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猿倉荘から白馬鑓温泉(後篇)

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小蓮華岳の秀峰を眺めて安堵したのは午前九時を過ぎた頃で、其処からも相変わらずのトラバースが続き、小日向(おびなた)のコルに到達したのは実に一時間半後であった。猿倉荘を出発して三時間半が経過しているのに、白馬三山から落ちてくる尾根を横切って歩いているばかりなので、焦燥感が全身を覆ってくるような気がした。鞍部を越えたら、雪渓が眩い杓子沢を遠くに望むデルタ地帯が広がった。湯ノ入沢に合流していく谷が形成された山肌に沿って、登山道が急降下していくのが窺える。其の広大な景色には感嘆するが、何処迄も続く道程を眺めたら、脱力したような気分に陥る。kz氏が空腹だと云うので、斜面の旧道跡に逸れて休憩することにした。


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2014/8/23

猿倉荘(6:50)-----小日向のコル-----三白平-----杓子沢-----白馬鑓温泉小屋(15:10)

登山道を見下ろすような斜面で、kz氏がカレー饂飩を作って食べている。私は茫然と紫煙を燻らしている。ひとりの男性が、鑓温泉方面から現われた。疲労困憊の態で我々を見上げ、あとどのくらい登りますか、と云った。小日向のコルを指して、あれを越えたら下るだけですと、エールを送った。彼は下山の徒であるが、其れ程迄に登りが続いていると云うことは、我々は此処から何処迄下るのだろうかと思う。我々は天狗平に向けて登っている途上であるから、下った分だけ登り返すことになる。

そんな後ろ向きな気分で、登山道に復帰した。瓦礫の道が蛇行して、谷底に向かって下り続けている。足取りの軽快さとは裏腹に、気持ちが暗澹となっていくのが判る。山に登る積りが、谷に下っている。平地に降り立った湿地帯は池塘が在り、先程迄眺めていた山々を見上げるような位置関係に在った。五万分の一地図に漠然と記してある、三白平であろうか。

其の後、ふたたび登りになり、水量のある沢を渡渉したら、手製の道標が立っていた。片仮名で、サンジロ、と書いてあるから、三白平はサンジロダイラと読むのだろうか。先程渡渉した沢は、地図に三次郎沢と記して在る。地名の由来は諸説が交錯しているのが常であるから、漢字は当て字に過ぎないと云うことが認識させられる。サンジロでは鑓温泉方面に向かう、ガイドが引率する高齢女性の団体に追いついた。


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徐々に、新たな尾根を登っていく傾斜になった。標高1856m地点の在る、此れも杓子岳から延びる尾根である。程無くして、遠くに眺めて歩いていた雪渓が目の前に現われた。荒々しく岩を削りながら奔流する杓子沢である。濠音と涼風が駆け抜ける谷間へと降りる途上で、左手に巨大な岩が鎮座していた。登山道から逸れて、其の岩の上に立った。杓子沢を正面に見る展望地だったので、此処で休憩することにした。スローペースのkz氏が辿り着く迄に、私も食事の準備を始めた。

雲が掛かって陽除けになって呉れれば快適なのだが、インスタントの天麩羅蕎麦が出来上がった頃には、直射日光を浴びるようになってしまった。此れでは幾ら展望地で涼風が在るとは云え、留まり続けるのは苦痛である。kz氏が漸く到着して座り込んだ。其の傍らで朦朧としながら、インスタント麺を食した。灼熱の陽射しを浴びながら雪渓を眺めると云うのは、何とも異様な感覚だった。

食事が終わる頃、追い抜いたガイド付きツアーの団体が、岩の上にやってきた。ガイドの男性は、私の直ぐ傍を通りかかったが、まるで何も居ないかのように黙殺して客を呼び、杓子沢や、咲いている花の説明を始めた。高齢の女性たちは、好展望地に興奮して、岩の上の端で記念撮影などをしているから、見ている方が気を揉んでしまう。私は食事を終えて、慌しく片付けを始めた。ガイド氏の、私に対する黙殺の仕方に、妙な悪意を感じてしまったので、早く立ち去りたかった。日照りに苦しむkz氏も、直ぐに休憩を終えたので、濠音の底に向かって、登山道を降りていった。

白い飛沫の急流に、木橋が掛けられてあった。其れに差し掛かる頃、鑓温泉方面から、トレイル・ランナーが数人、軽快に走ってきた。彼等が渡り終えるのを確認して、身が竦むような思いで橋を渡る。橋の中間に差し掛かった処で、kz氏が何か叫んでいるので振り返る。写真を撮るから其処で立ち止まって呉れと云うから其の通りにした。急流の沢を見上げたら、視界が真っ白になってしまうような気がした。


