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重太郎新道から前穂高岳(中編)

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2012/9/22

岳沢小屋(5:00)---カモシカ立場---雷鳥広場---紀美子平---前穂高岳---紀美子平---重太郎新道---岳沢小屋---上高地(15:30)

Dakesawa_panolama2

平日でも観光客がごった返す上高地の喧騒から逃れるようにして、岳沢の登山口に向かった私は、初めて登る北アルプスの山と謂う意識が重圧となった所為か、一心不乱に登山道を歩き続けた。天然クーラーを越えて、大きく切れ込んだ岳沢に沿う瓦礫場に出て、目を瞠った。聳える尾根、そして抉られたような幾つもの谷が、そそり立つ断崖となって、遥か上空まで延びていた。

西穂高岳、間ノ岳、ピラミッドピーク。登山地図を見て、改めて、目の前に聳えている断崖の山を確認して、私は現実感を失うかのように其れ等を眺めた。感動を自制できなくて、何をすればよいのか分からない、そんな精神状態だった。出来ることは、岳沢小屋への道を、淡々と登り続けることだった。予定通りの時刻に到着して、小屋で手続きを終え、沢沿いの登山道に点在するテント場に向かった。考えてみると初めて、単独の幕営をするのだな、と謂う感慨を抱きながら、私は設営を終えて、暮れていく上高地を見下ろしていた。西穂高の天上から、舞台装置のように、霧がゆっくりと降りてきて、岳沢を包み込んだ。

雨音がテントを打つ音で夜半に目が覚めて、ふたたび眠りに落ちた。未明、目覚まし時計の音で起きたら、雨音は激しさを増していた。恐る恐る、雨具を羽織って外に出る。夜は明け掛かっているが、西穂高を望む筈の断崖は霧で全く見えなかった。雨は断続的に降っていた。私は、テントに戻り、暫し沈思黙考することになった。

テント基地から出発して、重太郎新道を経て、奥穂高岳に登頂し、ふたたび戻って来る為には、もうすぐ出発しなければならない。天候の快復を待っていたら、目的地に到達できない。行くか。しかし、そんな性急な理由で出発して大丈夫か。北アルプスの登山に於けるセオリーがあるとすれば、其れに反する思考と行為なのではないか。もう少し待つか。しかし悪天候と謂っても、冬山の吹雪じゃあるまいし、ただ雨が降っているだけだ。其のうちに快復するのではないか……。

堂々巡りの末に、私は雨中の為の服装に着替え始めた。まんじりとテントの中で待避しているのは苦痛だった。午前五時の時計表示を見て、私はテントから這い出た。広大な岳沢から逸れた登山道は、ジグザグに、徐々に勾配を上げていった。振り返ると、小屋とテント場が直ぐ眼下に見下ろす位置にあった。私は、心細さに抗うように、歩を進める。程なく、崖に掛かった梯子が現われた。私は、固唾を飲んだ。古びた鉄製の梯子は、其の高度を克服する為に、ふたつを連ねて、岩に打ち付けてあった。濡れた其の梯子を一段ずつ掴み、ゆっくりと登っていく。いけないと知りつつ、下を見ると、想定どうりの高所感で、私はかぶりを振りながら、登り続けた。

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気がつけば、いくつもの断崖を登り続けているのだった。梯子は其の後二箇所に設置してあった。三度目の梯子を登りきった時、ストックが手を離れて、梯子の向こうに消えた。愕然として下を覗いたら、其れは谷底に落ちてはいないで、梯子の下に有った。私は空身でストックを取りに、また梯子を降りていった。徒労に疲れて、私は悲壮感に浸っていたが、間もなく、大きく展望の開けた岩場の上に到達した。カモシカ立場と呼ばれる箇所で、確かにカモシカが屹立できそうな、フラットな大きな岩が在る。振り返ると、眺望が広がっていた。左側に明神岳、霞沢岳、右手は西穂高岳の山稜、そして赤茶色の焼岳、中央奥には乗鞍岳が鎮座していた。其れ等の真ん中にある谷底に、小さい雲が浮かんでいて、上高地が垣間見える。私は、水墨画のような其の風景に、しばし心を奪われていた。

勢いは微弱になったが、相変わらず霧雨は降り続いていた。切り立った岩崖の上を歩く道から、奥深い扇沢の断崖を左に、延々と続く明神沢の峻険な壁を右に、それぞれ眺めながら、いよいよ大きな岩の折り重なった尾根を進んで行く。漸次高度を上げて、ふたたびの眺望が開けると、其処が岳沢パノラマと呼ばれる処で、振り返ると、其れは先程の風景と同じなのだが、遠くの空が明るくなり始めていた。乗鞍岳の、さらにその後ろから、長大に広く聳える山が姿を現わす。木曽御嶽山の威容だった。

出発して、二時間が経過していた。ペースは申し分が無い。天候は相変わらずで、辺りの風景は鈍いモノトーンの色彩でしかなかったが、私は、岩の塊の隙を衝いて進んで行くと謂う、穂高岳の歩き方に、徐々に慣れてきたから、そんな自分に、充足的な気分を覚えていた。悪天候の重太郎新道に、登山者の姿は無かった。私は黙々と登り続けていた。霞んだ儘の断崖が、徐々に近づいてくるようだった。山稜の上に近づいてきている。雷鳥広場を越えると、一挙に険しい巨岩が折り重なる箇所にぶつかる。白ペンキのマーキングを頼りに、其れ等をパスしていく。最後の梯子の箇所を通過して、ひと登りで、紀美子平に到着した。

