍部へと詰める沢からの瀬音が聞こえてくる。谷が広がって林道が尽きようかと云う地点で、水の無い沢を渡渉して、尾根に登り始める。地蔵峠に向かう道と分岐する堰堤から、漸く登山道らしくなった。樹林帯の尾根道は、つづら折になって登り、迂回を繰り返す割には急登であった。何度目かの折り返しで、先程自家用車で走ってきた、ふもとっぱらと云う名の、整備されたキャンプ場を見おろす景色が広がった。靄靄とした空に、富士の姿はすっぽりと隠されていた。尾根に乗ってからは、自然林の中を明るい陽光を浴びながら登っていく。随分歩いた処で、一合目、の標識が現われたので、未だ先が長いことを知る。

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徐々に巨岩が折り重なるようになって、ロープが垂らされている箇所も現われ、登山道の風景は一変した。細尾根の脇を辿るように登り、徐々に濠音が聞こえてくる。尾根上に出ると、錆びた鉄板に「朝霧高原から下部温泉コース・不動滝」と記された道標が、朽ちた儘捨てられていた。此処が登山地図に記された「不動の滝見晴台」で、岩の上に立ち、此処迄登ってきた尾根の反対側の断崖の先を眺めると、山腹に抉られた岩壁に見事な滝が落ちている。落差二百米の不動滝は二段になって落ちていく形状で、雨天続きの所為か、充分な水量で瀑音を響かせている。歩いて登ってこなければ見ることができないと思うと、堪えられない名瀑のようにも見える。

小休止を終えて、次は登山地図に記されているポイントの、五合目を目指す訳だが、其の途上では二合目、三合目と、丹念に道標が立っていた。岩塊の合間を登っていく箇所も増えて、随分歩いたのに、漸く現われたのが三合目の手製道標だと思うと、却って疲弊が誘発されてくる。間戸井君は岩場が頻発してくるようになって動きが鈍重になっている。此れはいつも通りのことであるから、然程どうしようと云う想念も湧かない。途中でレスキューポイントの看板が立つ平坦地が現われ、其処で後発のハイカーに追いつかれる。中年の夫婦は、ふたりとも苦悶の表情で通り過ぎて行った。

五合目に到着すると、朝霧高原から下部温泉コース、の鉄製看板が、今度はきちんと樹間に設置されていた。五合目であるから道半ばに達したことになるが、標高は未だ千四百米で、あと五百米以上も登ることになる。高度が上がるに連れて、自然林の枝は疎らな感じになり、春の雰囲気が逓減していく。天子山塊の南方面に連なる山々が見渡せるようになってきた。登山道の尾根は等高線の幅を見ると首肯できるが、存外に急峻である。天子山塊の姿を、右側が開けたり左側になったり、道筋が右往左往するので交互に眺めながら登っている。右側が開けると対岸に、毛無山最高点からの支尾根が峻険な形状で麓集落の方に落ちていくのが見渡せる。其の一角が鋭利な小ピークになっているのだが、友人は其れを見るたびに、あれが毛無山の頂上ではないかと云うので、私は其のたびに説明して否定する。延々と続く急登に、間戸井君が飽きてきているのは薄々判っている。今日も途中で足の痛みを訴えられるのかもしれないと警戒したが、特に其のようなことは無い儘登り続けた。オートキャンプで焚き火、其の愉しみが在るので、なんとか持ち堪えているのかもしれない。

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忘れた頃に現われる、六合目、七合目の道標を通過して、一時間が経過しようとしていた。先頭を行く間戸井君が下山の徒に話し掛けられて立ち止まった。壮年の男性は、自分は毛無山の管理を任されていること、三千回の登頂を目指していること、此の辺りでは名物おじさんと呼ばれていること、何合目、と云う標柱は自分が設置したこと、などを披瀝した。三千回を目指すと云うからには二千回以上登っていることになるのだろうが本当か、と其の時は疑念を抱いた。名物、を自称されると、其の信憑性は愈々薄まってくるようにも思えるので、後日、インターネットで検索を掛けてみた。其の結果、多くのハイカーが毛無山登山に於いて、季節を問わず名物おじさんと遭遇しており、五年前くらいの記述では、登頂千八百回と公言している記事も発見した。五年間が経っていることを考えると、名物氏の現在の登頂回数が、二千回を越えていても不思議ではない。疑ってすみません。と、今更ながら思う。名物氏の、毛無山への称賛の言辞は止むことがなかった。二週間前には田中君も来たからね、と云うので、一瞬何のことかと思ったが、どうやら田中陽希氏のことのようであった。