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激流は眼下に広がる大きな雪渓の下に流れ込んでいた。随分いろんな山を訪れた気になっているが、此れ程の雪渓を間近に見るのは初めてである。瓦礫場になっている細い道を慎重に辿り、崩壊した枯沢の肌を歩いた。暫く其れが続いた処に、崩沢と書かれた看板が立っていた。地名に装飾の余地が無い程の、一目瞭然な崩壊地である。瓦礫場が断続的に続いて、小さな尾根を何箇所か越えても、鑓沢の景色が見えない。疲弊が澱のように溜まって、緊張の糸が切れそうになっていくのを感じる。平坦な岩場に差し掛かった処で、私は観念したように座り込んだ。

少し遅れて、kz氏が牛歩で到達した。私は、鑓温泉に幕営して、明日の未明に早出すれば、天狗平には常識的な時刻に立てるだろうと云う算段をした。尤も、明日の行動がどうなったとしても、現況の疲弊しきった気力と体力に変わりは無い。私は彼の顔を見上げて、今日中に天狗平へ辿り着くのは、余りにも疲れきっているので厳しい、と云う旨を伝えた。kz氏は、言葉少なに同意した。kz氏は、苦悩する老人のような表情になっていて、其の疲労の具合が窺えた。そして、低い標高をトラバースしているだけなのに、こんなに消耗するとは、と云うような独り言を云った。中途挫折を訴えているのは私なのに、kz氏は自分に対して慙愧の念に駆られているようだった。

そうは云っても、白馬鑓温泉小屋に幕営することに決めたことで、お互いに気分は随分軽くなったような雰囲気になった。鑓ヶ岳の南稜と北稜の谷間から何時迄経っても脱出できないが、もう急ぐ必要は無い。座り込んだ儘で居たら、ガイド付きツアーが追いついてきた。ガイド氏に会釈してみるが、やはり黙殺される。何が気に入らないのか定かではないが、挨拶も出来ない人間の説明など、聞きたくないものだと思う。引率された高齢女性たちは、朗らかに挨拶をして、通過していった。


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時刻は午後二時になろうとしていた。出発して七時間以上が経っていたが、未だ鑓温泉の建物は見えない。其れは全く予想できない現実だった。登山地図のコースタイムの二倍の時間が掛かっている。次々と他の登山者に追い越されていたが、皆は何処迄行ったのだろうかなどと、どうでもいい想念が脳裡を過ぎる。茫然自失の状態で、惰性の儘に脚を繰り出していると、水流の在る沢に木橋が掛かっている地点に達した。南稜と北稜の合間を流れる、鑓沢のようだが、道標の類は無かった。

鑓沢を越えて、また休憩を取り、勾配を登って小さな尾根を越えたら、巨大な雪渓が姿を現わした。硫黄の匂いが漂っているのに気付いて、右手の沢の上を見上げた。靄に包まれた小屋が薄っすらと確認できた。勢いよく流れる沢から、湯煙が立っている。漸く、白馬鑓温泉小屋に辿り着こうとしていた。温泉の沢を渡って、雪渓を遠くに見ながらの登山道を歩く。周囲は草原のような緑の広がりで、黄色い花が一面に咲いている。何と云う花ですか、と、植物の知識が無い私がkz氏に訊ねる。うまのあしがた、と、呟いたkz氏は、キンポウゲとも云います、と教えて呉れた。


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鑓温泉下、と書かれた標柱から、最後の登りに掛かった。もう苦しいことは無い。しかしkz氏は、巨大な荷物に押し潰されそうな足取りで、何度も立ち止まり休みながら登っていた。最後の最後で若いカップルに追い抜かれ、我々は虫の息で、鑓温泉に到達した。

幕営地にkz氏を置いて、小屋に向かって受付を済ませる。幕営料七百円に入浴料五百円だから、良心的な値段のような気がする。戻ってみると、kz氏は既にテントを張り終わっていていた。先程迄の苦悶の表情が消えていて、私のテント設営を手伝って呉れる程快復したようである。其の後、kz氏は水を汲みに行くと云って姿を消した儘戻ってこないので、ひとりで露天風呂に向かったら、小屋を観察して熱心にメモ帳に記しているのを見つけた。すっかり元気を取り戻したようで、安堵した。


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標高2100mの高所に在る露天風呂から、東方の麓が見下ろせる。戸隠や妙高は靄で見えないが、湯船からはひときわ目立つ台形の山が鑑賞できる。何時までも視界から遠ざかって呉れなかった小日向山である。湯ノ入沢の反対側に聳える、あの山の鞍部を越えて、ぐるりと山肌に沿って、此処迄辿り着いたのだと云うことが再認識させられた。

今日はずっとあの山を見ていますね、と云ったら、そうだよ、早くアルプスらしいところを歩きたいよお、と、手拭いを頭に乗せたkz氏が大きな声で云った。湯の花が漂う、白濁した温泉に浸かっていると、登山の最中であると云うことを忘却しそうになる。そうして何時迄も湯船の中に、長々と入り浸っていた。身体のあらゆる部分が、溶けて流れていってしまいそうな、そんな気分になった。

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