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常念岳の月

Yokoo



常念岳は常念坊とも呼ばれ、其の由来は諸説あるが、合戦尾根同様、坂上田村麿に拠る東征伝説が定着しているようである。田村麿と戦った八面大王の有明山に比べると、臣下の常念坊が此の壮麗な山の由来になっているのがなんだか可笑しい。其れはそうとして、常念岳には何故か神秘性が薄いような気がしていた。安曇野から顕著に眺めることのできる山容は、ヴェールを纏うと云うイメージが無い。ロマンティシズムは奥地に潜むと云う観念が、槍ヶ岳などに比べて常念岳を俗化せしめているような気がする。実際、私の心裡にしても、穂高岳に行きたいが時間其の他の制約上、仕方なく常念岳を巡ると云う動機があったのである。月明かりに照らされた常念小屋のテント場から、槍穂高方面の霞が掛かった空を見上げて、私は自分の思惟の、恐るべき驕慢さを実感していた。

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2013/8/22

常念小屋(4:00)---常念岳(5:20)---2512mピーク(7:10)---蝶槍(9::05)---2625mピーク分岐点(9:20)----横尾(11:20)----上高地(14:40)

シュラフに潜って、ウィスキーを舐めながら、登山地図を眺める。常念山脈を甘く見ていた私には、懸念すべき問題があった。二日目に蝶ヶ岳迄到達すれば、あとは上高地に下山するだけである。其れで帰途の高速バスの切符を、事前に予約し、購入していた。余裕の無い計画をした積もりは無かった。夕刻16時過ぎに出発する便を予約したのである。時間は随分余るに違いない。徳沢に降りたら、明神池を散策するのもいいだろう。そんな気持ちでいた。

常念小屋の目の前に聳える常念坊の威容を眺めて、明日の午後に上高地へ辿り着くにはどれくらいの時間が掛かるのか、一抹の不安がよぎった。堆積した疲労感。此れ迄の道程に掛かった所要時間。登山地図の標準コースタイムに、大幅な余禄を与えなければならない。常念岳登頂迄一時間。山頂から横尾へ下山する分岐迄は三時間四十分。横尾迄二時間。横尾から上高地迄三時間。常念小屋から上高地迄、休憩を控えめにしたとしても、実に十時間の行程だった。此れに余禄を与えたら、一体何時に出発したらよいのか。考えれば考える程、気持ちは沈みこんでいった。

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午前三時に、浅い眠りから覚めた。気持ちを静めながら、テントを撤収し、コーンスープを温めて飲んだ。心此処に在らずで、味がしなかった。午前四時、縦走最終日のザックを背負い、小屋の前に出て、常念乗越の底から、青黒い空を見た。期せずして、見事な満月が未明の空に浮かんでいた。ヘッドランプを消してみる。常念坊の黒い巨大な影が目の前に浮かび上がった。

足元を照らすランプの光を頼りに、歩き始めた。這松に縁取られた登山道は、やがて瓦礫状の岩襖を縫っていくようになる。赤丸印を見失わないように、慎重に歩いていると、心身に疲労が押し寄せてくる。暗闇の中で立ち止まり、眼下の常念乗越を見た。早出の登山者たちの灯火が、漸く集まってきたようだった。安曇野方面の空が、やや薄明るい感じになってきたが、反対側を見れば、満月は雲に見え隠れしながら、煌々と光っている。

瓦礫場を無心に登り続けていたら、東方から尾根が合流してくるのが分かった。雲間から白い光が覗いている。前常念岳と思しき山稜が近づいてきた頃、瓦礫の急登が終わった。見渡す限りに、岩の塊の堆積した地平が広がっていた。三股の道標をやりすごして、時折振り返りながら歩いた。二人組のヘッドランプが、直ぐ近く迄来ていた。其れで、自分の速度への疑念がよぎったが、彼の二人組は空身だったから、さもありなん、私は静かに歩き続けた。

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鉛色の雲が複雑に交じり合って、常念岳の山頂を覆っていた。前常念の彼方には雲海の果てに、夜明けの陽光の色が薄く染まっている。しかし、山頂の祠の向こうに広がる横尾尾根の山塊の向こうに見える筈の、槍、穂高の頂は、厚い雲に覆われていて見えない。常念山脈の衝立の正面に明るいステージが在って、背後に薄暗い緞帳が広がっている。其の頂点に、私は立っていた。標高二八五七米、常念岳の頂上に時折、雲の隙間から、朝陽が直射してくる。スポットライトを刹那的に浴びているような気分だった。

そんな感慨に耽っていたら、間もなく空身の二人組が登頂しようとしていた。妙齢の男女が、朗らかに会話をしながら登ってくる。私は祠の在る山頂から、道標の在る処迄下っていった。自分のペースが遅すぎるのではないかと、細かく所要時間を気にしていた昨日の心裡とは違う意味で、今日は切実に踏破時刻を気に掛けなければならない。スタートから常念岳頂上迄、既に標準所要時間を二十分超過していた。