名物氏は、もう直ぐ展望台で、九合目が稜線だから登りは其処で終わりと云った。其れで友人は非常に上機嫌となり、凄い人と出会えたな、などと云っている。しかし、もう直ぐ、と云われた展望台はおろか、八合目の標柱もなかなか現われないので、間戸井君はふたたび寡黙になってしまった。瓦礫混じりの斜面の、何でもないような処に漸く八合目の票が立っており、此の時点では名物氏に疑念を抱いていた私は、此のポイントの根拠は何なんだろうね、などと悪態をついた。友人は、其れでも名物おじさんを擁護するように、何度も登っているから距離を算出したんじゃないか、と云った。

直ぐに到達すると云われてなかなか辿り着けず、無言になって勾配を登り続けているうちに、ふと見上げると、ひと際巨大な露岩が突き出るように行く手を遮っている。其れを右側から回り込んで登っていくと、其の巨岩の上が富士山展望台なのであった。先着していた、先程追い越していった夫婦が記念撮影をして寛いでいる。我々を確認して、ふたりは場所を譲るように出発して呉れた。

富士山展望台からの眺望。此れは見事であった。ゴルフ場などの整備された人工的な緑地が広がる朝霧高原、其れを前景に、富士山を中心とした箱庭のような風景が一望できる。纏わり付いていた雲が徐々に流れ、やがて富士山の五合目辺りから上部が姿を現わす。頭を雲の上に出し、と云う唱歌の通りの富士山だった。程よい標高から対峙して眺める富士山は、北斎の画のような遠近感で、麓から仰ぎ見る富士とは趣を異にする。苦労して登ってこなければ味わうことができない。我々は昂然として、暫く巨岩の展望台に佇んでいた。

息を吹き返したような気分で、最後の尾根登りを開始した。名物氏の距離感と我々の其れとは、著しく乖離していると云う認識を新たにして、稜線上の九合目を目指す。欲を捨て、ゆっくりと登り続けるうちに、天子山塊の稜線の上に乗った。下部町観光協会製の道標が在る分岐点の周囲は、潅木で眺望は無いが、毛無山方向に少し歩くと、西側に突き出た巨岩が在り、明らかに名物氏の筆跡で、北アルプス展望台、と記した票柱が立っていた。岩の上に立つと、前衛の身延山の向こうに、銀嶺が並んでいるのが見渡せる。南アルプスの上部を見渡している訳だが、北アルプスの眺望が可能なのかは定かではない。

緩やかな傾斜の踏路を辿ってくうちに、霧が深くなってきた。樹木が途切れ、明るさの広がった処が毛無山の頂上広場で、食事休憩をしているグループなどが賑やかであった。富士山が正面に見える筈の、南東に開けた先は、一面のガス状の霧である。其の方角から、強い風が吹いてきて寒い。山名票の前で握手をして、我々は風を遮る潅木の中に避難して、食事を摂った。

麓の穏やかな気候が遠い彼方の出来事のように、毛無山の頂上は冷え切っている。インスタントラーメンを食べるにはお誂え向きの寒さですな、と、私は湯を沸かす準備をしながら友人に云った。間戸井君は複雑そうな表情で、持参した握り飯を頬張っている。のんびりとラーメンを作り始めている私を、落ち着かない様子で眺めている。どうやら、一刻も早く下山して、キャンプ場に行きたいような様子に見える。敢えて其れは黙殺し、私は食事の支度に取り掛かる。寒い山頂から、ハイカー達がひとり減り、ふたり減り、喧しいグループも消え失せた。毛無山の頂上広場は、徐々に霧が深くなっていくようであった。


