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日光白根山(後篇)

部分的にササが深く、足元よくない。赤い文字でそう記してある登山地図の知識で、国境平から中ツ曽根と呼ばれる支尾根を下っていった。湯元温泉に向かって細く伸びる一本道の尾根である。急な傾斜に刻まれた、樹林帯の道のそこかしこに、びっしりと熊笹が生い茂っている。時折、左手の視界が開けて、金精山からの尾根の向こう、奥鬼怒の山々が遠望できる。広がる谷間に落ちていく山肌に、樅や松の木が西陽を浴びている。景色を眺めると気分は晴れるが、笹の繁茂した登山道は足元が不明瞭なので、緊張は持続させていなければならない。

10

2015/7/11

日光湯元キャンプ場(6:30)---外山鞍部 (8:40)---前白根山 (10:00)---五色沼避難小屋 (10:50)---奥白根山 (12:20)---五色沼避難小屋 ---五色沼---五色山 (15:00)---国境平---中ツ曽根---湯元温泉(18:00)

笹藪は、下っていくに従って濃密に生い茂る様相を呈していた。歩かれていない実線ルートなのだろうか。あとは下るだけ、そんな弛緩していた気分が急激に萎んでいった。それは友人的異君も同じと見えて、彼の後姿から其のようなオーラが満ち満ちているような気がした。傾斜が唐突に緩やかになり、樹林が途切れた明るい場所に出た。笹藪も陽当たりのよい場所では随分生育が良いようで、腰の高さくらいにに繁茂している。其処に峠を出て以来の道標が立っていたので漸く安堵した。穏やかな白い空が広がっている。それを見上げて、日の入り迄はまだ随分時間があるのだと、自分に言い聞かせていた。

ところが、ふたたび歩き出すと、平坦な尾根の踏跡が急激に落差を激しくしていった。笹薮は、いつの間にか身の丈に迫る勢いで進路を遮るようになっていった。私は其の時点で既に、周囲を眺めやる余裕を失っていたようであった。踏跡は笹薮を、文字通りに踏み倒すようにして進路を示しているに過ぎない程度になっていた。足元がふっと軽くなったような気がした途端、上体が傾いて倒れそうになった。頑強に生い茂る熊笹を掴んで、漸くバランスを回復した。斜面に這うようにして、背後を振り返ると、友人が二の足を踏んでいる様子と、小高い丘のように尾根が彼方に去ろうとしている様相が、笹薮の向こうに窺えた。

尾根から外れて斜面を下っている。笹薮の滑り台の途上で、やっと其の事実に気づいた。間違えた。戻ろう。そう叫ぶと、的異君が驚いたような顔で頷いた。息急き切って斜面を登り返して、踏み倒された笹から、明瞭な踏跡に戻った。落ち着け、と、内心で呟き、改めて進行方向に向き直って周囲を見渡した。左手に、尾根が連なっている。踏跡は、尾根から右に逸れて刻まれていた。そして、笹藪の壁で尽きていた。

私は、冷静にはなれなかったようであった。進路は尾根の上である。しかし、道標から続く登山道は尾根から外れていたので、どうなっているのか判断が下せなかった。其れで、とりあえず道標迄戻ることにした。其の途中で、下山してくる単独の中年男性に出会った。登山道は途中で尽きて、谷の方に向かっていると伝えると、中年氏は信じ難いと云う顔をした。誰も居ない尾根で漸く人と出会い、私は再確認の意味で、彼とともに問題箇所迄引き返すことにした。繁茂した笹薮が踏み倒されて続く斜面を見て、中年氏は他に道が無いことを認識した。其れで、三人で道標迄引き返した。尾根に通じる踏跡を探しながら歩いたが、なにも発見できなかった。無理矢理尾根に復帰すると云う手段もあるが、今歩いている登山道があまりにも明瞭な為に、ルートを自主的に外すと云う決心が、つかない。

平坦な尾根に戻り呆然としていると、熊鈴の音が近づいてきた。もうひとり、下山者が現われたのである。ダブルストックで淡々と歩いてきた男性に、私は状況を説明した。精悍な顔つきのダブルストック氏は、道は合っていると思いますけどねえ、と云って、歩き始めた。我々も後を追った。実は怪我をしまして、慣らしながら歩いているのでペースは遅いですが、と云うダブルストック氏に、我々は徐々に離されていった。的異君は気力の所為なのか、遅々として歩いている。私と中年氏は、慌ててダブルストック氏の後を追った。

問題箇所に到達した時、ダブルストック氏は既に其の付近から藪に分け入り、尾根に復帰しようと歩いているところだった。やはり其れしか方法は無かったかと思いつつ、彼の後に続いて笹薮に侵入した。意外なことに、進入して直ぐに、足元は微かな踏跡を形成していた。此れが正規のルートのようであった。尾根の上に林立する樹木を指して、あの印を辿っていけば、登山道と云うことですから、とダブルストック氏が云った。二分割されて、赤と黄色で塗り分けられている正方形の鉄板は、前白根に至る登山道でも見続けていたが、此れが登山道の印だと云う知識が、私には無かった。忸怩たる思いで、私はダブルストック氏に謝意を表した。颯爽と去っていく彼を見送り、振り返って藪道を登ってくる中年氏と友人を見下ろした。

