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2010年3月

塔ノ岳・書策小屋跡・政次郎尾根


2010/03/20


大倉(8:40)---大倉尾根---塔ノ岳---新大日---書策小屋---政次郎尾根---戸沢---大倉(14:50)


悪天候は兎も角として、緩やかな行程が続いたから、今度はひたすら登り続けたいという気持ちだけで、Mと私は大倉バス停にやって来た。大倉尾根を塔ノ岳迄ひたすら登り続けるというだけの目的なので、Mは莫迦尾根をピストンして早く打ち上げをしたいという雰囲気だったが、私は折角なので下りを変えて知らないルートを歩こうと提案した。塔ノ岳から表尾根へ、途中から分かれる政次郎尾根を下って戸沢迄歩いてみたい。内心の私は三ノ塔からヤビツ峠迄を歩いたことがないので、大倉尾根から表尾根を踏破してみたいという欲求もある。しかし、何故だかMは表尾根に関心が薄いようで、表尾根に向かおうと言っても返事が芳しくない。今迄も表尾根に行ってみよう、と誘っても「あの辺は蛭が多いから」と、根拠が曖昧なことを言ったりしていた。地図を示して、塔ノ岳から大して歩かないうちに表尾根を外れること、戸沢から大倉迄は林道なので、距離があるように見えるが所要時間は其れ程かからない、というポイントを説明して、なんとか説得することができた。


大陸からの黄砂の影響があるのか、晴れてはいるが遠い山並みや、秦野市街の遠景が薄ぼんやりとしている。植樹祭による特需なのか、登り始めてから暫くは、重機の作業音が五月蠅いから観音茶屋から尾根上を目指し、逃げるようにして脚を早めていく。雑事場の平は今日も休んでいる人が多くてゆっくりできない。歩きながら呼吸を整え、見晴茶屋から第一弾の急傾斜が始まる。Mに初めて連れて来られた時は、この階段で三回は休んだものだった、というような感慨に耽りながら一歩ずつ脚を上げて進んでいく。登りきったら木の歩道が渡してある処を緩やかに登っていく。急登に続いて断続的に登る道は、遠く迄見通せるくらい真っ直ぐ続いていて、その視覚効果が手伝っているからなのか、案外辛い。


駒止茶屋迄来ると気持ちが落ち着く。平坦な道を、表尾根を右手に見ながら、強風が吹き荒れながらも春らしい空気を感じながら歩く。左手に見える筈の富士山は、他の山並みが見える分だけ、何故だか忽然と姿を消してしまったかのように、其れだけが見えないという感じで眺めることができなかった。


其れ程急いだ気持ちは無かったが、堀山の家に到着したら一時間二十分が経過していた。普段より十分位早い。握り飯を食べて少し休憩していたら、その傍らにザックがどすんと下ろされてぎょっとする。単独の中年男性は、素振りだけではなく、ラジオを鳴らした儘向かいの席に座る程行儀が悪い。そして、ぶうぶうと洟をかみ始めたので、慌てて立ち去ることにした。


前回の丹沢で転倒し負傷した花立迄の道なので、私は人知れず慎重に登って行った。崩壊していた木段が新しくなっていて、有り難いことだが、其れ故に登らされているような感覚が強くなって、却って疲労感を覚える。天神尾根分岐を過ぎて登ったら現れるベンチのある平坦な場所に、木の通路が新設されていた。確かに泥濘が発生しやすい場所だが、広場という雰囲気が無くなってしまったような気がして、私は腑に落ちない気分で其処を通り過ぎた。ざらざらした岩場を延々と登り、漸く風景が一望できる処まで来たが、相模湾も今日は霞んで見ることができない。最初の頃は、何度も彼方を見上げて、何時になったら終わるのだろうと息を切らしたものだった花立山荘迄の階段は、今は覚悟が出来ているので、無心で脚を運んで行くと、呆気なく登りきることができる。眺望は本来の出来ではない花立山荘だったが、先程の不快な休憩をやり直す為に、何時になく長い時間を過ごすことになった。右の訓練所尾根も、左の表尾根も、なんとなく薄い色で累々と連なっていた。