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付記

毛無山からの下山は、急勾配に加えて岩塊が多く、思った以上に時間が掛かった。ストックを使用して、其の有難味を再認識した。帰京して二日間程、激烈な筋肉痛が続いたから、改めて厳しい勾配だったのだと思った。

オートキャンプ場にテントを設営して、一旦車で国道139を南下し、公共温泉に出向いた。温泉に浸かった後、キャンプ場に戻った頃は真っ暗で、ヘッドランプを頼りに焚火台の設置と、薪に着火する作業をした。キャンプが始まってからの友人は精力的に働き、無事焚火台が作用した。焚火はただ燃えているだけで、其れで調理する訳ではなく、別途持参のカセット焜炉で肉を焼いて食し、麦酒で乾杯した。湯上がりに焚火の傍の麦酒なので、快適だったのは間違いない。しかし、キャンプでの贅沢な晩餐と云うのが、過剰なエネルギーを消費して行なわれているような気がして、なんとも落ち着かない。周囲を見渡すと、本格的にタープを張って、椅子とテーブルを設置して。焚火の前で茫然としているソロキャンパーが少なくない、と云うことを知って驚いた。其れはともかく、今年は友人と出掛ける場合、オートキャンプに絡めて登山する機会が増えそうで、気分は複雑である。自動車によって行動範囲が広がるかと思っていたが、焚火台使用可のオートキャンプ場が在る場所に目的地が限定されてしまいそうな気配である。便利なものが増えていくに従って、自然との距離が遠ざかっていくような気がするが、勿論友人に、そんなことは云わない。と云うか、云えない。

大菩薩嶺・小金沢連嶺(後篇)

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小金沢山の夜は静かに更けていった。握り飯をひとつ消費して、あとはインスタント麺の塊りを砕いて、其れをつまみながらウヰスキーを飲んだ。そうしてシュラフに潜り込んで本を読んでいたら、たちまち睡魔が襲ってきた。だから、携帯焜炉を忘れてきたと云う惨禍も、思った程では無かったことのように思えた。深夜に目覚め、テントから這い出て、山頂東側のピークから夜景を眺める。煌々と光る街明かりのようなものは、旧青梅街道の辺りだろうか。視線を転じると、富士山は、夜の暗い壁に描かれているように、静かに立っている。富士は裾野に向かって、グラデーションが掛かったように明るくなっている。静寂に包まれて広がる薄い闇の景色を、時折、甲高い鹿の鳴き声が切り裂く。山小屋も何も無い山頂で幕営している、と云う荒涼とした実感が、其れで湧きあがってくる。

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2015/10/19

小金沢山(7:10)---牛奥ノ雁ヶ腹摺山(7:40)---黒岳(9:20)---湯ノ沢峠---大蔵高丸(11:15)---ハマイバ丸(11:45)---大谷ヶ丸(13:15)---鎮西ヶ池(14:30)---道証地蔵---笹子駅(17:10)

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夜明け前のアラームに目覚めて、のんびりと身支度を始めるうちに、外が緋色に明るくなってきた。小金沢山から、地平線の雲海を紅く染める御来光を眺める。昨日、草原地の狼平ではなく、山頂迄歩いて幕営した甲斐が在ったと云うものである。満悦の心持ちになった途端、此処で珈琲を飲むことが出来無いと云うのが残念に思われ始めたから、我儘なものである。朝の七時になっても、奥深い小金沢山に人の気配は無い。私は、すっかり陽が昇った早朝の山頂から、ゆっくりと出発した。

登山道は下ってから直ぐに登り返し、細長いピークを縦断する。其の南端に出て、富士山が正面に現われ、甲州と御坂山塊の眺望が一挙に広がる。踏路は笹原に刻まれ続いていて、登山地図に記された、鹿の通る細い道が分岐しているのが時折現われる。紅葉が始まりつつある樹木や、立ち枯れたような老木が点在する、心地好く緩やかに下っていく道が、やがて登りになっていき、木立の向こうに富士山が見えると、牛奥ノ雁ヶ腹摺山の山頂であった。昨日の小金沢山と同じで、唐突に山頂に立つ、と云う構図の山歩きである。

