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唐松岳・五竜岳(後編其の壱・牛首の鎖場を辿る)

薄暮の唐松岳頂上山荘から、テント場へと下りていった。y氏と別れ、斜面の中腹にある自分の寝床に帰った。テントの傍に設置しておいた大きな岩に腰掛けて、紫煙を燻らせた。黒部方面に広がる谷の向こうに、私の真正面に、劔岳のシルエットが聳えていた。周囲は穏やかな天候に変わっていた。霧に包まれた唐松岳頂上が遠い過去のことのようである。劔岳の山稜に沿って雲海が広がっていて、空との境目を、黄昏の光彩が貫いている。残照の余韻と、夜の闇が綯い交ぜになった色彩の中に、劔岳が浮かんでいた。陶然とした儘、私はいつまでも其れを眺めていた。宵の明星が薄暮の劔岳の上で、煌々と輝いていた。

Km1

2013/10/7

唐松岳頂上山荘(6:30)---大黒岳---五竜山荘---五竜岳---五竜山荘---遠見尾根------小遠見山---アルプス平(16:00)

風も無く、静かな夜だった。十月の北アルプスでの幕営に対する不安は、杞憂に終わったようだ。モンベル製シュラフ、U.L.スーパースパイラルダウンハガー3(使用可能限界温度摂氏マイナス十度)に、ブリーズドライテックU.L.スリーピングバッグカバー。シュラフの中には念入りにもsea to summit製のサーモライトリアクター(シュラフとの併用で保温性能を約8℃高めるとある)に包まって入った。途轍もなく深い眠りだったようで、夜半に目覚めた時は、自分が何処に寝ていたのかと云うことに、一瞬気付かないでいた。テントの外に出たら、満天の星空だった。余りにも快い覚醒だったのに、時間は未だ午前一時になるところだった。其れが却ってもどかしかった。

二度寝になっても快眠は続き、次はアラームの音で目覚めた。またしても覚醒の瞬間、自宅のベッドに居る筈なのに何か違うと云うような感覚に陥り、仰臥した儘、エアライズ2の天井を不思議なもののように眺めていた。気持ちが良すぎて、暫く其の儘寝袋の中に居たのだが、また眠ってしまいそうになるのは確実で、意を決してテントから這い出た。白み始めた空に雲は無く、夜明けの光が、劔岳の上部を照らし始めていた。

Km2

山頂からの御来光を求める人々のヘッドライトが、唐松岳へと連なっていた。其れを眺めながら、ゆっくりと幕営の撤収を開始した。目の前に鎮座する劔岳の光景だけで、私は満悦していた。荷物が整ってからも、暫く此のテリトリーから離れ難いような気持ちになって、珈琲を飲んだり煙草を吸ったりして、なかなか出発しない。五竜岳の向こう側がいよいよ明け始めて、朝陽の断片が差し込んできたのを見て、重い腰を上げた。

山荘の前で靴紐を締め直して、朝食の食堂に向かう人々を横目で見ながら出発した。山荘の側面に出て、牛首方面の分岐に出た処で、強烈な明るさに圧倒され、立ち竦んだ。東側の白馬村方面には果てしない雲海が広がっていた。眩暈を起こしそうになるくらい、朝陽が眩しい。茫然とした感じで、其れでもゆっくりと牛首の岩稜に続く棘棘しい登山道に脚を踏み入れた。登り詰めた処で、雲海の全景を眺めた。妙高山、浅間山、八ヶ岳、南アルプス。全ての秀嶺が、雲の上に浮かんでいた。富士山の台形が、歪んで鈍重な形に見えた。

Km3

気を取り直して、牛首の側面を辿る登山道に向かった。慎重に、の看板が在り、鎖場が始まる。後立山連峰の縦走を試みることにして、不帰キレットや八峰キレットに行く勇気は出ないが、此の唐松から五竜への区間にある牛首の鎖場なら行けるのではないかと、自分なりに予測を立てて来た。西上州、裏妙義の鎖場に恐れをなして、生来の臆病さが戻ってきた。計画が慎重になっている。岩登りの経験も無いのに沢登りへ連れて行って貰ったりして、今年になってから、私は自分の力量が判らないのに、無謀なことを無自覚に行なっているように感じていた。牛首の鎖場の入口で、改めて、単独行で北アルプスの鎖場に挑戦するのだと云う緊張感に、胸が苦しくなった。しかし、此の緊張感は、何故か心地よいと思うのだった。

Km4

岩稜の黒部側をトラバースする鎖場は足場が明確で、予想以上に簡単に踏破することができた。時折、急激に切れ落ちた先の谷底を見るような高度感の儘、鎖で通過する箇所もあったが、特に逡巡するようなことも無かった。其れでも平静ではいられなかったようで、陽の当たらない断崖に張り付いて進み、漸く岩山の広場に出たら、自分の脈拍を確認するかのように、何度も深呼吸をした。2511mピークで難所を終えたら、五竜岳が何時の間にか巨大化して目の前に聳えているのと対峙した。