少しの急登でザレ場が広がり、深呼吸して、金冷やし迄のアップダウンを行き、道は次第に泥濘が増えてきた。Mは前回の悪夢が甦ってきたのか、泥濘を執拗に避けて歩く。最後の木段を無心で登り、冷たい風が吹き荒れる塔ノ岳に着いた。蛭ヶ岳も不動ノ峰も、やはり薄い色で並んでいる。私は我慢していた煙草を燻らせる。ひたすら苦しい登りをこなすだけで、気持ちを浄化することができる。其れが改めて、不思議だな、と感じた。


中で暖まっている人で満員の尊仏山荘を尻目に、我々は早速表尾根に進路を取る。強風は冷たさを抑えながらも、其の勢いは増してきた。泥濘も更に増えて、Mはロープの柵を越えて並行して歩き始めた。気持ちは分かるが丹沢の保全という観点からするとマナー違反である。言葉で指摘せずに、私は仕切られた泥濘の登山道を歩き続けたので、Mも仕方なく本線に戻った。無風で温かい木ノ又小屋のベンチは、若いグループで占拠されていたので、其の儘直進し、新大日に到着する。此処で昼食の大休憩にした。


案外景色がいいな、とMが言うので、改めて抱いてきた疑念の為に、表尾根は何時頃歩いたのか、と訊くと、いや初めて、と答える。何故歩いたこともないのに蛭が沢山居るなどと言っていたのか理解に苦しむ。Mは塔ノ岳から先の、丹沢山から蛭ヶ岳へのルートが丹沢の醍醐味と言い、其れは私も全く否定しないが、だからと言って表尾根を否定する理由は見つからない。ガイドブックの巻頭に出ている観光ルートという印象だけで避けているのか、莫迦尾根を過剰に贔屓しているのか、どちらかなのだろうと憶測した。


新大日から表尾根に出ると、果てしなく広がる空の下を行く尾根道である。真正面に三ノ塔が聳えていて、其の手前に連なる山々へと向かって道が続いている。私は今迄表尾根を行く時は悪天候に遭ったことが無くて、今日も風に吹かれながら太陽の恩恵と共に歩いている。なだらかに下って、登り返すと直ぐに書策小屋である。しかし、辿り着いたら、見慣れた廃屋の姿は無くなっていて、焚火の煙と、大勢の人がたむろしている小高い丘だった。


書策を、かいさく、と読むことも知らなかった初心者の私は、其の廃屋が渋谷書策という人が建てて住んでいたということを知る筈も無かった。インターネットの効能で、気になるローカル有名人のことも簡単に調べることができるようになったから、この趣の有る廃屋の軌跡に思いを馳せながら、何度かこの場所に佇んだのであった。其れは何時でも暖かな日差しの下であって、廃れた小屋の中の惨憺たる有様は、長閑さの中に際立つ違和感を醸し出していた。其処だけ、時間が止まっているような感じがした。


私は自分が何故山に登ろうとしているのか解らない。脚が痺れる迄疲れきってから、そこで夢から覚めたように長い距離を歩いてきた自分への、何とも言えない感慨を覚える。私の心に隙間があって、其れは恣意的に埋めることができない。私が私で無くなる位、苦しみの果てに呼吸をして、喉が渇いたら潤して、其れだけで充足できるという、無意識に生きることを望んでいる部分が有るから、広がる空の下に在るのに時が止まったような廃屋の、闇を内包した佇まいに共感を覚えるのだ。書策小屋は、そんな異様な雰囲気で、私の中に存在していたのだと思う。


書策小屋のトタンが綺麗に畳んで梱包して積まれていて、焼却の煙の中で人々が作業を終えて安堵している。私は何ともいえない気持ちで立ち止まり、其の風景を眺めていた。休憩場所のベンチに、写真が入った額縁が置かれていた。立派な角の牡鹿と、渋谷書策さんのポートレイトの、手札サイズの写真が二枚並んで額装されたものだった。小屋の中に飾ってあったものだろう。私は何の関わりも無い人間だが、万感に至るような気持ちに捕らわれてしまった。其れから少しして、渋谷書策さんの写真が妙に粒子が荒れていて、周縁にマーカーで塗りつぶした部分があることに気付いた。其れはテレビの画面を複写した写真だった。取材を受けた番組のひとコマがお気に入りだったのか、誰かから贈られたものなのか。私は何故か、テレビ画面のテロップ部分を黒く塗り潰して迄飾るという無頓着な行為に、好感を覚えた。