牛奥ノ雁ヶ腹摺山は南側に眺望の広がる山頂で、平坦な地面に事欠かない幕営の適地だった。つい先程の、小金沢山から眺めた御来光のことも忘れて、此処でテントを張っていたら、と思う程に心地の好い場所だった。後ろ髪を引かれるような心持ちで、ふたたび歩き始める。行く手には明るい鞍部と、其の向こうに黒い塊りの山々が在る。小金沢連嶺のアップダウンを、俯瞰して眺めている。急傾斜の笹原の道を下り、高齢の単独ハイカーが登ってくるのと擦れ違った。下りきった鞍部も笹原で、地図上で、賽の河原と記された処は、獣のヌタ場のようなものが散見している。其処から少しの急登で、ふたたび唐突に眺望の広がる場所に出たと思ったら川胡桃沢ノ頭で、此処も枯芒の似合う、富士山の眺めの好いピークであった。

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小金沢連嶺の地形は此処から少し蛇行する。南東に曲がりながら、川胡桃沢ノ頭から続く平坦な細尾根を歩く。のんびりとした此れ迄の風景から転じて、断崖状に切り立つ石小屋沢の谷側を覗き、時折現われる露岩に遮られながら歩く。少し下った先が樹林に囲まれた鞍部で、大峠からの登山道と合流する地点でもある。程なく到着した黒岳は眺望の無い山頂で、年配のふたり組が休憩していた。

山頂から南へ下ると、山梨の森林百選、黒岳の広葉樹林、の看板の在る斜面で、落葉の敷き詰められた道に、黄葉の樹林が立ち並ぶ明るい場所であった。心地好い気分でふたたび登りの勾配に差し掛かると、直ぐに眺望の広がるピークに達する。白谷丸は、此れも幕営の適地で、茅戸の平原に緩やかな丘が盛り上がる向こうに、富士山が眺めることが出来る。尤も、私が到着した頃は、既に霧が湧き上がり始めて、間もなく富士の姿は消えていった。

白谷丸から稜線は南西に向かう。湯ノ沢が突き上げる南東の斜面を避けながら、急激に下り続けて、湯ノ沢峠に降り立つ。小金沢連嶺の通称は此処迄である。避難小屋には立ち寄らず、其の儘南下を続けた。大蔵高丸迄、登山道は見晴らしのよい草原地帯を辿っている。湯ノ沢峠のお花畑、の道標が在り、自家用車で気軽に訪れることのできる山域なので、観光客を対象に、登山道から外れないよう、ロープで両側を仕切っているのであろう。仕切り線は、大蔵高丸の山頂迄続いていた。

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東側の山塊が程近く見える。今回の出発前には、気力が漲るようであれば、大峠に下り、雁ヶ腹摺山、姥子山を経由して、セーメーバンを経て、稚児落とし迄、歩いていこうか、とも考えていた。其の意欲は携帯焜炉忘失が発覚した時点で、もう一泊するのは断念したから、順当に笹子駅迄歩くことになった。其の、雁ヶ腹摺山が、眼前に聳えている。何時か、登ることがあるだろう。そう思いながら、大蔵高丸から延々と続く草原の道を歩いている。徐々に、紅葉が映え渡るような標高に降りてきているようで、草原の中に、鮮やかな赤が点在するようになった。ハマイバ丸は緩やかに続いていた稜線の尽きる処に在るピークで、紅葉の額縁に囲まれた富士が眺められる。

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文句のつけようの無い富士山の眺望と、気持ちの好い草原地帯が続いて、やがて其れにも飽きてきた。そんな不埒な想念に応えてくれるかのように、其の後は眺望に恵まれることが殆ど無い儘、帰路へと就くことになった。大谷ヶ丸の、樹林に遮られたピークで、大鹿峠に続く尾根を歩いて甲斐大和駅に下山するか、すみ沢に沿って笹子駅に向かうか迷ったのだが、結局は笹子駅を目指すと云う、当初の目的を完遂しようと決めた。鎮西ヶ池迄到達するのに、想像以上の時間が掛かり、久しぶりに歩く滝子山西側を流れる谷間の道は、途中の迂回路が厳しく、疲労の極に達した処で、漸く舗道に辿り着いた。

