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重太郎新道から奥穂高岳(中篇)

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未明の暗闇の中で、テントを畳んで身繕いを終えて、パンと珈琲の朝食を済ませたら、漸く遠くの空から黎明の兆しが現われた。空は重厚な雲で覆われているが、山々の眺望を隠す程では無かった。曖昧な夜明けを迎えながら、私はザックを背負い、重太郎新道を登り始めた。樹林の中をジグザグに登り、視界が開けて振り返ると、岳沢小屋のテント場を眼下に、顔を上げたら、明るさを増してきた空に青味が増してくるのが窺えた。全ての荷物を背負って、今日は奥穂に登る。其の後のことは、漠然としか考えていない。涸沢に下って一泊して、明日はゆっくり上高地へ帰ればよい。吊尾根を歩いて、奥穂高岳に登頂し、北アルプスの眺望を眺めれば、もう何も云うことは無い。私は、意識的に逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと歩いていた。


Dake1

2014/9/8

岳沢小屋(5:40)-----重太郎新道-----紀美子平-----吊尾根-----奥穂高岳(11:20)-----奥穂山荘-----涸沢(14:00)-----本谷橋-----横尾(17:00)

実直に続く登山道から、唐突に岩の重なる崖を攀じ登るようになって、程無く最初の梯子段が現われた。冷たい雨に濡れながら登った前回を思うと、何事も無いと謂う気分だった。道は岩崖状の斜面を丹念に抉って続いている。其の途上で、下方から物音が聞こえた。誰よりも早く出発したが、もう後続に追いつかれてしまったらしい。岩場が緩やかになった処で、追い越して貰う為に立ち止まった。

やってきたのは単独の中年男性で、昨日も岳沢への途上で会った人だった。挨拶を交わして先に行って貰ったが、其処から直ぐに登りついたら、展望が開けるカモシカ立場だったので、休憩している彼に追いついてしまった。私もザックを下ろし、懐かしい場所に腰掛けて上高地の方を眺めた。岳沢にテントを置いて前穂を往復すると云う中年氏に、私は初めて前穂高岳に登った時のことを随分喋った。人恋しかった訳ではない。無性に其のことを話したい欲求に駆られていた。雨の中を登ったんですか、と、一応の反応をして呉れたのが嬉しかった。

身軽な中年氏が軽快な足取りで去っていった。ふたたび誰も居ない、静かな重太郎新道を登り続けた。梯子段が二箇所に渡って登る箇所を経た後も、鎖の付いた岩崖が続いた。岩の塊に足場を見つけて無心に登り続け、やがて一挙に眺望が広がった。吊尾根の稜線を目で追っていくと、前穂高岳の姿が明瞭に在った。振り返って、岳沢パノラマと書かれた岩の向こうに広がる、上高地の風景を見渡す。焼岳は相変わらず赤味を帯びた山容で聳え、霞沢岳が対岸に屹立している。北アルプスの入口で二対の山が立ち塞がり、近寄る者を睥睨しているかのようでもある。遠く正面に聳える乗鞍岳と木曽御嶽山が、別格の貫禄で連なっている。


Dake2

ペンキマークが記された岩塊にステップを刻んでいくと、あっという間に高度が上がっているのに気付く。前回の下山時に怪我をした、砂礫混じりの急斜面を喘ぎながら登っていると、猛烈に速い、トレイル・ランニング風の男性が追いついてきた。今朝上高地から登ってきたと云うから、巨大ザックを背負って鈍重に歩いている私とは好対照である。立ち話をして、私はトレラン氏にも前回の前穂登頂のことを喋った。自分でも、どうかしているなと思うくらいに、熱心に喋っていた。

懐かしい雷鳥広場に到着した時は、何だか呆気なく此処迄来たなと云う気分だった。陽光が降り注ぐ晴天では無いが、穏やかな天候であった。時刻は朝の八時で、申し分の無いペースである。紫煙を燻らせて暫く休憩していたら、後続のハイカーが徐々に登ってくるのが見えた。ふたたび歩き始めると、岩尾根の南側を捲くようにして、着実に高度を稼いでいく。前穂が聳える前衛に、幾つかの岩塊が重なって盛り上がる突起が見えた。其の塊の裾に、鎖が垂らされている斜面が在る。出来るだけ鎖に頼らず、岩の裂け目に足場を探して登り続ける。其れを何度か繰り返して、紀美子平に到達した。


Dake3

眺望の利く紀美子平に立って、改めて前回の記憶が蘇ってきた。奥ホ、と記された岩の向こうを見ると、吊尾根の連なりの果てに、鋭利な尖峰が頭部を覗かせている。あれが奥穂高岳だろうか。愈々念願の踏路を前にして、気分は昂揚していくばかりだった。紀美子平は、想像以上に多くの人々が休憩していたので、突然喧騒に巻き込まれたような気分にさせられる。私は、少しの休憩で、早々に出発することにした。