勝手に感慨に耽っている私の心の裡を知る由もなく、Mは遥かに広がる丹沢山塊の風光明媚を眺め浸っている。表尾根を再評価してくれているといいけどね、と、私は独りごちた。


書策新道に下るという突発的な行動への衝動に駆られるが、今日こそは何のアクシデントにも遭わず下山したいというMへの配慮を重んじて、其の儘尾根を直進して下って行く。程なく戸沢という指標が現われ、右折して政次郎尾根に踏み入った。細い崖に沿った道で、ひたすら勾配をジグザグに下りて行く。眼下に漸く樹林帯が現われたら、左手に見えていた三ノ塔は、何時しか見上げるような位置に聳え立っていた。


賑やかだった表尾根から外れて、誰にも出会わなくなったな、と思ったら、高齢の女性二人組が登ってきて吃驚した。二人の年齢は親子くらいの差だろうか、後から登ってきたお婆さんは、古希どころか傘寿にも達しようかと思しき風貌だった。挨拶したら、もうお帰りですか、と訊かれた。そして、やっぱり早く出かけなければ駄目ね、と、独り言のような感じで呟いた。私は自然と、お婆さんの前に立ち止まった儘、言葉を待った。山の上はどうでしたか、と訊かれ、私は、塔ノ岳は凄い強風でした。だから私は新大日でお昼御飯にしました、と、莫迦みたいに丁寧に、何かを報告するような感じで答えた。


そうですか、と、お婆さんは静かに言った。それではお気をつけて、と、ふたたび静かに歩いて行った。私は茫然と彼女の後姿を見上げて、其の儘、動けなくなったように立ち尽くしていた。


私の時間が、自分で制御することができないような感じで、止まってしまったかのようだった。



補記


インターネットのニュース記事より。


『不法投棄物や廃虚となった建造物など丹沢の「ごみ汚染」問題に県、秦野市、丹沢山小屋組合などが21日、初の「表丹沢クリーン大作戦」を実施する。企業や山岳関係者など50団体に協力を要請しており、登山経験のある市民ボランティアの参加も呼び掛けている。回収した不燃物などはヘリコプターで搬送する。
クリーン作戦は、大倉登山口から塔ノ岳を経て書策小屋までとヤビツ峠から書策小屋までの2ルートで、登山道周辺に散乱しているペットボトル、瓶、空き缶などを中心に回収する。参加者数は約500人を見込んでいる。
登山道周辺や斜面に放置された朽ちたドラム缶、機械部品、トタン板、埋められていたが地表に露出した瓶、空き缶などの回収や、廃虚となった建造物の解体作業は、13日以降、山岳関係者や山小屋組合関係者が行う予定だ』(20103月)

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相模湖駅から高尾山.(後編)


2010/03/07


相模湖駅(10:00)---大平小屋跡---明王峠---堂所山---影信山---小仏峠---城山---一丁平---高尾山---薬王院---清滝駅(16:40)


矢の音山を巻くような登り道に入り、右手が開けてきたが、一面の霧だった。雨は強くも弱くもならず、着実に降り続いていた。私は少し後続を気にしながら歩いたが、此の傾斜も長くは続かない。小さな尾根を進むとやがて寂しげな矢の音山への分岐に着く。少し休んで下りになって、吉野方面からの道と合流し、また軽い登りと、そしてまた下って、栃谷坂沢林道に出る。好天ならば休憩したくなるような処だが、相変わらず皆は私が休もうという素振りを見せても同調して呉れない。若しかしたら、皆は早く山歩きを終えて麓で飲み会に突入したいとでも思っているのだろうか、という考えが浮かぶ。未だ全行程からすると序章に過ぎない地点に居るから、少し考えを修正して、影信山に早く着き、きのこラーメンでも食べて暖まりたいという考えなのかも、と憶測を立ててみた。相模湖駅辺りで、Nが矢鱈と、きのこラーメンという単語を発していたのを思い出した。


お前等何でザックを置いて休まないんだと詰問する訳にもいかないし、私はふたたび先頭に立って林道を横切り、急勾配の入口に向かった。途中に有る石投げ地蔵で漸く皆が案内板の説明文を眺めたりして小休止した。木の階段が現われて、断続的に登っていたら、呆気なく明王峠に着いた。