笹子駅迄の道程は何度も歩いたものだが、其の遠さに辟易した。空腹を覚えて、町に下りたら、何か食べたい、そう思うが、笹子駅の周辺には、食堂の類は無さそうである。今日は握り飯ひとつに、非常食を少し食べただけであるが、昨晩齧っていたインスタント麺が、余り消化がよくないのか、殆ど空腹感を覚えなかった。途中の何処かで蕎麦でも食べようか、早く帰って風呂に入ろうか、薄暮が訪れようとしている吉久保集落の静かな道を、私は、薄ぼんやりとした意識で、歩き続けていた。

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大菩薩嶺・小金沢連嶺(前篇)

大菩薩連嶺は北の黒川鶏冠山に端を発し、南の滝子山に至る、と書かれている場合が多いようだが、稜線は遥か北方から続く奥秩父山地に属している。大菩薩峠から南に位置する石丸峠より、湯ノ沢峠に至る稜線を小金沢連嶺と呼ぶから、連嶺の区分は曖昧に名称を付されているようにも感じられる。未踏の頂きである大菩薩嶺から、中央本線の笹子駅迄、途中でテントを張って一泊しながら、秀麗富岳を眺めながら、歩いてみようと思う。

2015年の山行は、此処数年の中で、著しく消極的な結果の儘、終焉を迎えようとしている。なによりも、北アルプスの幕営行が出来なかったことが、心の空虚を支配している。今年の北アルプスは、結局焼岳の夜行日帰りのみになってしまった。其れでも、何とかならないものかと云う気持ちで、10月の下旬に続けて休暇を取ったが、北アに脚を踏み入れるには、季節的に少し遅すぎるのではないか、と云う不安が纏わりついて離れなかった。其れで、山中で一泊する行程を考えて、大菩薩連嶺が浮上した。其処で個人的な懊悩が湧出する。

よもや「百名山完登を目指してます!」と云う程の輩が、深田久弥『日本百名山』を読んでいない、なんてことは無いでしょうね。屈託の無いハイカーに対して、私は内心で、皮肉を呟くのであるが、其れでは『大菩薩峠』はどうするのだ、と云われると、どうしようもない。読んだことがない。だから、大菩薩嶺に登ることに、少々の躊躇があって、其の儘になっていた。

「フリー百科事典ウィキペディア」の大菩薩峠を覗いてみる。其の解説によると、

「幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完に終わった」

と云う、幻想小説的なことが書いてある。続いて、あらすじの項を拾い読みしてみると、

「甲州裏街道(青梅街道)の大菩薩峠で、一人の老巡礼が武士机竜之助に意味もなく斬殺される」「与八にかどわかさせて、お浜の操を犯してしまう。あげくに竜之助は試合で文之丞を惨殺」「果し状を受け取った竜之助は、悪縁のお浜を諍いの末に切り捨て、兵馬との試合をすっぽかし、新選組に居場所を求めて京都へ向かう。しかし、竜之助は、近藤と芹沢の争いで揺れる新選組をよそに、遊郭の里島原で狂乱し、またも失踪する」

と、凡そ甲州の山で繰り広げられる朴訥とした物語、と云う訳では無さそうで、此れから出立する大菩薩嶺の山行に、格別の関連が在るとは思えない。だから此の問題は据え置いて、出掛けてみようと思う。大菩薩峠は本来、江戸と甲斐を結ぶ青梅街道の難所で、丹波山村から続く「丹波大菩薩道」の尾根を登り詰めた処に在る、妙見ノ頭の直下の箇所を指していたと云う。現在は賽の河原と呼ばれ、避難小屋が建っている処である。今、大菩薩峠と云うのは、くだんの丹波大菩薩道から、妙見ノ頭を捲いて、南の鞍部に辿り着いた処になっている。峠の実情としては適切な場所に設定されているように思う。其の大菩薩峠に「介山荘」が在るので、中里介山の小説『大菩薩峠』を読んでいないことが気に掛かってしまっていたが、もうどうでもよい。

