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唐松岳・五竜岳(中編)

八方ケルン、第三ケルンを経て、八方池を巡る遊歩道の分岐に到達したが、休憩せずに濃霧の中へ突入した。一般的観光客は此処から先へは進めない。緩やかな傾斜が、深遠な樹林帯に向かって続いていた。そして、霧の中の尾根が、不思議な明るさに包まれた。鉛色の風景に、岳樺の優美な黄葉、其の白い幹が林立していた。そして其れ等を装飾するように、楓の紅色が彩りを添えている。私は、八方尾根の紅葉に幻滅したような気持ちでいた自分の頭を、唐突に殴られたような気持ちになった。幻滅とは難しい言葉であり、幻想から覚醒した筈の私の感覚が覆ったので、此れは幻想の復活である。其れがふたたび覆ることはもう無いだろう。そう思わざるを得ないくらい、眼前に広がる見事な紅葉の光景であった。

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2013/10/6

八方池山荘(11:50)---第三ケルン---丸山ケルン---唐松岳頂上山荘(15:20)---唐松岳---唐松岳頂上山荘(17:45)

索道で呆気なく千メートルを登り、行楽客に揉まれて歩いていたから、登山をしていると云う実感が無い儘、脚を繰り出していた。紅葉のお蔭で、茫然としていた其れ迄の意識が霧消していくように思えた。路傍の七竈の実の鮮烈な赤。其れが霧の中に明瞭に群生しているのが見えた。見通しの利かない樹林帯の登山道を縫うようにして登り、鮮やかな紅葉が広がると、カメラを構えて腰を据えた感じの人に遭遇する。普段は意識的に写真を撮るような態度は無いのだが、思わず私もカメラを取り出して、下手な写真を何枚も撮った。

下樺尾根が伸びる箇所を過ぎて、深い谷を左手に見下ろしながら、八方尾根の南側の肌をじわじわと登る道が続いていた。谷間の霧は深いが、濃密な紅葉の色彩が、其の深さを表現しているように思えた。重いザックを担ぐ鈍重な足取りの私が、次々と下山してくるハイカーたちと擦れ違う。濃霧から逃げるように降りてくる人々に抗って、私だけが違うところに向かって彷徨い歩いているような錯覚に陥る。

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扇雪渓で軽い食事を摂り、再出発すると、いよいよ其れ迄山腹の途上を歩いていた道が、ふたたび尾根の上に近づいてきた。砂礫状の稜線上に出た処が丸山ケルンだった。尾根の突端で、死者を弔う尖塔が霧に包まれて立っている。時刻は午後二時を過ぎていて、下山者の姿が現われることは無くなった。身体に染み付いていた焦燥感のようなものが、洗い流されていくような気がした。濃霧の中で、私は紫煙を燻らせて、何処を眺めると云うこともなく、立ち尽くした。

不帰險の山稜が近づき、唐松沢の行き着く深い谷へと、断崖が続く北方の気配を感じながら、八方尾根は険しい風景を構成するようになった。登山道は尾根の側面を器用に、傾斜を緩めながら続き、瘤状のピークを回り込むようにして捌いていく。やがて、本格的な断崖の側面を忠実にトラバースして、南へと進路を変えていくと、霧の中から海坊主のように忽然と、山のシルエットが浮かび上がった。啞然として其れを眺めながら歩を進めると、直ぐに唐松岳頂上山荘の建物が現われた。海坊主は五竜方面に聳える、牛首と呼ばれる山稜のピークのようだった。

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そうして、私は初めて後立山連峰の途上に登りついた。山荘は黒部側に向いて鎮座する立派な建造物だった。そして驚いたことに、黒部側に廻ったら、霧は谷間から時折噴出しているが、其れ迄のような濃霧に包まれたような景色ではなかった。やがて、雲間から陽が射すと、みるみるうちに黒部方面の谷の様子が現われた。天候は、間違いなく好転していく。そんな希望的な確信が、根拠も無く湧き起こってきた。