雨宿りできる茶屋のベンチで漸く大休止する。風は無いが開けた峠は徐々に冷えてくる。MとNはもう食事にしようと言うが、私は影信山でなめこ汁と一緒に握り飯を食べるけど皆ご自由にと答えた。Nは、其れもいいな、では握り飯は取って置いてカップ麺を食べるかと言って魔法瓶を取り出した。義弟君は電車を乗り過ごした位慌てて出かけてきたので、其の余波なのか、準備しておいた行動食をすっかりザックに入れ忘れてきたという。Nは、さすが義兄というべきか、カップ麺をもうひとつ余計に持って来ていて、恐縮する義弟君にお湯を注いでやっている。後輩君はソツのない準備であって、握り飯やカロリー補給食品などを齧っている。Mは黙々と握り飯を食べている。


普段はひっきりなしにハイカーやランナーが往来する明王峠だが、今日は誰も現われない。後は影信山へと向かって県境の尾根を歩いて行くだけである、と思っていたが、此処から意外に難渋することになった。多くの人が踏んでいる整備された道は、連日の雨で所々が水溜りになっていた。広い幅の道は殆どが池のように水が溜まっているから、必然的にざぶざぶと靴を水に浸して進まざるを得ない。泥濘と水溜りが延々と続き、所々に有る指導標で道を確認しながら、速度を上げられずに進んだ。


ところで暫くスイッチバック登山靴のことに触れていなかったが、前々回の大田峠から扇山の時から履いていて、前回のゴンザス尾根も終始履き続けていた。足首の痛みは殆ど無くなっていて、下りでは何時ふたたび訪れるのかという危惧と若干の恐怖はあれど、不思議だが段々と馴染んできている。今日の私は雨合羽の上だけ着用し、下半身はウール地のニッカズボンの儘だが、ロングスパッツにスイッチバックの組み合わせで、泥濘も全く気にならないので快適に歩行できている。問題はMで、彼は今回のコースを余程軽視していたのか、背中はデイパックで、足元はメレル社製のローカット靴であるカメレオンを履いて来ていた。スパッツを装着していても、表面の地が柔らかい靴はドロドロの茶色になっている。ゴアテックス仕様とは謂え染みていないのか、と聞くと、何時もの強情張りで、全く問題無いと答える。本当だろうかと疑念が湧く。デイパックに入らないのでストックも持参していない。こんなに装備が手薄なMは初めてである。


行く先から道は逸れてしまうが堂所山へと登り、其処から下る時に、とうとうNが泥濘に滑り転んだ。橙色の雨合羽が泥まみれになる。其の後、尾根は小さなピークが時折現われながら続くが、指導標に巻き道が有る場合は巻き道へ行こうと、Nが断固として主張するようになった。巻き道は概して水溜りが多いような気がしたが、被害者を尊重して粛々と進む。


随分歩いたなと思った頃、巻き道の無い登りが始まり、漸く影信山かと思ったら、小高い唯のピークだった。其処から下る道は大きく抉られたようになっていて、泥濘は見るからに滑りそうな感じだった。慎重に、靴を横に向けて、スキー板のエッジを利かせるようにして、時折ずずっと滑るのを堪えながら下って行った。背後で、Nが後輩君に、滑りそうだからと謂って前屈みになると却って良くないんだ、というような訓示を与えているのが聞こえてきて、其の直後に鈍い音がしたので振り返って見たら、Nがふたたび転んだのだった。言ってる傍から自分が転んだので気の毒だなと思う間もなく、思いがけないことが起こった。立ち上がりかけたNの背後から、滑って転んで仰向けになって其のままずり落ちてきたMが追突し、二人は揃って泥濘を転げるようにして坂をずるずると落ちて、やがて止まった。


Nは免疫があるから笑うしかないという風情だったが、Mはまるで世界の終わりがやってきたかのように、悲劇的な状況を其れでも受け入れ難いというような、そんな様子だった。

私とMだけが、雨合羽のズボンの方を穿いていなかった。私がそうなので断言できるが、こんなコースで転ぶ訳が無いという慢心に依るものである。あまっさえ、Mは今朝の電車内で、随分軽装だな、という私の問いに、このパンツは素材はおろか縫合も良く出来ている逸品なのだと豪語していたのである。ホグロフス社製の格好良い彼のズボンは見事に泥だらけになってしまった。ストック無しがこんなに大きな代償とは、と思う。