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2015/10/18

大菩薩峠登山口バス停(8:20)---丸川峠(11:00)---大菩薩嶺(13:00)---大菩薩峠---石丸峠(14:50)---小金沢山(16:20)

早朝の中央本線普通電車に乗り続けて、塩山駅のプラットホームに降りると、夥しい数のハイカーが溢れんばかりで、面喰うと同時に、登山口に向かうバスに乗車できるのだろうかと、恐怖感を覚えた。其れは駅前広場に出ると、全くの杞憂に終わった。殆どの人が、乗り合いタクシーを予約しているようで、裂石に向かうバスに乗車したのは、五、六人程度であった。そうなると却って、身勝手な想念であるが、路線バスの命運が心配になってくる。裂石から、上日川峠行きのマイクロバスを接続させたら利用者が増えるのではないか、そんなことを思案しているうちに、勾配を上げた車窓から、山里の風景が広がった。私は漸く虚ろな気分から、山登りを始めるのだ、と云う高揚感に包まれていった。

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終点の大菩薩峠登山口バス停は、番屋茶屋の敷地内で、高齢のハイカーたちが中で談笑している。私は所在が無い気持ちの儘、車道を歩いた先の公衆トイレに立ち寄り、身支度を整える。出発して、舗装路の坂を歩いていると、自家用車が頻々に追い越していく。今日は「甲州フルーツマラソン大会」の当日で、参加者関係の車が上日川峠に向かっているものと思われた。私は幕営行のザック、クレッタルムーセンHuginに、今日も荷物を膨らませて背負い、歩いている。不快な自家用車の気配から逃れるために、早く丸川峠の分岐に到着したい。裂石止まりのバスは、やはり実情に添ってはいないと云う実感を、荷物とともに背負いながら、私は歩き続けた。

丸川峠分岐の駐車場に到着すると、車が溢れんばかりに並んでいる。大菩薩嶺に登るために、北東方向を巡って丸川峠経由のルートを辿ることにしたのは、上日川峠の喧騒を避けると云う漠然とした予感があったからで、其れは的を得た結果になったようであった。林道が心細いような感じでみそぎ沢に沿って辿っている。山間の、陽が当たらない、落葉が敷き詰められた道を、黙々と歩く。呼吸するたびに、冷たい空気で体内が満たされていく。徐々に勾配を上げた林道に、木漏れ日が差し込んでくる頃、右手の尾根に向かって、ジグザグに登り詰める踏路が分岐していた。

大菩薩連嶺に繋がる支尾根に漸く乗り上げて、自然林の立ち並ぶ登山道を歩く。紅葉は疎らに始まったばかりのようで、細尾根から谷を見渡せるような箇所で、時折赤く染まった木々が散見される。下山してくる人々は、小屋泊まりなのであろうか。ふた組と擦れ違った。眺望の利かない登りの果てに、少し疲労感を覚えた頃だった。周囲は黄葉の木々が陽光に映えて、明るさを増していった。尾根道が平坦になって、青空が広がる。切り拓かれた枯芒の道が辿っていく先に、丸川峠の山小屋が在った。

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尾根が緩衝し合って平坦になった場所に、赤く色づいた木々が点在している。晴天で風も無い。丸川荘の裏手に在る木製ベンチで、私は紫煙を燻らして休憩する。小学生くらいの子供を連れた家族が、のんびりと食事を摂っている。時の流れが判らなくなるような心地好い空間であったが、間もなく十人近い数のグループが到着して、雰囲気は台無しになった。尤も、大菩薩の日曜日であるから、此れも止むを得ない。私は、銜え煙草の儘、出発の準備を始める。大人数のグループの、禍々しい視線を感じたような気がした。

