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重太郎新道から前穂高岳(前編)

2012/9/21

上高地バスターミナル(13:00)---岳沢登山口---天然クーラー---岳沢小屋(16:00)

Kamikochi_1

繰り返すように自問自答する。信じられないことに私は上高地行きの高速バスの車中に居て、談合坂PAを出発し、お馴染みの扇山や百蔵山が車窓に現われて、後方に去っていく。大月ジャンクションを過ぎたら、登ったことはないけれども、いつも大月駅のプラットフォームから眺める岩殿山の見事な断崖が現われた。そして、笹子トンネルにバスは吸い込まれていく。

事前に切符を予約して、新宿の都庁から出発する高速バスに乗って、北アルプスへと向かうなど、私の山歩きには縁の無い計画で、想像したことも無かった。テントの山行きに憧れ、鳳凰三山に迄登ったのに絶景の眺望を得られなかったことに対する忸怩たる思いへの反動なのか、思い立って読んだウォルター・ウェストンの『日本アルプス』の所為なのか、とにかく私は、上高地へ行こうと決心したのだった。

ひと口に北アルプスと云っても漠然としている。槍ヶ岳とか剱岳とか白馬岳とか、名前は当然知ってはいても、私は其れ等がどのような位置関係に並んでいるのか、と謂うことすら知らなかった。昭文社の登山地図を二種類購入して、広げてみて、なるほどと首肯した。名にし負う北アルプスの山々は、安易にモータリゼーションを寄せつけない、奥深い処にある。公共交通機関を利用して、できれば鉄道の駅を下りたら登山口迄歩いて行けるような(バスに乗り換えるという行動すら面倒なのである)、そんな山歩きに私は安寧を求めていた。だから、北アルプスと謂うのは、私にとっては複製しか拝めない名画のように、手が届くような実体を感じられない存在なのであった。

割り引いて勘案してみると、穂高駅からバスに乗って中房温泉に在る登山口から行く燕岳が、アプローチし易いようにも思えて、実際、北アルプスの入門コースと呼ばれる此のプランで、私は当初登ろうと考えた。しかし、ウェストンの描写する上高地、そして穂高岳の威容に対する厳粛な表現に、私は魅入られてしまった。穂高岳、其れはあまりにも有名で、ジャンダルムとか大切戸とかザイテングラートとかとか、峻険な尾根が連なっていて、標高は日本で三番目に高いというものである。私のような半端者が単独でそんな処に行ったら、ベテランの登山者に怒られるのではないか、などと謂うことすら、本気で考えたのである。

登山地図を広げ、インターネットで経験者による夥しい数の記録を読み、私は莫迦みたいに悩んだ。上高地から穂高岳へのマジョリティ・ルートは、云わずと知れたことだが、横尾からぐるりと旋回して涸沢に向かうものである。しかし私には問題があった。其れは、夜行バスに乗りたくない、と謂うことで、其の理由は、独りでバスに長時間乗って、知らない誰かと同席するのが苦痛であること、そして、満足な睡眠が得られず、直截的ではない疲労感に苛まれながら歩き始めることへの嫌悪である。バスが混まない平日に実行することは決めていたが、高速バスは何本か出ているものの、登山者たちの選択するのは、凡そ夜行便に集中するだろうから、混まないという保障が無いと考えた。其れで、朝の便で上高地に向かうのが得策なのだが、正午過ぎて到着して歩き始めても、其の日のうちに涸沢のテント場に到達するのは不可能である。

上高地に鉄道とバスを乗り継いで行くのはあまりにも遠い。直通の高速バスがあると謂うことが、今回実行するにあたっての前提である。其れなのにこの我儘な思惟ではあると思うが、気楽なのは単独行の独壇場である。我儘を言っても聞いてくれる者など、そもそも存在しない。私は、消去法のような順序で、上高地バスターミナルからコースタイムで二時間半で到達できる筈の岳沢小屋のテン場に向かい、翌朝に重太郎新道から前穂高岳を目指す、と謂う計画を確定した。生半可な経験しか無く、北アルプスに初めて訪れる単独行である。奥穂や北穂に行けなくても、前穂高岳迄往復できれば、其れだけで満足だと思った。

しかし、そうと決めてから、相変わらずインターネットの記事を物色しているうちに、徐々に欲が湧いてくるように膨らんでいった。穂高岳と謂えば無条件で奥穂高岳のことである。前穂と、奥穂へ向かう吊り尾根の分岐点、紀美子平から二時間で、到達できるのである。折角上高地迄準備を整えて(交通費も掛けて)、前穂で帰ってくると謂うのも、随分勿体無い話ではないかと、そう思い始めた。吊尾根のトラバース道で、涸沢カール、そして槍ヶ岳を始めとした、あの北アルプス其の物と謂える絶景を享受できるのではないか。其れをみすみす、前穂で引き返してくるなんて、何を好んで其のようなストイシズムを味わうつもりなんだ、などと、独り思い悩んでいた。