満身創痍で下り終えて、惨劇と言って余りある状況だったが、気がつくと義弟君は未だ坂の上に居た。少し思案した後、彼は道を大きく逸れて、泥濘の無い木々を渡り歩くように、ジグザグに下りてきた。中々上手いコース取りだねと感心して言ったら、この靴なので必死ですと答えた。彼の靴は其程貧相には見えないが、Mに、ゴアテックス仕様で無いので此れじゃ大変だと、散々脅されていたのであった。皮肉と言えば皮肉な状況になってきている。


興奮冷めやらずも雨中の道は延々と続き、本能的に巻き道が現われたら巻き道へと進んでいたら、何時の間にか影信山まで巻いてしまっていた。今迄あんなに指導標が有ったのに、肝心のところで何の印も無いのが不思議だった。小仏峠からの道を、其れでも我々は素直に影信小屋を目指して登り始めた。


なめこ汁だとかきのこラーメンとか、本気で其れが在ると思ってきたのが我ながら可笑しい。影信山の山頂には人っ子ひとり居る筈もなく、小屋も当然無人で、雨は霙から大粒の雪が横殴りに降り注ぐ迄になっていた。屋根の有る休憩所で、皆は茫然と立ち尽くした儘だった。私は其れでも空腹なので、予定通り握り飯を冷たい麦茶で食べる。そして、遅ればせながら雨合羽のズボンを取り出して穿いた。複雑な表情で私を見ながらMは、俺はこの儘じゃ店にも入れないから下山したら雨具に穿き替えるよ、と言った。気の毒である。


前回に引き続き、惨憺たる状況だが、高尾山域に入って精神的に楽になったからだろうか、何故かエスケープして高尾に下りようという意見もなく、我々は小仏峠を目指した。此処からはNが先頭になって、私が丁度真ん中の位置になった。Nは意外に早いペースで歩き、後輩君が続いたが、私は徐々に遅れて、引き離されていった。脚がだるくなって来ていた。小仏峠から城山までは時折巻き道が現われ、今度はNが其の都度、どうする、と私に言うから、勿論登るさ、と意地になって応える。


城山でひと休みしてからいよいよゴールへと進路を東へ取る。思えばこんなに人が居ない高尾山一帯を見るのは初めてであって、其れは其れで面白い風景だなと感じる。整備された木の段は如何にも滑りそうで、時折藁のゴザが敷いてあると安心して早足になる。一目散に高尾山を目指していたが、Nは律儀に一丁平の展望台へと分かれる道に登って行く。広々とした展望台は白い霧に覆われていた。我々は見えれば素晴らしい筈の景色に向かって、それぞれが無言で佇んでいた。Nがカメラをセルフタイマーにして段差の上に置いた。全員で記念写真を撮った。どんな顔で写っているのかと、想像するだけで可笑しくなる。


泥濘と水溜りで覚束無い足取りに神経を遣い、そして結果的にはかなりの距離を歩いてきたから、高尾山の手前で、私はかなり疲労を覚えて、足の裏も痛くなってきた。富士見台への階段で、後ろの義弟君とMに追い越されて、よろよろと登っていたらNが手摺に寄り掛かって休んでいた。やっぱり飛ばし過ぎたよ、と言ってNは中々休憩をやめなかった。


自動販売機に商品を搬入している人が居るだけの、静かな高尾山の頂に着き、皆で健闘を讃え合った。もう早く下りて麦酒飲もうとNが言い、お腹がグーグー鳴ってます、と義弟君。山登りって大変なんだなあ。勉強になりました、とは後輩君である。Mはまるで仕事で高尾山にやってきた人みたいに真剣な顔で、舗装路の多い1号路を通って下りよう、と言った。


車道を兼ねた道は杉並木に覆われ、雨に煙っている。私が余りに遅いので、Nのグループは先に行って姿が見えなくなった。Mとふたりで、ゆっくりと歩く。私は体力の限界で、Mは精神力の限界を迎えようとしていた。薬王院の裏から階段を下りて、お堂に向かって手を合わせる。本堂への階段から見下ろす霧の中の薬王院は、まるで深山の幽谷に建つ秘境のお寺みたいだった。山門で皆が待っていた。


