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笹子雁ヶ腹摺山を越えて甲斐大和駅(前編)

2010/7/11

笹子駅(8:40)---笹子雁ヶ腹摺山---米沢山---お坊山---景徳院---甲斐大和駅 (14:00)

雨中行軍は覚悟の上で、完全に鈍った体躯に鞭打つかのように、笹子にやってきた。この三週間で、私は心身ともに疲れきってしまったようだ。其れは全く個人的な物語なので書く必要も無い。この蒸し暑い季節に笹子雁ヶ腹摺山を目指すのは、殆ど去年の行程をなぞっているだけのような気もするが、前日の灼熱の晴天から打って変わって日中から雨になることはほぼ確実な予報なので、寧ろ雨に打たれて行く登山に食指を動かされたような気がしないでもない。

快適とは言えない甲州街道を歩き、登山口に近づく手前で年配男性二人組に追いつきそうになったから、私は手前の新中橋のバス停で休憩しようとMに提案した。少し残った昨夜の酒と睡眠不足の余波は未だ身体の奥底に残っているようだったので、私は敢えて握り飯を頬張り冷たい茶をごくごくと飲んでみた。体力よりも気力というか、山に登る喜びという率直な意思が湧き上がってこない自分を感じて、少し不安になる。

登山口で案の定座り込んで休んでいる件の二人組に挨拶するが、話に夢中なのか無視されてしまった。決まり悪い感じで、其の儘山道に入っていく。植林地帯の薄暗いプロローグ。そして狭い登り口は丸太が敷き詰めてあって、慎重に歩を進めていく。其の途中で、眼を見張るほど巨大な蜂に出くわし、私は及び腰の儘、少し足元をぐらつかせて通過した。ジグザグの急な登りが間もなく始まった。此れを登りきると小さな鉄塔に辿り着く。何時もは其処まで軽々と登り続けられていた筈だったが、今日は少し急な登りをこなしたら直ぐに立ち止まって休んでしまう。言葉を発しないMの様子は、私に対する懸念が湧き上がっている所以だと感じる。

ミニ鉄塔の、開けた場所に辿り着いた時、心底疲れを受け入れてしまった私は、あーもう疲れた、と独り言を謂った。珍しいな、と言葉少なに謂うMに、三週間ですっかり体力が落ちてしまった、ブランクだね、というようなことを釈明するように、私は言った。凍らせてきた浄水器で濾過した水を、後先も考えずにがぶがぶ飲んだ。其れは明らかにバテを誘発する行為だと知っていても止められない。

そして笹子雁ヶ腹摺山の、未だ前衛の尾根を辿る途中で、私は何度となく休み、水を飲んだ。山登りを始めて二年余りだが、まるで最初の頃に喘ぎながら登った大倉尾根のことを思い出させるような、疲れきった自分が居た。近年稀に見るバテ加減だ、と、自嘲気味にMに謂った。Mは、近年稀に見る、という台詞が気に入ったようだった。標高1000メートルを越える頃、木々が繁る季節にも係わらず、笹子雁ヶ腹摺山の全容が垣間見えた。チャームポイントの反射板が斑のように黒ずんで見えた。錆びているのかな、などと二人で謂い合った。

指標から右に90度くらい舵を切るように曲がり、細い尾根を、目標の山容を真正面にして進み、程なく本体の山肌にとりつく急登にかかる。曇天で風が強くなってきて、其れが却って体力を復調させるほど涼しかったから、私は少し気力が増してきたように感じた。去年、相模湖駅から高尾山の項で登場したNと彼の義弟君と、四人で笹子雁ヶ腹摺山を目指したことがあった。登り始めから急なルートであるから、ミニ鉄塔に辿り着いた時、頂上ですか?と義弟君が言うくらい足並みは揃わなかった。其れは本体に登頂した時、Nがもう膝の限界だと謂って、笹子峠に下りることになるという結末にもなった。其れくらい急でハードな登山道ではあるが、当時脚を余すくらいの健脚を誇った私の今日の足取りは未だ覚束無い。最後の急登から反射板迄、休むことなく登り続けることができたのに、今日はもう三回くらい立ち止まっている。鼓動が強くて、心臓は大丈夫なんだろうかと、そんな心配迄する始末だった。

笹子雁ヶ腹摺山は端整な形の、ぽっかりと聳えている山で、其れはこれから向かう米沢山やトクモリ、お坊山もそっくりだ。おむすび山がぽこんぽこんと並んで居て、我々は其れ等を丹念に登って降りて、また登って行く予定である。反射板は笹子雁ヶ腹摺山というおむすび型ロボットのコックピットみたいだ。自分でも信じられないくらい後ろ向きな姿勢で登ってきたが、反射板迄来て、やっと自分を信じる力が蘇ってくるような、そんな気分だった。反射板は錆びているのではなく、コーティングされていた銀色の箔が剥がれてきているというような様相だった。

狭くて木々が繁茂していて、しかも蠅が煩い頂上だが、秀麗富岳12景である笹子雁ヶ腹摺山からは当然富士山が見えることもなく、辺りには厚くてグレートーンを湛えた雲が広がるばかりだった。昼食を摂っていたMも、蠅のおかげでのんびりできない様子であったから、早速米沢山目指して、折角登った頂上から急降下するように下っていった。ロープを伝って足元に緊張感が高まり、笹子雁ヶ腹摺山を滑り落ちるようにして離れていく。そんな時、とうとう周囲に靄が立ち込めてきて、ぽつりと、ドアをノックするかのように落ちてきた水滴に気づいた。

程なく、霧なのか雨なのかわからないくらい繊細なミストシャワーが、笹子峠の山々に降り注がれてきた。私は、どうにでもなれ、というような気分で、其れを無為な気持ちで受け止めた。そして茫洋とした儘、歩き続けていた。

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