山荘で手続きを終え、テント場になっている黒部側の登山道に下りていった。テントは数える程しか無かった。それでも、随分下ってから、気に入った平地を見つけて設営した。テントの中に所持品を収納して、少し休んでからサブザックを背負って山荘に登り返していった。億劫な気持ちになる前に、唐松岳の頂上に向かうことにしたのである。

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唐松岳頂上山荘と云うのは、決して単なる虚名ではない。唐松岳の頂上から、緩やかに続いている稜線の途上にあり、山容の一部になっていると云っても云い過ぎではない。頂上迄、瓦礫状の道を登っていくと、二十分弱で到達できた。山頂に近づくに連れて、霧が濃くなった。霧と云うよりも、雲の中に入り込んだと云うような状況なのかもしれない。山頂の端で、三脚にカメラを据えて佇んでいる人が居る。山名標柱にカメラを向けていたら、撮りましょうかと、背後から声がした。

其れで、後に名乗りあうのだが、y氏と云う山岳撮影愛好登山の方と一緒に、暫く唐松岳の頂上に居ることにした。一縷の望みで夕映えの山岳風景が現われるのを待っているy氏と一緒に、取り留めの無い話をしながら、霧の晴れるのを待つことにした。時刻は午後四時半を過ぎたくらいで、霧の中とは云え未だ明るい。急いでテントに帰る必要も無かった。自分の浅墓な登山経験に就いて説明しているうちに、会話が繋がるようになってきたから、愉しくなってきていろいろ喋った。単独で陽が暮れる迄山頂に居るくらいなので、y氏は勿論ベテランの経験者である。

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其れで話が弾んでいたら、突然雲の動きが活発になって、太陽の光が霧の向こうから紗幕を挟んだような感じで辺りを照らした。雲海の中に、山塊が浮かんでいるかのように現われた。其れは峻険な尖峰が折り重なったような形をしていた。幻の大陸が忽然と出現した、とでも云うべき光景だった。しかし其れも束の間のことで、流れる雲は生き物のような奇怪な動きで、ふたたび視界を真っ白に染めた。

劔ですね、とy氏が云った。あれが、と、私は身体が痺れたような感覚の儘、呟いた。劔岳を肉眼で見たのは初めてだった。一瞬のことだったが、強烈な太陽の光に照らされた劔岳が、真っ白い空間に浮かんでいたのだった。太陽に照射されて神々しく光る其の姿は、この世のものとは思えない程、美しかった。雲の中に包まれた唐松岳で、其の儘待ち続けた。何度か雲が晴れて、劔だけではなく、立山の峰々も浮かび上がった。至近距離に、巨大な黒い山が忽然と現われて吃驚した。直ぐ其処に聳えているように見えたが、其れが明日目指す筈の、五竜岳だった。雲の中から、断続的に出現する光景に対して、最早遠近感と云う感覚は無用だった。

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風光明媚な山岳風景とは違う、異様な光景を眺めて、感に堪えなかった。もしもy氏が居なかったら、数分で下山の途に就いていただろうと思うと、想定外の僥倖であった。そんな感じで、私はごく個人的な感動に浸っていたが、雲が晴れるチャンスを待つy氏は、いよいよ落日が近づきつつある時刻になったので、霧の彼方を凝視していた。私も赤味を帯びた雲の紗幕の向こうを見つめて、待った。

一瞬、太陽の丸い輪郭が、不定形に膨張したように大きくなって、雲の合間から顔を出した。思わず固唾を呑んだ。しかし、其れはやはり一瞬の出来事だった。もう終わったかな。y氏が、誰に云うともなく呟いて、三脚を畳んだ。黄昏という余韻は無く、周囲は足を速めるように薄暗くなってきていた。其れで、ふたりで下山した。私は、云い様の無い感動の儘、瓦礫場の道を歩いていた。程無く眼下に山荘の姿が現われた。窓から暖かそうな明かりが洩れているのを見て、安堵感が、自然に湧き起こってくるのを、私は感じていた。

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