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南方に連なる常念山脈の彼方に、厚い雲が今にも下りてきそうな程低く覆っている。蝶ヶ岳の向こうに大滝山が遠近感を際立たせて連なっている。蝶ヶ岳に至る山稜は、常念岳から落ちていく三連続の岩の尖峰が並んでいる。登山ルートの筋が、西側の斜面を辿っていた。道程は余りにも遠いような気がしたが、北アルプス縦走で、初めての好天と云って好い状況に、私は昂揚していた。岩襖の折り重なる険しい下りを、慎重に進んでいった。横尾尾根の山腹に、常念坊の影法師が浮かんだ。

岩場は延々と続いた。上から眺めた時は砂礫状のように思えたが、実際に踏み込んで行くと、其処は相変わらずの岩場だった。時折、盛り上がったピークのように見える巨岩の塊にぶつかると、頼りのマーキングを見失って、リッジの上に出てしまうことがあった。東側は断崖になっていて、其の向こうは圧倒的に無の世界であった。間違えた、そう気付くと、心臓が早鐘を打ち始める。赤丸印を血眼になって探すが、動揺している所為か、其れは中々見つからない。そしてふと我に返る。マーキングに依存する自分の感覚、其れは意志が停滞していると云うことに気付くのだった。岩の堆積している隙間を選んで、慎重に歩けそうなコースを判断して進んで行くと、やがて思い出したように赤丸の描かれた岩が現われた。

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想像以上に困難だった岩稜のアップダウンを繰り返して、2512mピーク手前の鞍部に到達した。陽光は愈々心地よく降り注いでいる。目の前の壮大な岩峰を眺めながら、休憩して煙草に火を点けた。2512mピークの上から、ふたりの登山者が現われた。蝶ヶ岳方面からやってきた、一番早い登山者である。トレイル・ランニング風の軽装の若者と、ベテランの年配者のふたりは、みるみるうちに急激な岩を下り、鞍部に到達した。そうして常念側の始発登山者である私と擦れ違った。振り返って彼等を眺める。確実で無駄の無い足取りで、アッと云う間に常念の岩尾根を登って行った。

実直な急登の果てに、2512mの頂上に立った。時計を確認したら、常念岳から二時間弱が経過していて愕然とした。昭文社の標準コースタイムは、此の間三十分と記してある。テント泊の重装備を差し引いても、四倍の時間が掛かるとは思えない。多少の遅れは覚悟していたが、此れは地図のデータが間違っているのだと判断した。90分の遅れは、困惑、そして動転する現実だった。

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長閑な岩稜の道を、ふたたび歩き始めた。前方には、此れ迄の風景から一転して、樹林に覆われた緑の山が聳えている。常念岳と並んで、一ノ俣谷へと長大な尾根を従えた2592mピークである。荒涼とした岩峰を辿ってきた眼には、生命の息吹を感じる此の山の風情は新鮮だった。登山道が、緩やかに下降を始めた。背の低い這松の道が徐々に深くなって、小ピークとの鞍部に着いた。精悍に日焼けした女性ハイカーが現われ、挨拶して擦れ違った。凛々しい風貌の単独女性を、茫然と見送った。

樹林帯の鬱蒼とした道に入り、緩やかに登り返す。湿った空気と、泥濘の足元が、気分を重くさせた。私は何時の間にか焦って、足早に歩を進めていたようだった。登山道は明瞭だったが、鬱蒼とした樹林の中の或る地点で、突然行き止まりのような錯覚に陥った。躊躇しながら繁みに近づいたら、薄い踏み跡が窺えた。藪状になった微かな踏み跡を進んでいったら、徐々に傾斜が急になった。爪先で制御しながら、恐る恐る下って行くと、やがて繁茂する樹林が薄くなって、明るくなった。

其の光景を見て、私は息を呑んだ。踏み跡が途切れた其の先は、霧に覆われていた。其処は断崖だった。勢い余って降りていたら、呆気なく谷底に墜落していただろうと思うと、全身が凍りつくような気分になった。間違えた、私は慌てて湿った土の斜面を登り返して、其の途端、靴が滑って片膝をついた。全身が総毛立ったような気がした。総毛立つとはこう云うことなのかと思いながら、私は息も絶え絶えになって樹林帯に引き返した。

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行き止まりのような錯覚に陥った地点に戻り、周囲を眺めていたら、登山道は死角になったように大きく西側に切れ込むような感じで、樹林帯へと続いていた。じめじめした泥濘の道を、未だ動悸が治まらない儘歩き続けた。登山者たちと頻繁に擦れ違うようになった。鞍部から、2592mピークへ、改めて登山口から入山するような気分だった。周囲の風景はまるで奥多摩の山間を辿っているような樹林帯で、既知のような感覚を想起させた。

見通しの利かない登山道を辿り、2592mピークに達して、休憩せずに其の儘通り過ぎた。山腹に刻まれたジグザグの道を、足早に駆け抜ける。何度か、膝に力が入らずに、転びそうになった。小さな沼を横目に見て、蝶槍との鞍部に降り立った。今日は何度も鞍部に降り立っているから、其の繰り返される行為の記憶が、眩暈にも似た疲労感で、全身を弛緩させていくような気がした。