もうケーブルカーに乗ろうと、全員一致で決まって、駅に向かって歩く。こんな雨だが観光客がちらほらと現われる。変な話だが、女の子のスカート姿がものすごく刺戟的に感じてしまう。独りで勝手に照れるように俯いて歩いていて、気がつくと仲間は既に遠く先を歩いていた。慌てて、待ってくれよう、と、漫画のエンディングみたいな感じで、私は杉並木の中を、走って行った。


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相模湖駅から高尾山.(前編)


2010/03/07


相模湖駅(10:00)---大平小屋跡---明王峠---堂所山---影信山---小仏峠---城山---一丁平---高尾山---薬王院---清滝駅(16:40)


三月七日の山登りは友人も子供二人と山登りに参加するということなので宜しく、という家人から来た携帯メールを見て虚を衝かれたような気持ちだった。三月七日に妻子共々家族で山に行くということが決まっていたかのような文面だが、私には全く記憶が無かったからだ。後厄もとっくに過ぎて、自分でも自分の記憶力には殆ど自信が無い。外出する時には、財布と鍵と携帯電話機と煙草と携帯灰皿と、此等のどれかひとつは忘れてしまう。気付くのは何時も玄関から出て直ぐのことなので、慌てて忘れ物を取りに戻る。其れは日常的な事柄である。だから私が忘却していたのだろうとは思う。


虚を衝かれる程動揺したのは、其の直前にMから来ていたメールがあって「三月七日、Nは山行き大丈夫だとのことなので宜しく。何処に行こうか」というものだったからであった。大田峠での彷徨の末、扇山に登った前回から数週間は経っていて、そろそろMから誘いが来るだろうという頃だったが、明確に三月七日と、次の日程が決めてあったのだろうか。私には記憶が無かった。しかし自分の記憶力に自信が無い私としては、そうか次は七日だったか、其れならそうなのだろうと思い、何処に行こうか、などと考えている間に前述の家人からのメールが届いたのであった。


私はMとNに、三月七日は妻子と妻の友人と其の子供二人が参加するので宜しく、妻の友人の次男は三歳児とのこと、と返信した。Nから、其れなら俺も息子を連れて行くと返信が来た。数時間後、ふたたびNから、義弟が娘と参加する、とのメール。Nから更に数時間後、職場の後輩も山登りを始めてみたいので参加したいとのことで参加するというメールが来た。そして更に数時間後、NとMと私の共通の友人であるTが夫婦で参加するというメッセージが届くに至った。頭の中で数えてみたら、総勢15名だった。かなりの間を置いてMから、すごいことになったな、というメールが来た。


集合場所の高尾駅は、雨で濡れていた。数日前からの気象予報で、当日は完全に雨だということが明らかになったので、女子供はいち早く順延を訴えて欠席し、T夫妻が続いて辞退を表明し、残った物好きは前回の三人に加えてNの義弟と、Nの職場の後輩の計五人。雨は冷たく断続的に降り続いていたが、其れでも高尾駅には合羽の登山姿に身を包んだ老人グループなどが降り立ち、賑やかな感じだった。中央本線の電車に乗り込むが、義弟君だけが姿を現わさない。扉が閉まって、電車は走り出した。


延々と走り、次の停車駅である相模湖で下りる。初心者と子供が参加するということで、行く先は影信山と決まっていた。しかし男五人ならばせめて陣馬山くらいは登ろうなどと言って集合したのであるが、悪天候を目の当たりにして、手前の明王峠に登り、高尾山迄踏破しつつ、早めに下りて飲み会にしようということになった。一本後の電車が相模湖に到着して、頭を掻きながら義弟君が降りてきた。


相模湖駅から線路沿いに藤野方面に歩き、直ぐに中央高速道路を跨ぐ歩道橋が現われる。其の階段はかなり長くて急な傾斜だった。登りきったところで「けっこうキツイっすね」と義弟君が言う。長い階段を登っただけで喘いでいる彼は空手家だそうだが、柔和で低姿勢で、とてもそんな風に見えない。未だ歩道橋の上に来ただけだが、息が上がっている。大丈夫なのだろうか。


与瀬神社の門を入り、更に段差が高く急傾斜の古い階段を登りきった時は、もう体が暑くなって、Mと私は合羽の下のフリースジャケットを脱いだ。Nと後輩君は厳重に着込んだ上下の合羽に身を包んだ儘で、義弟君はユニクロ製の化繊のジャケットにダウンのベストという恰好で、既に雨に濡れて萎れたようなシルエットだ。

