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不帰キレット・出発が遂に訪れる(前篇)

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退屈の本質と云うのは、凡そ肉体的な問題では無く、精神的無為の状態に拠るものなのだろうか。そうでなければ、昼前から陽が暮れる迄眠っていたのに、ふたたび此の様に熟睡できる筈が無い。天狗山荘で夜の牛丼を食して、後は用事も無いのでテントに入った私は、程無く惰眠を継続することになった。此の儘荒天が続いたらどうするのか、と云う逃げ場の無い状況に対する不安。天候が回復した場合は実直に唐松岳に向けて出発する訳だが、未踏の難所である不帰嶮(かえらずのけん)を越えると云う現実に直面する不安。其のような想念が、脳裡から消え去って呉れない。テントの中でゴロゴロしているだけなのに、考えても仕方の無いことを考え続けて、私は勝手に精神を疲弊させていたのだろうと思う。退屈で眠れないと云うことは無かった。夜半に目覚めた時は、また雨音が聞こえていたのを覚えている。其れに対して脱力したように目を閉じた私は、ふたたび眠りに落ちた。次に気がついたら、すっかり周囲が明るくなっていた。おうい、雷鳥、と云うkz氏の声が聞こえたので、テントから這い出た。霧に覆われたテント場の隅に、一羽の雷鳥が泰然と佇んで居た。



Tengukaerazu1

2014/8/25

天狗山荘(9:50)-----天狗ノ頭-----天狗ノ大下り-----不帰キレット-----不帰嶮I峰-----不帰嶮II峰-----唐松岳-----唐松岳頂上山荘(16:15)

北アルプスの稜線上は、依然として霧雨が降っていたが、やがて其れも止んだので、慌てて我々はテントを畳んだ。思案の余地は無かった。今日も不帰キレットに行けないのであれば、もう一泊してでも天候の回復を待つ。そんな意気込みは、既に霧消していた。明日も同じ様な悪天だったら、もう白馬鑓温泉に引き返して帰ろう。そんなことを前夜、私はkz氏に云ったのである。其れは余りにも虚しい結末であるから、雨さえ降っていなければ、岩が濡れていて危険なのは承知で不帰キレットに突入する。kz氏はそう考えていたようだった。

身支度を整えて、ふたたび軒先のテーブルで食事を摂り、今度は最初から合羽を着て、いよいよ出発することになった。臆病の果てに、今日悪天だったら帰ろうと云っていた私も、此処でいよいよ決死隊として腹を括った。大袈裟なのは重々承知で、其の時の私の気持ちである。突撃の前に、標柱の上にカメラを置き、セルフタイマーで記念写真を撮っていたら、山荘から出て来た女性が、シャッターを押してあげると朗らかに云って呉れた。御好意に甘えて、ふたりで山荘の前に立って、写真を撮って貰った。

稜線に乗って振り返ると、2800m圏峰と白馬鑓の山容が、曇天の下で明瞭に聳えているのが見渡せた。黒部側を眺めると、清水尾根に雲が装飾したように纏わり付いている。其の向こうに、毛勝(けかち)三山らしき幅広い連嶺が黒く聳えている。程無く昨日挫折した地点に差し掛かった。今日は視界が開けていて、幅広い稜線から見下ろす谷は、濃い霧に覆われていた。天狗ノ頭の傾斜に向かって、踏路は徐々に稜線のエッジを歩くようになり、やがて信州側の風景が広がった。


Tengukaerazu2

切り立つ崖の下に雲海が広がっている。空を見上げると、雲間から徐々に薄い光明が差し込んでくるから、天候は回復しそうな気配を我々に感じさせた。白い空間に、恐竜の背中の様に長大な岩塊が浮かんでいる。八方尾根の付け根が明瞭に盛り上がっている。あれは唐松岳じゃないか、随分低いものだねえ、kz氏が呟いた。緩やかな勾配を登り、標高2812m、天狗ノ頭に到達した。此れ迄見えることの無かった五竜岳から鹿島槍ヶ岳の光景が、一挙に広がった。峻険な岩が連立する稜線が、雲海の上を辿って、何処迄も続いている。黒部ダムが見えるよと、kz氏が教えて呉れた。