なあんだ、ちゃんと印がありましたね。的異君が中年氏にそう云ってるのを聞いて私は憤然とした。正方形の鉄板の意味を知っているのであれば、問題箇所から尾根を見上げた時に探せばよいではないか。ダブルストック氏が印を指しているのを遠目に見て、あたかも知っていたかのように振舞っているのではないか。いやそうに違いない。登山道に復帰できた安堵感が霧消して、私は友人に呆れ返り、疲労感がどっと押し寄せてきたような気がして、ザックを置いて座り込んだ。中年氏を見送り、煙草に火をつけた。

ふたたび歩き出した中ツ曽根の登山道は、微妙に蛇行しながら尾根上を辿っているが、唐突に塹壕のように深く抉られているのを、四苦八苦しながら降りていく。そんな箇所が何度も繰り返された。抉られている処は湿った土で滑りやすく、疲弊は急激に下半身に押し寄せてきた。私は憤怒で、友人は何を考えているか不明だが、不快な踏路の連続で無言であった。途上で野猿が横切って驚いた。私は、大声で猿を威嚇した。的異君が、脅かしたら可哀相だろうと云った。其れにも腹を立てて、私はますます不機嫌になった。

高度が下がる程に、白根沢の対岸の尾根が垣間見えるようになってきた。雪渓が、黄昏の山肌に刻まれている。今朝登ったばかりの、前白根に至る支尾根が正面に在った。対峙して眺めると、随分急な傾斜であったことが分かる。陽射しは、もう直ぐ五色山の衝立の陰に隠れてしまいそうな位置にあった。私は、なかなか終わらない中ツ曽根の下山に、徐々に焦燥を感じ始めていた。其れでも、漸く尾根から北に外れて、ジグザグに下っていく地点に到達した。友人がザックを下ろして腰掛けたので、私は苛々して、もう直ぐ陽が暮れてしまうが、と云った。的異君が憮然として、疲れたから休む、と云った。

12

金精沢が広がる北東方面に、中ツ曽根末端から登山道が急降下していく。実際は日の入り迄随分あるのだろうが、周囲は薄暮のように、陰々滅々とした風情だった。登山地図には、きつい急登、と記されている箇所である。湿った土が時折抉られて、倒木に半ばぶらさがりながら降りていく箇所なども現われた。急激に標高を下げている感触だが、ジグザグ道はまったく終わる気配を見せなかった。我々は先ほどから全く言葉を交わしていない。私は、先ほどの自分の言動を後悔していた。漸く最後の下山が始まる処で、焦る必要も無いのに、無用な思惟で感情を乱していた。謝りたいが、「きつい急登」の下りは、単純に無駄口を叩けるような余裕が無い状況であった。

急降下がひと段落して、山肌をトラバースしていく緩やかな傾斜になった。其の途上にベンチが設えてあり、ひとりの男性が座っているなと思ったら、道迷い現場で一緒だった中年氏だった。靴を脱いで呆然としているのでどうしたのかと訊いてみると、靴擦れだと云った。悪路が断続する此処迄の経路を思うと、其れも在り得る事態だと思った。酷い道でしたね、と私が云うと、もう二度と来たくないよ、中年氏が云った。

鬱蒼とした広い森に降り立った。尾根下りは終わったようで、遠くに勢いのある沢音が聞こえてくる。五色沢に合流すれば、もう湯元温泉が近い。我々は、すっかり薄暗くなった平坦な道を歩き続けた。気まずい雰囲気に足取りが重くなってきて、私は少し遅れながら歩いていた。煙草に火をつけて、歩きながら紫煙を燻らせた。川の流れが直ぐ其処にあるような音が聞こえてくるが、五色沢の姿はまったく見えない。金精沢が合流してくる筈だが、いつ渡渉したのかも判らない。

13

私有地の柵に行き当たり、左へと曲がっていく道を辿ると、砂利道に出た。白根山登山口、の道標は、特に古びている訳ではないが、どこか悄然とした風情だった。我々は、疲れきった表情の儘、握手を交わした。其れで、私は堰を切ったようになって、自分の非礼を謝罪した。友人は、何でもないと云う素振りで、許してくれたようだった。舗装路に入り、鉛のようになった足でのんびりと歩く。夕陽は山陰に隠れ、薄暮の温泉街は此れから活況を呈し始めるのだろう。湯元本通に入り、大きい駐車場で、誰かが手を振っている。窮地に現われたダブルストック氏が、無事の下山を称えて呉れた。我々は漸く多弁になり、温泉と麦酒を求めて、歩き続けた。

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