我々は神社の左手に廻り込み、明王峠への登山口に向かった。Mの指示で、私、後輩君、N、義弟君、Mの順番で列を成して、登り始めた。


概ね緩やかな尾根道を辿るであろう今日のコースで、おそらく最初の取り付きが最も登っている感じがするのではないかと思い、私は敢えて相模湖を見下ろすベンチの展望地まで、休まずに歩き続けた。辿り着いた処は霧の中で、中央道の歩道橋からは水墨画のように見えた石老山も、眼下に見える筈の相模湖も、何もかも見えなかった。私は雨露を浴びながら煙草を燻らせて休憩した。しかし他の四人はザックも下ろさず立ち話をしていて、雨中の展望台で憩うという余地は無い感じであった。


山稜を登りきって、ほぼ平坦な樹林帯を黙々と歩き続ける。地図上で見る子孫山の頭、大明神山の、それぞれ巻き道を辿り、朽ち果てた大平小屋跡が忽然と姿を現わした。此処で皆漸く荷を下ろして休憩となる。私は、此の儘のペースだと早く着いてしまいそうだな、と呟いた。Nが、先頭のペースが速いよ、と言う。後輩君が思わず同感、といった風に首肯する。後輩君はテニス部出身の上級者とのことで、見るからに精悍な顔立ちで男前である。義弟君と謂い後輩君と謂い、私なぞに比べれば圧倒的に体力の根拠が裏打ちされた経歴の持ち主であるから、私は構わず自分のペースで歩いて来たが、気配りが足らなかったようである。


雨は弱まる気配もなく、大平小屋の残骸は薄暗い峠にじっと佇んで居る。

私は、また煙草を燻らせる。吐く息の白さと煙が混じり合って、霧の中へと漂い、そして消えていった。


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ゴンザス尾根から本仁田山(後編)

2010/02/21


白丸駅(9:40)---日向---ゴンザス尾根---花折戸尾根---本仁田山---瘤高山---大根山ノ神---鳩ノ巣駅(15:00)


静寂の中に居るような気もするが、陽光を木洩れ日のように浴びて、其れを肌で感じていると、彼是考えて居る自分の意識の慌しさが滑稽にさえ思えてくる。また雪の塊が落ちて、その物音で我に返る。私は漸く立ち上がり、緩慢な動きで荷を整えた。


花折戸尾根に合流して、雪化粧した枯木の道を歩き始めた。休み過ぎた後の体躯は心なしか重い。私はサクサクと音を立てて雪を踏みながら、まるで自分の意思ではないような動きで、ゆっくりと歩き続けた。


鳩ノ巣駅から花折戸尾根を経由して本仁田山へ、過去二度程登ったことがある。夏は鬱蒼とした樹林の中を、ひたすらに汗が頬に伝うのを感じつつ俯きながら登った。秋に再訪した時は、繁茂した藪が廃れているかという期待が打ち砕かれ、やはり蒸し暑い中を登った。本仁田山の手前で天候が怪しくなり、風が強くなって木々が擦れ合い、ざわめきのような激しい音を立て始めた。自然の気まぐれな変化の渦中で、私は成す術もなく、ひとつの生き物に過ぎない自分を意識して、時々、木々が激しく揺れる様を見あげながら、怯えて登った。


真冬の花折戸尾根の、初めて見るような景色にある種の感慨に耽りながら歩き続けていたら、チクマ山に着いた。今迄見たことの無かった、こんもりと鎮座している本仁田山の全景を木立の隙間越しに眺める。これから尾根を伝ってあの山の腹に突き当たり、そして最後の急登が待っている。私は、挫折しなくてよかったと、此処で初めて思った。


少し下って、ふたたび雪林の中を進んで行くと、徐々に何かの気配を感じてきた。行く手の先に見えたものが、最初は何なのか分からなかった。

其れは焚火だった。ぱちぱちと音を立てている。其の端に、橙色の服を着た年配の男性が、剥き出しになった猟銃を杖のように立てて、暖をとっていた。


立ち止まり、ハンターのおじさんに会釈した。此処迄誰とも出会わずに歩いてきて、突然人間に遭遇したという単純な安堵感が、焚火の炎からの暖気とともに、緩やかな感じで私の中を満たしていった。しかし、私の浪漫的感慨を打ち砕くかのように、猟師のおじさんは、シンプルでリアリスティックな助言を呉れた。