山の上の箱庭のような丸川峠を、時折振り返って眺めながら、大菩薩嶺に至る主稜線を登っていく。登山道は、支尾根が分岐する小ピークを丹念に捲いて辿っていた。トラバースは北面が多く、周囲の光景は一転して寒々しいものに変わっていく。針葉樹林帯に入り、眺望の無い儘、頂上直下の急勾配を避けるようにして、登山道がカーブを描きながら続いていた。相変わらずの樹林帯が周囲を覆う中を、登り詰めた処が大菩薩嶺の頂上であった。其の標柱の周りに、大勢の人々が屯している。唖然としながら其れを眺めつつ、歩を進めていった。

大菩薩嶺山頂は、想像以上に何の変哲も無い平坦地で、夥しい人々が食事の休憩を摂っている。団体旅行の旗を持ったガイドに連れられて登頂した人々が、順番待ちをして記念写真を撮影している。一刻も早く立ち去りたくなるような場所だったが、空腹に抗えず、山頂の片隅に座り込み、食事をすることにした。其処で重大な過失が判明した。

チタニウム製のカップに水を注ぎ、焜炉を組み立てようとして背筋が冷たくなった。カセットガスの缶は在るが、肝心のバーナー部分が無い。家庭用ガス缶を使用できるので重宝している、SOTO製ST-310を持ってきた積もりだったが忘れてきてしまった。湯を沸かせないので、握り飯だけを頬張る。足りないので非常食の菓子パンも食べてしまう。賑々しい周囲の人々に気を遣いながら、煙草に火を点ける。全身が弛緩していくのが判る。紫煙を吐き出しながら、樹林に囲まれた山頂の空を見上げようとするが、木々に遮られて、空は見えない。

現在時刻を確認する。午後一時を過ぎて間もない。此奴等は、そう思いながら周囲を見渡す。タクシーを雇って、あるいは甲斐大和駅行きのバスに乗って帰るのであろう。私は、裂石に戻って此の儘帰宅すると云う計画変更に、全く違和感を抱かなかった。携帯焜炉が無い儘、テント泊を敢行できる訳が無いと、瞬時に断定していた。日本百名山、大菩薩嶺。大荷物を背負って、丸川峠経由の長い道のりだった。歩荷の訓練とでも結論づけて、大菩薩、小金沢連嶺の縦走は幻と化し、此の儘下山する他に術は無し、其れも止むを得ない、そう考えた。

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相変わらずの喧騒が続く大菩薩嶺から南下して、間もなく広大な眺望が現われた。人造の大菩薩湖を手前に、甲州の市街地が、霞んだ儘地平線迄続いて広がっているのが見渡せる。雷岩の周囲には、先程とは比較にならない程に夥しい数のハイカーが蠢いていた。若い男女のグループが多い。嬌声が混淆して眺めのよい稜線を漂っている。ハイカーが押し寄せて止まない、良景の稜線が、介山荘迄続いているのであろう。岩場をパスしながら、立ち止まって風景を眺める意欲も無く、私は歩き続けていた。詰まらない処に来てしまった。そんな想念で、何かに圧迫されているような心持ちで、脚を繰り出していくばかりだった。

歩いているうちに、私の内面に異様な憤りが湧いてきた。今年は北アのテント泊が出来なかった。其れで思い切って連休を取得し、遂に槍ヶ岳に登ろう、などと考えていた挙句に、十月下旬の北アルプスの幕営に不安が募り、計画を断念した。仕様が無いから、大菩薩連嶺でも歩くか、と思い立ち、結局は怠惰の代償を支払うようにして日帰りで下山する。そんな自分に怒りが湧いてきた。私は歩きながら憤怒に駆られた末に、此の儘連嶺を歩き続けて、何処かに幕営して縦走を敢行する決断をしていた。食料は握り飯が二個、そしてインスタント麺が三個。湯を沸かす為の水は有り余る程に在る。飢えに苦しむことは無い。温かいラーメンと、温かい珈琲を断念すれば済むことなのだと思い直したのだった。

踏路が緩やかな下りになって、眼下に整地された広場が現われた。いにしえの大菩薩峠、現在は賽の河原となっている、大菩薩峠避難小屋が在る箇所だった。広場の中央に、ケルンなどとは呼べない程、堆(うずたか)く石の山が詰まれている。三途の川が虚空に向かって、直ぐ其処に漂っているかのように。其の畔に、私は腰を下ろした。避難小屋の前を、カラフルな衣装の若いハイカーたちが、おしゃべりに余念が無い風で、通り過ぎていく。避難小屋は、誰でも泊まっていいんだよね。若い男性が云う。でも、セキュリティが心配ね。若い娘が真面目な口調で云った。私は、茫然とした儘、紫煙を燻らせて休憩していた。