絶景の山頂で小休止の後、いよいよ天狗の大下りに向けて出発した。軽快な足取りでkz氏が遠ざかっていく。私は、もう直ぐ現われる難所の入口を想像して、ゆっくりと歩いていた。やがて、唐松岳方面からやってきた最初の登山者と擦れ違った。挨拶をしながら、不帰嶮の様子を訊いた。二十代くらいの精悍な顔つきの男性が、岩は濡れていましたね、と云った。私はふたたび、初めて歩くので緊張している、と云うようなことを口走った。云っても仕様の無いことなのに、口に出したいと云う欲求が湧出してくるような気分だった。まあ、鎖が全部付いてますから。男性は微笑して、私に云った。

切り立つ崖の傾斜が激しくなってきた。其の斜面に刻まれた登山道を辿って歩いている。崖の向こう側は、鋭い岩稜が落ち込んでいく信州方面である。kz氏の巨大な黄色いザックカバーが、淡々と先に歩いて遠ざかっていく。尾根が分岐する処で、南面の向こうに一面の霧が掛かっていた。天狗ノ大下りが始まる処である。右手に延びる尾根へ登山者が迷い込まないようにと云う配慮からか、其れを堰き止めるような位置に、「これより天狗ノ大下り。足元注意」の立札が在った。ザックを下ろして小休止しながら、急降下していく岩場の登山道を見つめた。濃霧に包まれた崖を、此れから下って行かねばならない。


Tengukaerazu3

霧で視界が遮られている所為か、高所の恐怖感を感じない儘、砂礫の傾斜を下って行った。kz氏は相変わらずロードメジャーとストックで両手が塞がった儘、其れがリズムなのか、怖い怖いと云う言葉を連呼しながら下って行く。其れを啞然として眺めながら、私は爪先に神経を集中させて、緩慢な動きで足を踏み込んでいく。暫く経って、唐突な感じで岩塊に設置された鎖場が現われた。足掛かりは充分に在るが、随分長い鎖であった。漸く着地して、降りて来た岩場を見上げたら、まるで垂直にも見える断崖だったので驚いた。

ふたたび砂礫の道になって、安堵しながら下って行く途中で、霧が流れるようにして黒部側に去っていった。そして、目の前に突然、黒い峻険な岩山の群が出現した。声を失ったような気分で、私は不帰嶮の姿を見つめた。見るからに嶮阻な山頂部は、信州側から湧いてくる霧のヴェールを纏って、其の姿を見え隠れさせていた。不帰嶮は、其の名に相応しい、不気味な佇まいであった。視線を落とすと、刻まれた登山道が鞍部へと続いている。あれが不帰キレットだよ、kz氏が抑揚の無い声で云った。


Tengukaerazu4

傾斜が落ち着いてきて、岩場が削られて細くなったエッジの上を歩く。小さな突起の岩を黒部側に廻りこんで、鞍部の最も低い場所に辿り着いた。不帰キレットには其れを示すような道標は無かった。天狗ノ大下りと、対面にある不帰嶮一峰の岩山が迫ってくる、狭小の鞍部だった。此処迄やってきたのか。そんな思いで岩に座り、私は煙草に火を点けた。もう、行くしか無い。改めて感慨に耽っている私とは裏腹に、kz氏はザックを開いて荷物を取り出す作業に没頭していた。

何をやっているのかと訊くと、濡れたフライシートを乾かすのだと云って、橙色のシートを広げた。kz氏が巨大な化繊布を両手に掴み、信州側に向かって扇いでいる。俺がシートを乾かしている処を写真に撮って呉れ、とkz氏が云う。不帰キレットを通り過ぎる風は、其の風向きや強弱が目まぐるしく変わり、フライシートが棚引く様が一定とならないので、苦心して何度もシャッターを切った。ほうら、もう乾いたよお。kz氏が嬉しそうに叫んだ。

北アルプス屈指の難ルート。其のひとつと云われる不帰キレットで、kz氏が無邪気に乾いたフライシートを畳んでいる。私の緊張は、いよいよ高まっていくばかりだった。

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