そんな願望に推移して、私の思惟は、サーフボードが波に乗るような感じで、滑らかに流れていった。やっぱり奥穂迄行かなきゃ嘘だと、勝手に欲望の意思が膨れ上がる。しかし、其処でまた不安な要素が浮かび上がってくる。奥穂へと連なる稜線。泣く子も黙る、西穂からジャンダルムを越えていくナイフリッジには及ばないものの、紀美子平から連なる吊尾根にしたところで、岩の屹立した峻険な稜線である。右も左も分からない初心者の私が、楽に通過できるようなコースであるのだろうか、と謂う不安が先ず浮かんだ。そして、テント泊装備の重いザックを背負って、初体験の難路に踏み出すと謂うことへの懸念が重みを増してくるように、私の脳裏に広がってきた。此れ迄の僅かな幕営行の経験から、重いザックの、ずっしりとした感覚が想起されてきて、私は机上で暗澹たる気分になる。

吊尾根を重装備の負荷に耐えながら歩くのも不安だが、しかし奥穂の頂にも立ちたい。そんな思惑の末、私は奇妙なプランを考えた。岳沢小屋のテン場で幕営は決まっているので、翌朝はテントを其の儘にして荷物を置いた儘にする。するとザックの中身は相対的に軽くなる。重太郎新道を紀美子平迄登り、当初の目的だった前穂には向かわず、其の儘軽快な出で立ちで、いよいよ吊尾根に突入する。昭文社のコースタイムでは、岳沢小屋から奥穂高岳迄正味五時間である。夜明けとともに出発すれば、午前中に到達できる。そして、其の儘同じ道を引き返してくれば、下り基調でコースタイムは三時間半である。時間が掛かったとしても、午後四時には、岳沢のテントに帰還できる。私はそう思い始めた。最初の謙虚な態度は何処に行ったのかと思う程であった。

高速道路を下りて、島々へと走るバスの車窓の右手に、山なみが迫ってきた。徳本峠、蝶ヶ岳、そして常念岳。私は見えもしないのに其の山脈を想像して、心が躍るとはこういうことかと思った。梓川が水瓶湖を作るのを見ながら遡行してバスは走っていく。マイカー規制の標識を何度も迎えて、いよいよ釜トンネルに突入した。抜け出たら上高地である。

最初、其れ程の感動は覚えなかった。軽井沢辺りの上品な森林の中と謂う感じがしたのは、帝国ホテルの佇まいの所為かもしれない。しかし、やがて穂高岳の全容が唐突に現われた時、云い様の無い感銘を受けた。其れは、まるでスポットライトを浴びた巨大な造形物のように、独立して在った。私は茫然と其れを眺めていた。そんな私の感慨とは無関係に、バスは何事も無いと謂う感じで、あっさり上高地バスターミナルに到着した。其処に下り立った私の足は、全く地についている感じがしなかった。私の身体が、何か別のもののような気がして、直ぐに歩き出すことが、できないでいたのだった。

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コメント

上高地ですね。

中編、後編が楽しみです。

世話人さん、
ありがとうございます。

初心者の北アルプス記録、ご期待ください(笑)

七目さんを北アルプスへと導いたウェストンの力ってすごいな!
本を読んで、その山に行きたくなってしまう。
そんな登山の理由もありなんじゃないかと思います。

行きたい山に行く!
己の欲望のままに行動する。
これだよね~。

なかなか思い通りにならない人生なのだから、山くらい好き勝手に歩かせてよ~~~!
そんな行動心理を誰にも止められないし、止める権利も無いと思います。

山は人を選びません、人が山を選ぶのです。

な~んてな…。

まあ、条件が整えば、どんな高峰でも女神の祝福を与えてくれることでしょう。

あとは、七目さんのほんの一握りの勇気と行動力ときっかけです。

おとといは、いろいろありがとうございました~。
うっかりしてたんだけど、丹沢の地図にサイン書いてもらうの忘れてたよ~~~~~!
自分は書いたのになあ。(笑)

かずさん、

先日はありがとうございました。やっとお会いできました。
丹沢地図にサイン・・・してなかった?
ほろ酔いで覚えてませんでした(笑)

山を歩いて、歴史に思いを馳せたり、地形を確認したりと、
とにかく漫然としないで登るのが愉しいですね。

かずさんのように、じゅくりメモしたり、記録しながら歩く姿に憧れます。

勇気と行動力、なにか足りないみたいです。
この続きに綴る予定であります。

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