瓦礫状の細い山稜が、徐々に這松に覆われて、前衛の尖峰へと伸びる。2393mの大黒岳は、この間で最も下降する処に在るが、其の大黒岳のひとつ先には黒部側に長大な尾根を延ばすピークがある。そして五竜山荘の在る鞍部の手前に、遠見尾根を分岐する白岳が聳えている。だから五竜岳の見事な山容は、目の前に続いている起伏に富んだ山稜に装飾されていると云うのが実感できる。

大黒岳へ降りる迄に、終わったと安堵していた鎖場がふたたび現われて、心拍が激しくなった。快晴の空に劔岳が燦然と存在を誇示して立っている。其れを感じながら、岩崖の細い足場を伝っていく。やがて岩場を直登する箇所に突き当たった。此の先下りで転落多発、の看板がある。怯えながら登り詰め、恐る恐る下って行く途中で、後ろから人の気配を感じた。唐松山荘から来た壮年の男女であった。山荘でゆっくり朝食を摂ってからやってきた壮年夫妻に追いつかれてしまった。大きく膨れ上がった私のザックを見て、昨夜のテント場はどうでしたか、と訊かれた。無風で寒いこともなく、快適だったと答えたら、山荘の中は暖房で暑すぎて難儀したと、御主人の方が云った。

Km5

道を譲って、ゆっくりと最低鞍部を目指して下降していく。行く手に見える、気持ちよさそうな剥き出しの稜線に、もう先程の夫婦の姿が現われた。健脚である。そして、初めて五竜方面から人がやってきた。軽快な装備の男性は、みるみるうちに登ってくる。斜面の途中で擦れ違う。凄い荷物ですね、縦走ですかと聞かれたので、恥ずかしながら唐松に泊まって今日下山するのだと告白した。私のクレッタルムーセン製Huginは、巨大な袋状になっているザックで、上手にパッキングしなくても膨らんだ儘ロールして袋を閉じることができる。見た目は巨大だが、容量は其れ程でも無い。それに十月の北アに対する気候の恐れもあって、衣類が少し嵩張っているかもしれない。そんなことを話した。其れは賢明な考えです。こんなに暖かいのは自分も意外に思っている。アスリート然とした風貌の彼が、そう云って呉れた。

さて、随分歩いたような気がするが、どの辺りに居るのだろうかと思う。遠近感が当てにならないから、五竜岳や白岳が、ちっとも近づいてこないような気がする。穏やかな稜線の上からは、相変わらずの絶景を左右に眺めながら歩いている。大黒岳を黒部側に捲いて、漸く最低鞍部の樹林帯に突入するから、未だ道は半ばなのだと認識した。突如現われた樹林帯は、其れ迄の険しい岩場の連続から解放されたような気分を呉れた。そうして、後立山連峰の主稜で最も低いとされる鞍部から、砂礫場をふたたび登り返していった。安全な登山道だが、登りは果てしなく続くような気がするくらいに長い。疲労感が初めて湧き上がってきた。

Km6

東の白馬村側に、断続して険しい谷が現われ、岩崖の合間に雲海の絶景をフレーミングして眺める。麓は曇天なのだろうかと思う。登山道は、地形図で記されている通り、細長い形で等高線が閉じているピークの岩山の裾を辿っていた。やがて黒部側に伸びる、明瞭な尾根が近づいてきた。分岐する地点に、立ち入り禁止の看板があった。登山道としては途上と云う様相の場所だったが、其処で大きな休憩を取った。

聳える山稜に向かって、傾斜を登り詰めて、遠見尾根分岐の標柱に到達したら、直ぐ其処に、五竜山荘を見下ろした。此処迄約二時間半が経過していた。コースタイムとほぼ同じである。其れを確認して、安堵しながら山荘に降りていった。五竜山荘の広場には、若い男女の集団が嬌声を上げながら記念写真を撮っている。折角の充実感が台無しなのだが、山荘の影のベンチで休んでいたら、やがて消え去って呉れた。

Km7

山荘の玄関にあるザック置き場に大方の荷物を預けて、軽装になった。いよいよ後は五竜岳に登るだけである。月曜日の遅い朝、五竜山荘は眩い陽光を浴びて、暑いくらいの気温だった。私は、此処迄期待はしていなかったのだが、と思うくらいに青い空を背景に聳える岩稜を見上げて、何とも云えない気持ちになった。唐松岳で、朝の風景を撮影してから、鹿島槍に向かうと云っていたy氏のことを思い出した。五竜岳に登頂し、其の帰途に擦れ違うかもしれない。そんなことを考えながら、私は徐々に高度を上げていく岩崖の道を、登り始めた。

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