「今日はあちこちで撃ってるから気をつけてね」


私は唖然として、そして吃りながら、き、気をつけるとは、どういう感じなのでしょうか、というような言葉で訊いた。彼は少し困ったような表情で、まあ気をつけるしかないなあ、と、そう言うしかないという感じで言った。猟銃の射程距離などの知識など持たない私には、流れ弾とか散弾銃などという単語が頭の中を駆け巡るばかりだった。余程の狼狽振りが気の毒に思ったのか、身振りから察すると花折戸尾根一帯を指すような感じで、まあこの辺は俺一人だけだから、と言った。言外に、お前が登っていく本仁田山方面に向かって撃たなければ大丈夫だから心配無用、と言っているのだと受け止めて、私は納得しようとした。

しかしおじさんはふと思い出したように、


「あっちにも一人居るんだよなあ」と、大休場尾根の方を指して呟いた。


其れは、と言いかけて、私は絶句した。どういう意味なのだろうか。その場で身動きができなくなり、私は冷水を浴びたような気持ちで、暫く焚火の前に立ち尽くして居た。やっぱり帰ればよかった、と、舌の根も乾かないうちにそう思ってしまったのも否めない。私は弱々しく、しかし体裁を繕うかのように会釈してその場から離れて、機械仕掛けの人形のようにぎこちなく、本仁田山の方向へと体を向けた。


無造作に剥き出しの儘の鉄砲を見て萎縮したからなのか。私は異常なくらい怯えて歩き続けた。徐々に本仁田山に近づいていく尾根の途上で、私の挙動は、辺りをきょろきょろと見回していて、全く不自然であった。左手に見える大休場尾根方面の下方から、犬の吠える声が聞こえてきて、私はそれだけで立ち止まってしまった。禍々しい気配のする方向を盾にするように、太い樹木や、大きな岩の陰に身を潜めるようにして静止して居た。ふたたび、生きた心地も無く歩き始める。本仁田山の山肌に到達して、急登が始まった。間もなく彼方から発砲の音が聞こえて、私は木に隠れるようにして凭れて、立ち竦んだ。


なんでこんなに怖いのだろう、と自分に対して思った。誰も踏み入れないような道を辿って山を登って道に迷ったとする。若し遭難したら、若し此の儘死んでしまったら、という恐怖感に苛まれたとしても、そもそもは自分が勝手に行動した結果のことであって、誰が関知することでもないと思えば諦めもつく筈なのではと、想像してみる。私は人間という小さな存在だし、何百年も、あるいはもっと昔から只存在し続ける此の自然体な山々の中で、朽ち果てて土になってしまったとしても大勢に影響など全く無いのだと考えることもできる。其れなのに今はこんなに怖い。山歩きをしていれば、遠くに聞こえる猟銃の音などは珍しくも無いことだ。しかし、今は其れが総毛立つような恐怖感を煽り立ててくる。自然と相対化して想像する自分の存在。卑小な存在である自分、という或る種被虐的な妄想は、人為的な揚句の流れ弾で死にたくないという現実感で微塵に粉砕される。要するに何処の誰だか分からない人間の所為で死ぬのは真っ平で、自然に風化されて死にたいという、屈折した想念が私には或って、其れ故に此の言いようの無い恐怖感が湧き上がってきているのに違いない。私は只怖くて怯えているのではないのだ。そして其れは…。


急登は一気に開始されて、澱みなく続いた。本仁田山へ登っているんだな、ということを実感できる急勾配だ。孤独感と恐怖感は、取留めのないことを考えながら登っているうちに、やがて原初的な肉体的苦悶との戦いに呑み込まれていった。そして気がついたら、大休場尾根との合流地点に辿り着いていた。


本仁田山の頂上へ続く静かな道で、助かった、と声に出た。直ぐに山頂が現われた。いつしか厚い雲が空を覆って居たが、風は殆ど無いので寒さを感じない。シートを広げて寛ぐ人々が居て、下山の途に就こうとしている若い男女の二人組が居る。開けた方と反対側の木立ちの合間から遠く富士山が見える筈だが、鉛色の空しか見えなかった。


長居は無用だった。私は、早く大根山ノ神に下りて、死ななかった御礼をしなければ、と思いながら、ザックを背負い直した。

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