親不知ノ頭、と記された道標の瘤を越えて、介山荘を見おろす地点に立った。崖地は草に覆われ、背後に熊沢山のピークが盛り上がっている。遠目に眺めると、まさに峠の茶屋と云う風情だった。大菩薩峠、の古びた標柱が立つ介山荘に到達する。先程迄の情景から転じて、鞍部は霧に覆われていた。多くの人が行き交う光景は、現在はハイカーたちなのだが、昔日の交易路の要衝を想像させる風情も併せ持っていた。尤も、私は云い様の無い寂寥感の儘、足早に大菩薩峠を背にして、ひと気の無い山道に向かって歩き始めたのだった。

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鬱蒼とした大菩薩峠南側の小ピークへと登り続ける。誰も来ないと思っていたが、数人と擦れ違った。樹林帯が途切れて南面の眺望が開き始めた頃、熊沢山と記された道標が現われる。笹薮に挟まれた登山道を斜めに下って、一挙に眺望が広がる。熊笹の高原が広がる石丸峠の、其の奥に山々が連なっている。小金沢連嶺は、裾から湧きあがる霧を纏いながら、傾きかけた緋色の陽射しを浴びて佇立していた。

石丸沢の詰め上げた峠から、無機質にさえ感じる静けさの人造湖を眺めつつ、小金沢連嶺の稜線を歩いていく。直ぐに乗り上げる瘤のピークから、徐々に奥多摩方面に連なる尾根が見えてくる。牛ノ寝通の分岐を越え、1957mピークで小休止する。時刻は午後三時を過ぎていた。今夜の寝床をどうするか。考え始めるべき時刻だった。漠然と、今回の行程を考えて、小金沢山、牛奥ノ雁ヶ腹摺山、或いは其のふたつの山の中間に、平坦地が在れば、テントを張ろうと考えていた。しかし、気分としては、もう適地が在れば張ってもよいだろうと、思い始めていた。石丸峠を過ぎてからは、誰とも出会っていない。私は、漸く孤独感を愉悦のように、感じ始めていた。

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小ピークを下りきって、広々とした笹原に到達した。地図上に記されている、狼平であった。作業道が分かれている地点に道標が立っている。其の傍らに、テントを張ったような跡が在った。私は、暫し其の場に立ち尽くして黙考した。幕営に申し分の無い場所であった。空を見上げる。青空が広がる草地に佇んでいると、静寂の中から風の音が徐々に、聞こえ始める。私の心裡が、何故だか不安に転じてくるのを感じた。狼平と云うネーミングの所為かな、などとも考えたが、だだっ広い処にひとりで幕営するのが、なんとも心細いように思えてきたのであった。

其れで、ふたたび歩き始めた。脚は既に疲れきっていて、緩やかな尾根登りが、やるせなさの気分が入り混じって辛く思えてくる。縦に細長い尾根を登り詰めて、樹林帯に突入していく。周囲は薄暗く、此の儘陽が暮れてしまうのではないかと思っていたら、唐突に小金沢山の頂上に辿り着いた。山頂は南と東の方角に眺望が開けていた。黄昏の陽差しが山名板を照らしていたが、其の明るさは、間もなく山裾に沈んでいった。

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狭い山頂だったが、標柱の横になんとかテントを張った。全ての荷を下ろして、ウヰスキーの入ったスキットルを手にして、落日とは反対側の、奥多摩方面の黄昏を眺める。雲海が徐々に広がり、長峰の連なりや、雁ヶ腹摺山が、絶海の孤島のように浮かんでいる。薄暮に地平線が紅く染まっていく。雲海が激しく移動して、南の空の向こうに、富士山が現われた。小金沢山からの眺望は、夜の境界に近づいていくほどに、明媚となっていくようであった。

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