吊尾根に入っても、登山道は南面をトラバースしているので、広がる景色は相変わらずの上高地方面である。しかし、此れ迄の眺めとは違って、今歩いて来た重太郎新道が、恐竜の背びれのような姿で連なっているのが見える。雷鳥広場には多くのハイカーが休憩している様だったが、客観的に眺めると、重太郎新道が鋭利な錐台の上を辿っていると云うのが初めて理解できる。視野が広がる、と云うのが文字通りに実感できる眺めだった。


Dake4

岩塊の登山道は、概ね明瞭に続いているが、時折積み重なる岩が行く手を阻む。マーキングを頼りに攀じ登って越える時、岳沢側の谷底が深淵の様に見下ろせるから、神経のコイルに電流が流れて、針が振れたみたいにどきんとする。そんな登山道で、対向から案外な数のハイカーたちがやってきて擦れ違う。吊尾根は、奥穂からの下山ルートとして使う人が多い様であった。上高地側のトラバースは随分長く続いていたが、次第に稜線が近づいてきているのが判った。やがて、分岐点、と記された岩が正面に現われた。

登山地図に記されている「最低コル」が此処の様であった。分岐点の印から稜線に向かって、私の進行方向からすると折り返す様にして進路が在る様で、前穂高岳に稜線伝いで辿っているのだと察せられる。其れを見送り、真直ぐにトラバース道を進んでいった。吊尾根のエッジに、徐々に近づいてきている。私は、固唾を飲むような気持ちで、緩やかに傾斜を辿っていった。

リッジの淵から鋸歯状の連なりを見た時、躰を風が駆け抜けていくような気がした。日蔭の黒い圏谷に、雪渓の白が目立つ峻険な岩峰の群が屹立していた。前穂高岳北尾根を、直ぐ間近に見ている。吊尾根は、前穂に向かって鋭利な稜線で繋がっていた。涸沢カールの全容は未だ見渡せないが、漸く北アルプスの全貌を眺める稜線に近づいて来たのだと思った。


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此れからは稜線上を歩くのかと思ったら然にあらず、ふたたび登山道は上高地側の斜面を捲いていった。岩崖の斜面は、巨岩が重なり合っているので、足場を探すのは容易だった。しかし、稜線の上部が遠ざかっていくのは何とも歯痒い気持ちにさせられる。其れ程に尾根が峻険なのだ。自分に云い聞かせながら、歩き続けた。大きく隆起した岩塊を何度か越えて、尖ったピークが現われる。地図に記されている3071mピークだと察せられる。惚れ惚れする程の鋭利なピークだが、此処も左に捲いていく。ピークを廻り込んでから、直截的にリッジ上に向かって登る。鎖の付いた斜面だが、大過無く登りきった。

ふたたび吊尾根の上に立って、今度こそ涸沢の全容が見渡せた。前穂北尾根と、北穂高岳の尾根に囲まれて、眼下にカールが広がっている。そして、北穂の向こうに、写真で何度も見たことのあるランドマークが小さく浮かんでいる。常念山脈を縦走して、一度も見ることの出来なかった槍ヶ岳であった。

稜線は更に高みへと向かって続いていた。険しい岩場、鎖場を経て、視界が開ける。奥穂の方角に、岩が無数に刺さった棘だらけの様にも見えるピークが聳えている。近づいてくる目的地を意識して、気持ちの治まりが付かない様な儘、其のピークに向かって歩いていた。やがて岳沢の谷底から、顕著な岩尾根が登ってくるのが窺えた。其れが棘のピークに向かっていて、私の行く先に合流していく様に見えた。此れが南稜と呼ばれる岩尾根で、吊尾根に愈々近づいてくる頃、私の進路も険しくなり、巨岩の隙間に鎖が垂らされている処を登っていくようになった。


Dake6

辿り着いたら指導標に奥穂、前穂が記されていて、其の中心に、南稜ノ頭の名が在った。涸沢と岳沢を等分に眺めることの出来るピークで、稜線の先を見れば、直ぐ其処に奥穂高岳の頂上が見える。天井は厚い雲が覆われているが、全ての地平の先が見渡せた。空が近いと云う表現では違うかもしれないが、雲の天井が直ぐ上に在るようで、随分高い処に居るのだな、と云う実感が湧いてくる。

私は重いザックを下ろして、涸沢側を見渡すリッジの岩場に腰を下ろして、休憩することにした。奥穂高岳に到達すると云う確信に、全てが満たされていく様な気分だった。其の喜びに、少しでも長く浸っていたい。私は、そんな倒錯した気分の儘、何時迄も南稜ノ頭で、紫煙を燻らせていた。

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