また一からやり直しかとも思うが、此れを登りきれば蝶ヶ岳の山域に達するのだと、自らを鼓舞して、無心で登りを開始した。樹林帯の道はしばしば崩壊していて、木の根を掴んで登ったり、岩の折り重なる箇所を悩みながらルートを選んで進んでいった。そうして、ふたたび森林限界を越えて、眼が覚めるような眺望が広がった。横尾谷へ陽射しが差し込んでいる。天井は相変わらず厚い雲に覆われていて、槍ヶ岳は見えない。振り返ると、常念岳が、今迄通ってきた山々を配下にして、厳然と聳えている。

端整な形の山容に、突起したような尖峰の蝶槍を遠くに見ながら歩いて来たが、其れが目の前に現われた。至近距離で見ると、人工的に積み上げられた岩が重なってできた峰のようにも見える。傾斜の緩やかな西側に自然と足が向いたが、やがて岩が折り重なっていて、屈強な這松が群生している箇所に突き当たり、先へ進めなくなった。途方に暮れて、ふと背後に気配を感じ振り返ってみたら、何処からとも無く現われた登山者が、常念方面へと下って行くのが見えた。引き返して、改めて蝶槍の全容を眺めた。真直ぐに岩峰を登っていったら、東面を捲くようにして、あっさりと蝶槍の突端に着いた。

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天井の低い北アルプスの全てを見渡せる頂に立って、漸く自分の中の気持ちと、肉体の均衡が保てるようになった。蝶ヶ岳方面を眺める。天上の美しい庭園が広がっている。直ぐ目の前の大地は三角点の在る2664.3mピークで、其の向こうに丘陵のような感じで、ヒュッテの方へと起伏が続いていた。時刻は午前九時だった。二日間を掛けて縦走してきた常念山脈との別離が近づいて来た。常念岳から2512mピーク迄の90分の遅れは、累計すると一時間短縮した計算になる。滑落死の想像に対する恐怖で、私は所要時間に執着できなくなっていたから、何処で挽回できたのかは定かではない。

標高2625mに、道標がぽつんと立っていた。其処で随分滞って休憩した。槍ヶ岳が少しでも顔を出さないか。未練がましく、私は横尾と書いた道標の下に座って、紫煙を燻らせていた。天上を覆う灰色の分厚い雲は、泰然として動く気配は無かった。

穂高連峰を正面に見て、其れが徐々に見上げるような感じになって、分岐を下って行った。直ぐに樹林帯に突入し、延々と急激な傾斜をジグザグに下降する。バスの時刻には充分間に合う計算だが、単調な下りで神経が緩み、疲労と足の痛みを直截的に感じるようになった。重いザックを担いでアップダウンを繰り返して、6時間が経過していた。足の裏が悲鳴を上げているような気がした。途中、Tシャツと短パンで登ってくるおじさんと擦れ違った。横尾にテントを張っていて、空身で蝶ヶ岳を往復すると云うから、稜線で寒くないか心配になった。上は風が強かったと伝えたら、おじさんは途端に不安な表情になった。寒かったら引き返せばいいのだから、詰まらない不安を与えるようなことを云ったのが、却って迷惑だったかもしれないと後悔した。

沢音が聞こえてきて、苦痛に耐え続ける足に構わず歩いた。森林の中の小径に合流して、其れが槍沢への登山道と合流する処だった。喧騒が聞こえてきたら、横尾山荘に出た。吊橋の前で、此れが彼の有名な横尾であるかと立ち止まったが、所在が無いので其の儘歩き続けた。平坦な道をのんびり歩くのは快適な筈だが、足裏の痛みが酷くて、碌に足を繰り出すことができない。夢遊病者のようにふらふらと歩く私を、老人ハイカーのグループが次々に追い越していった。

梓川に沿った処で、前穂高岳北尾根の峻険が正面に見えた。屏風岩へと続く尾根も霞の薄いヴェールを纏って屹立している。眼福の散歩道を、よろめきながら歩く。途中、遠い彼方に陽光を浴びて光る立派な峰が見えた。其れが余りにも際立って美しいから、広域図を見て確認したら、立山連峰であった。曇天の谷間は全てが彩度の無い風景で、彼方に垣間見える、絵葉書のように光り輝く立山の彩りは劇的な光景だった。地図を広げた儘立ち尽くしている私の横を、後からやってきた人々が、次々に通り過ぎて行った。

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別記
(七月から八月の記録)

2013/7/28

東日原(7:30)---巳ノ戸橋---鷹ノ巣谷入渓---20m大滝---金左小屋窪---石尾根縦走路---鷹ノ巣山---稲村岩尾根---東日原(20:30)

2013/8/4
(西丹沢登山詳細図踏査)

浅瀬入口バス停(8:15)---寺ノ沢橋---二俣---寺ノ沢ノ滝---二俣---世附権現山---755mピーク---焼津---浅瀬入口バス停(16:30)

2013/8/18
(筑波山)

つつじヶ丘(7:00)---おたつ石コース---弁慶茶屋跡---女体山---男体山---弁慶茶屋跡---おたつ石コース---つつじヶ丘(11:00)

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