P9210383

とうとう此処迄来たか、と謂う思いに浸りながら、私はザックを置いて岩に腰掛けて、煙草に火を点けた。重太郎新道の途上では、雨に降られてはいたが眺望はあった。しかし、此処に至っては、辺りは霧で真っ白であり、紀美子平の道標の向こうに、塔のように屹立している前穂高岳への岩稜の、その根元が窺える程度であった。其の左手を見ると、薄っすらと岩崖が続き、岩に白ペンキで、オクホダカ、と書かれていた。紀美子平には、私ひとりしか居ないのであるが、前ホ、と書かれた岩の処に、ザックがひとつ置いてあった。どうやら先客がひとり、前穂高岳にアタックしている最中のようだった。私は紫煙をを燻らせながら、ふたたび逡巡の思惟に陥る。吊尾根への入り口で、私は、怖気づいている自分を感じていた。

此の儘吊尾根に突入しても、霧で何も見えないであろう。此処から往復して四時間。疲れ切って岩場を辿り続けて、事故を起こさないとも限らない。私は既に、岩場の連続で疲弊していたのだった。初めての北アルプス。奥穂高岳の頂上に立つのは、私にとっては偉業ですらある。眺望は最も重要な問題ではない。しかし、此の労苦に対する癒しが、今は必要であると謂う気がした。初めての北アルプス。前穂高岳へ登頂するだけで、充分ではないか。私は、そう自分に納得させようとしていた。

其れでも、相変わらず座った儘、私はパンを齧っていた。理由も無い儘憂鬱な気分で、食事を摂っていた。其の時、一羽の鳥が紀美子平に舞い降りた。茶色の鳥は辺りを窺うように徘徊していた。此れが雷鳥なのだろうか。私は茫然と其れを眺めていた。雷鳥は徐々に私の居る方に近づいてくるから、パンの欠片を抛ってみた。注意深い素振りで鳥は近づいてきて、パンの屑を食べた。其れは反自然的な行為だと分かっていたが、私はもう一片を抛った。雷鳥は其れを吟味しているようだったが、あまりにも人間に近い処にあるので、其れに近づくことを放棄したようだった。そして、飛び立つわけでもなく、ぴょんぴょんと跳ねながら、私から遠ざかっていく。そして其の儘、オクホダカ、と書かれた岩の向こうの、霧の中に消えていった。

其れで決断した。今日は前穂高岳に登り、其の儘岳沢に引き返す。そう決心したのは、根拠の無い恐怖だった。奥穂高岳に至る吊尾根の方に消えていった雷鳥は、私を、二度と戻れない迷宮へと、誘っているように感じた。

私は、ザックを置き直し、踵を返すかのように、前穂高岳への岩崖を登り始めたのだった。

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コメント

雨がテントを叩く音っつうのは、ほんとに憂鬱なもんです。
また一人だと、愚痴る相手がいないから、黙々とつらい作業をしなければならないのがつらいところですね。
単独行は自分との闘いなんだなあと、文章を読んで改めて思いました。

それよりなにより、単独でテント泊したっていうのはすごいことですよ!
山を始めてまだ間も無いっていうのに、独学でここまでやれる人なんてなかなかいないですよ。

僕は小学校の時から親父に連れられていたという下地があったので、すんなり単独のテント泊もやれました。

単独だとやっぱり、事故った時、助けてくれる人、助けを呼びに行ってくれる人がいないのがつらいし、怖いですよね。
この恐怖心は、何度も通って、経験を積んで克服するしかありません。

逆に悪天の経験ができたっていうことは、貴重な良い経験ができたのだと思いますよ。
僕も、夏の奥穂高岳は晴れたことがありません。
何度か景色が広がったのは良い方ですよ。


吊尾根は、霧の中を歩いたという記憶だけです。
しかも○印だけが頼りなので、何度か迷いました。
前穂高岳で引き返したのは懸命だと思います。

奥穂高岳は、次の機会にとっておきましょう。
GWは雪があるけど、晴天が期待できますよ。
-20度用シュラフとか、スキーズボンとか、冬山の防寒装備が必要ですけどね。
マジ寒いので…。

雷鳥って悪天の時に出て来るんだよね~。
でも、奥穂付近では見た事ないなあ。
うずらみたいで、可愛いよなあ。

雷鳥が、吊尾根に消えたってのはドラマですな~。
なかなか良いエピソードっすね~。

読んで戴いた通り、単独は勿論、初めての北アルプスということで、
行く前から戦々恐々だったわけです。
単独行は…窮極の自問自答な世界という気がします。

仰るとおり、悪天候の経験はよかったのかもしれません。
やはり今思うと、穂高岳を見くびっていたのだなあと思います。

雪のある北アルプスは、やっぱり無理かなと思います。
マジで死ぬ予感がします(笑)

雷鳥と書きましたが、ホントに雷鳥なのかは定かでありません。
でも雷鳥だったと思いたいです。

雷鳥広場も近所だし…って(笑)

後編のご感想も待ってます!

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